第3話 ホールド・オン
ぼくは、ジョン・レノンの “ホールド・オン” という曲が好きで、よく口ずさんでいだ。
ホールド・オン、ジョン! ジョン、ホールド・オン! イッツ・ゴナ・ビー・オーライト!
( しっかり、ジョン! ジョン、しっかり! すべて、うまくいくから )
ジョンを、オレに変えて歌ったりもした。
ホールド・オン、オレ! オレ、ホールド・オン! イッツ・ゴナ・ビー・オーライト!
「初詣、どうする?」
「だるいから、いい!」
大野の家と我が家は、歩いて数分で行き来できる距離にあった。
元旦は大野の家の二階の彼の部屋にいた。前夜の大晦日から共に過ごし、新年を迎えていた。
「おまえ、どうして野球やらないんだ?」
「どうしてかなあ…… 結局、情熱が足りないんだよな、きっと……」
「じゃあ、他に、なにやるんだ?」
「そうだな…… まあ、今、探してるってとこかなあ…… とにかく、気がついたんだ。野球は、オレが一生かけていくものじゃないなって……」
「おやじさん、がっかりしてるだろう?」
「まあね、あんなふうに野球キチガイだからね…… オレって、ちょっと、まわりの期待に素直に生きすぎるんだよな。もし家業が町医者かなんかで、どうしても医者になってくれ、だとか言われてたら、きっと野球なんかやってなかったぜ。おやじが、野球選手のなりそこないだったからさ」
「けど、そんなふうに、おやじさんとやってこれたなんて、なんだか、うらやましいけどな」
「そうか? オレはおまえみたいに、親からいっさい干渉されずに、やりたいことができて、また、それがはっきり決まってるやつが、うらやましいけどな」
「オレは別に、やりたいことがはっきり決まってるって、わけじゃないぜ。やりたくないことが、はっきり言えるだけだよ」
「それだよ、オレなんか、自分で自分がよくわかってない。だから、とりあえず一度、野球やめることにしたわけ。やりたくなったら、またやれば、いいだろう……」
大野とは、幼稚園から高校まで、ずっといっしょだった。だが、性格から食べ物の好みにいたるまで似たところなど、なにもないように思えた。それなのに自然に付き合ってきた。友人であるべきかどうかなんて考える必要などなかった。それほど、小さいころからいっしょに過ごして、互いに慣れ親しんでいた。
彼の両親はとても仲がよかった。そして、ひとりっ子の彼を一心に愛した。とくに父親が夢中になって彼を愛した。ぼくらが小学生のころ、休日に大野を訪ねると、たいてい彼らは親子でキャッチボールをしていた。そして、ぼくらをいろいろな行楽地へ連れて行ってくれだ。
そのころ、ぼくがいつも彼をうらやましく思ったのはそのことだった。親子の絆の強さだ。ぼくは、自分と父との絆の希薄さをいつも意識していた。父はい つも仕事とゴルフに忙しく、家に長くいたことがなかった。そのせいもあってか、父の心の中にまっすぐに飛び込んで行けない壁のようなものがあった。それ がなんなのか判然とはしないのだが、父子の間にあるべき、なにかが足りなかった気がする。
だから、大野と彼の父との関係をいつも、うらやましく思うのだ。今では、彼らは兄弟か友人のように見える。野球をやめると決めた時でも、反対する父を説得するというより、がっかりする父をどう慰めるかを、彼は考えていたようにさえ見えた。
「野球の代わりになにをやりたいのか、おやじさんに言ってあげなきゃな……」
「そうだな…… まあ、しばらくは、おやじの顔見ないことにしてる……」
「………………」
「おまえは、やっぱり、音楽をやるのか?」
「どうだろう、そんなに上手くいくとも思えないし…… 詩人とか小説家とか、そんなことができたらいいかなあ」
「実は、オレ… 政治とかに、ちょっと関心があるんだ。そんなのって、今どき人気ないけどな……」
「そう? 悪くはないと思うけど……」
「………………」
「たしかに、簡単に、口にはしにくいかもな……」
「だろう?」
大野の意外な一面を知って、ぼくは少々驚いた。だから彼は、野球が将来の障害にならないように、進路から外しておきたかったのだ。それに比べてぼくは、ミュージシャンだ、詩人だと、衝動的で夢みたいなことばかり言っていた。すでに実績を立てた野球を捨てるという彼には、完全に負けているように感じた。
親は、子供がいつまでも子供でないことを知るべきだ。子供は親の見えない所に自分の大人を蓄積している。だが、普通の家庭にいる子供は、あえてそれは見せない。期待されても困るし、守ってくれる家族がいるなら、できるだけ安楽にしていたいので、自分の中で起こった変化は隠そうとする。
時々、ぼくは自分が親になる時のことを想像することがあった。それは、もちろん見当もつかないことではあったのだが。とにかく、子供本人が望まないことを要求する親にだけはなるまいと思っていた。たとえばタイムマシンがあったなら、過去のある時点の自分に必要なアドバイスを与えに行くだろう。どんなに他人にとって価値があっても、最終的に必要ないものを与えても意味はない。最も自分を知る者ならそうするのだ。だから、親は子供が言葉にしなくとも、心の中を理解できなければならないのだ。
「もし、自分が親になったら、どう子供を育てると思う?」
「さあ…… それより、だれと、どうやって結婚するかの方が先だぜ」
「そりゃ、そうだな……」
「ところで、おまえ、彼女とはどうなんだ……?」
「妙子ちゃん?」
「なんだか、おかしなことに、なってやしないかって、言ってんだよ」
「ぜんぜん、おかしくなんかないぜ」
大野は、正月ぐらい大目に見るてくれるだろうと言いながら、こっそり持ち出してきた彼の父のロバート・ブラウンをコーラに注いでいだ。あの頃、ぼくらが時々飲んだのは、コーク・ハイだった。彼はそのグラスを持ち上げて言った。
「乾杯してやろうか? 男と女の友情に──」
「べつに、男と女に友情が成立するかどうかの実験をしてるわけじゃないぜ。ただ彼女、ある意味ストイックでさ、おまえの考えるようなお決まりのパターンにはまらないだけさ」
「あっそう…… だけど川端まで、そうやって、いつまで付き合うかな?」
「………………?」
「川端のやつ、妙子ちゃんに熱上げているぜ。わかってんだろう? あいつ、オレにもそのこと、もらしたんだ…… とにかく、こんな時は我慢できなくなって、先に口に出した方が勝ちさ──たのむからオレに譲ってくれって」
「やつの自由さ。お互いがそう望むんだったら、オレには関係ない」
「わかった! おまえ、妙子ちゃんが川端なんかに、なびくわけないって計算してんだろう? それは思い上がりだぜ。でなきゃ、馬鹿だ。女心がまったくわかってない」
その時、ぼくには彼の言ったことがわからなかった。そして確かに、女心がわからなかった。そして、妙子の心の中にも、ちゃんと女心が入っているということも……
クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの “雨を見たかい” を、ぼくらは練習曲にしていた。なんと言ってもコードの難易度が低く、ギターの初心者に打って付けだった。
晴れの日に降ってくる雨を見たことがあるか? と歌うこの曲は、ベトナム反戦歌だったらしい。その雨とは、ナパーム弾を意味しているのだという。当時はなにも分からずに歌っていた。冒頭のダウン、アップ、ダウンのジャカジャンというギターの響きが印象的で素敵な曲だった。
だが、残念なことに、ボーカルの最高音が出るか出ないかのギリギリの限界点だった。いいと思う曲はいつもそうだった。ギターが弾けそうでも、声が簡単に出ない。また逆に簡単に歌えても、今度はギターが難し過ぎたりと、なかなか思い通りにならないものだった。
「なあ、オリジナル、作ろうぜ。 E と A と G だけで、声が楽に出る曲、作っちゃえば、楽勝!」
「なに言ってんだ… 練習! 練習! 練習!」
「そう、そう。コピーが完璧にできないバンドに未来はない!」
「石田、発音は悪くないと思うぜ。りっぱな南部訛りだし……」
「えっ! この歌、訛りだったの?」
「知らねえで、歌ってんのかよ! ちなみに、ビートルズはリバプール訛りらしい」
「ビートルズも? なんだ、みんな田舎モンだったん…ダベか?」
当時、学校に軽音楽部などという便利なものがなかった。だから、練習は川端の住んでいた団地の集会所を借りることがベストだった。ドラムスのセットは彼の家にあったが、運ぶ手段がぼくらにはなかった。ギターやベース、アンプは頑張ればバスに乗って運ぶことはできたが、川端の楽器はそうはいかなかった。そのため、集合してできる練習は、せいぜい月一回か、二回だった。
練習後に、川端宅の台所のダイニングテーブルで、バンド名を決める会議をしたことがあった。三人で、思いつく名をひたすら言い続けていた。やがてアイデアが枯れ果てて、目につく物を片っ端から言い始めるようなことになった。コーヒーカップ、サランラップ、フォークとナイフ、といった具合に。忘れられないのは、“かけたお茶碗 ” が出た時だった。三人で笑い転げ、会議は中断を余儀なくされた。今思いだすと、なぜあんなに可笑しかったのか、全くの謎なのだが……
西山が、流し台にあった食器洗剤の名 “ママレモン”と言った時、それをちょっとひねって、“ママリンゴ” とぼくが言い、それいいかも! と、川端が頷き、ぼくらは、半年ほど、ママリンゴだった。
その後、ビートルズの曲名を借りて、“ヤー・ブルース・バンド” となり、ブルースをやってる訳ではないからと、ブルースを外して、“ヤー・バンド” という実にシンプルな名前に落ち着いた。
大野の言った通りになった。
川端は抑えきれない恋の衝動の激しさを、ぼくに打ち明けた。
がんばれよと、ぼくは言った。
彼は小躍りして、妙子のもとへ走り、そして妙子がそれを承諾した。
ぼくは平静をよそおい、三人の関係はこれからも、少しも変わらないのだと思い込もうとした。事実その後もしばらく、なにごともなかったように、三人で過ごしていた。だが、桜の季節が過ぎ、新緑の季節も終わり、また夏休みを迎えようとする頃、そんな空々しい関係が彼らにとって、急に気詰まりになっていた。心が開放されないまま、夏を迎えたくなかったからだろう。夏はいつも恋の季節なのだから。
彼らにハッピーエンドまで呼び出され、行ってみると、頼んでもいないのに、ぼくのためのパートナーを、妙子が友人の中から一人選んで連れて来ていた。
一目見て、互いに気が合わないとすぐに感じた。なぜ妙子が彼女を選んだのか分からなかった。タイプがまったく違うことぐらい分かっていたはずなのに……
その日の別れ際、川端に言った。
「もう、受験勉強も追い込みだから、しばらく遊ぶのよそうぜ」
なにか鈍い音を立てて、彼と自分とを繋いでいたものが、切れたように思えた。
受験勉強も追い込みなどとは、まったくの嘘で、なにも手につかなかった。だが、受験を口実にするのが、彼らと会うのを避ける一番の方法だった。当然、ヤー・バンドは早くも事実上の解散となった。
とにかく、勉強しているふりはしなければならなかった。しかし、ふりをしているだけでは、大学受験は越えられなかった。
妙子も川端も、同じだっただろう。
三人の冒険者達は、道を失い、ピノキオのようにロバになり果てていた。
ぼくは受験に失敗し、浪人となった。妙子はエスカレーター式で入学できる女子大に行き、川端は以前から縁のあった楽器屋の店員になってしまった。そのころ、彼らとは、ほとんど電話での短いやりとりだけになっていた。
浪人生活は、まったくひどいものだった。予備校は三ヶ月でついていけなくなってしまった。ただ部屋に引きこもって、自堕落な暮らしをしていた。受験にはまったく役立ちそうもない読書に耽り、音楽に溺れ、とりとめもない詩をノートに殴り書きした。夜明けまで眠れず、そして明るくなってから狂ったように惰眠を貪った。
起きるのは昼をとうに過ぎてからだった。目覚めると、陽がすでに西に落ちていたことさえあった。
どんどん、自分というものが、ドロドロに溶けて形を失い、なくなってしまうような気がした。
くる日も、くる日も、なんのために生きているのかなどと、答えの出ない問を繰り返したりしていた。
死後の世界についても、なにかに取り憑かれたように考えていた。
それはまるで、特別なものと出会うために必要であったかのような、儀式のような日々だった。
ある日、書店でなにげなく手にした一冊の本、“スエーデンボルグの霊界著述” を一夜で読み終え、霊界が存在することを、ぼくの意識が初めて認めた。無の世界という世界があるより、霊の世界という世界があった方が、より自然だと感じたからだ。
十月のある日、妙子から電話があった。会いたいという、久しぶりの声だった。妙子は川端のいないところで話したいことがあり、ぼくはスエーデンボルグのことを彼女に話したくてたまらなかった。
待ち合わせたのは、回転花壇のみえる、いつものハッピーエンドだった。
「つまり、霊界というのは、今いるこの世界よりも次元の高い世界だと思うんだ。コミュニケイションの手段だって、想念の交通とか言って、テレパシーの ような方法で手っ取り早くすむ。嘘もつけないけど、誤解も生じない。そして、会いたいと願うだけでその人に会える、時間と空間を超越した世界さ。それ に、霊界では経済活動の必要がないんだよ。食事しなくたって、死なないんだから」
「もう、すでに死んでるからね……」
「そういうこと!」
「だけど、あまり言いふらさないほうが、いいわよ。とくに自殺志願者には……」
「そうだね…… きみに言ったのは、まずかったかな?」
「まさか!」
その日妙子は、なんだか気が沈んでいるようだった。あるいは、そんなふうに見せていたのだろうか。ぼくの頭の上の空気をぼんやりと見ていた。
「わたしの中学生の時の友達にね、親が外交官だとか、毎年海外旅行に行くとか、自分をよく見せようとする嘘をつくような子がいたの。そんな許せないほどのひどい嘘じゃなかったけど…… それが、すぐばれるような嘘なのよね。だから、だれも本気で付き合わなくなって、最後にはわたししか、話す相手もいなくなったの。だから、その子のためだと思って、嘘はやめなさいって言ったの。そしたら、ひどく傷ついて、落ち込んじゃっ て…… たった一人の友達だと思っていたわたしに、そう言われたのが、かなりショックだったのよね。その子にとっては、嘘もコミュニケーションの方法の一つなの。そんな子は霊界では、どうなるの?」
「たぶん…… 嘘をつかなければならない関係の人と、いっしょにいることさえできないんじゃないかと思う。そもそも霊界では、価値観の違う者どうしでは、いっしょにいられないと思うよ。愛の消え失せた夫婦や恋人達も……」
妙子は会話の間合いを少しとってから、顔と声の調子を明るく変えて言った。
「ねえ、働かなくてもいいのなら、霊界ではみんな、なにをして暮らしているの?」
「一番やりたいことをやっているのさ! 音楽や芸術!」
「芸術のわからない人は?」
「あきるまで、車の運転でもしてんじゃない。ポルシェに、フェラーリ、ランボルギーニ・カウンタック。この世で、手が出せなかった名車」
「あなたなら、なにをする?」
「やっぱり音楽かな。きみは?」
「わからない……」
「これから、さがせよ」
「……ねえ、愛のわからない人は、どうするの?」
「………………?」
「わたしも、霊能者のような人の話を聞いたことがあるの。霊界って、心が実体化したような世界だって。生前に味わったさまざまな情感や体験が、死後の世界の環境にすべて映し出されるように展開しているっていうのよ…… とくに、死の直前の精神状態が……」
「うん、わかってる…… たしかに恐ろしい世界だ」
「友達が一人もない人はどうなるの? まだなにも知らないうちに死んでしまった赤ちゃんは?」
「………………」
「自殺者は?」
「よくわからないけど、けして悲しみや苦痛だけを味わうための世界ではないはずだ! きっと霊界は愛とか真理にしか、価値を見出せない世界なんだ。みんながはっきりと、それを目指すのさ! だからこそ、ここよりもっと次元の高い世界なんだよ。でなきゃ、ぼくらの人生は完結しないじゃないか!」
人生が、死んで終わりだなんて、とうてい納得できる話ではない。それなら、なんのために生まれてきたというのだ?
死後の世界について、それは単なる憶測にすぎないと言った人がいた。つまり、そのような憶測に惑わされることなく、生きることにもっと切実であるべきだというのだ。精一杯、一生懸命、生きなさいということなのだろう。だけど、生と死について考えるのは、けして怠け者だからではない。分からないからだ! 自分の意志で生まれて来たわけではないので、まず目的が分からない。だから、ゴールがどこなのか見えず、暗闇をはいまわるような、そんな不安な境遇で、ぼくらは生きていかなければならない。
もしも、人生がこの地上で息を引き取る日に終わるのだとしたら、そして、墓石の下に白い骨しか残らないとしたら、自殺を望む者をだれが止めることができるだろう?
死者は、星になるのだろうか? 地上に残った者の心の中に入って、ひっそり生きるのだろうか?
終わりがあるからこそ、人生は素晴らしいだなんて、本気で言っているのか? とうてい、納得できるような話ではない!
人生は、永遠だ! 永遠でなければ意味を成さない。結末のない三文映画のような人生などいらない。永遠でなければ、ぼくらの人生は完結しない!
そうだ! 霊界を無視して、人生の意味など絶対に探し出すことはできない。
ぼくらは永遠だ! 永遠でなければ、価値などない!
生き残った者の心の中に、死者が永遠に生きている。もっともらしい誤魔化しには騙されない。終わりがあるから、人生は素晴らしい。本気で言っているのか?
ぼくらは、永遠だ! 永遠でなければ、おかしい!
ぼくは、そんなことを妙子に話し、彼女の同意を求めていた。だが彼女には、そんなぼくの意図など、どうでもいいと言いたげに、考えもしなかったような方向へ会話を引っ張りだすのだった。
「逆の方向にしか行けない人は、どうなるの?」
「地獄のこと?」
「そうよ、地獄はあるわ!」
「行く必要のない世界のことを、考える必要はない!」
「どうして、あなたは地獄が無縁だと言えるの? わたしにとっては、それは避けて通れないものなの…… わたしには、わかるわ──地獄がどんなところか! この目で見たわけじゃないけど…… なぜだか、わかるでしょう?」
「………………?」
「わたしの心の中にそれがあるからよ」
「………………!」
確かに、それはぼくの心の中にもあった。
戦争も飢餓も知らず、父や母がどんな不自由をおまえにさせたかと言いそうな、ぼくの心の中に。
人生の意味も分からず、愛も分からず、闇の迷宮に投げ込まれ、かすかな光の気配を求めて、もどかしく這って行くような心の暗黒に、それがないはずがない。
欲望に引きずられ、他人の心を傷つけながらも、何食わぬ顔で邪悪な尻尾を隠し、ほくそ笑む悪魔のひそむ心の暗闇に、それがないはずがないではないか。
地獄はすでにぼくの中に生まれ、育っている。
しばらく鈍い沈黙が、テーブルを挟んで向かい合っている、ぼくと妙子の間を静かに流れた。
ぼくは、その日、妙子がなにを話したくてやってきたのか、なんとなく察しが付いていた。だが、ずっとその話ができないように、はぐらかしていた。なぜなら、素直になれそうになかったからだった。
「それで…… 川端のやつ元気かい?」
彼の名をやっと、ぼくは口にした。妙子はそれを待っていた。
「ええ、元気よ……」
「……………………」
「ちかごろ、あなたが冷たいって言ってたわ」
「会う理由がないのさ…… レスポールも、アンプも、売ってしまったし……」
「売っちゃったの?」
「うん。それで、アコースティックに持ち替えた。ブルースハープも買って、ほら、ボブ・ディランみたいに、ホルダーで首にかけて吹く小さなハーモニカ。タンブリン蹴りながら歌えば、ワンマン・バンドってわけさ……」
「生活が一変しちゃったからよ。そのうち、また仲間とやりたくなるわ、きっと」
「いや、情熱が足りないのさ…… 才能も」
「………………………」
「………………………」
「わたし、ねえ……」
「うん……?」
「川端くんと、別れようと思うの……」
「………………………」
「タイプが違い過ぎるのよ……」
ぼくはなにも答えなかった。そんなことは、初めから分かっていたはずだった。
ぼくは不機嫌に黙り込んでいた。
ホールド・オン、オレ! オレ、ホールド・オン!
イッツ・ゴナ・ビー・オーライト!
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