第2話 冒険者たち
ぼくのギターのネックは逆反りしていて、トラスロッドの回しようがなかった。開放弦でチューニングに、どんなに神経を使っても、ハイポジションを押さえると、明らかに音がずれていた。ネックが反っていただけではなく、フレット自体が正しい位置に並んでいなかったかもしれない。それでも大切なギターだった。高校一年生の夏休み、兄の友人の父が経営している町工場でアルバイトをして、初めて手にした収入で買ったギターだった。チェリーサンバーストのレスポールモデル。ヘッドには、Gibson に似せた文字が書かれてあった。
冬休みは、ギターアンプを買うために、またアルバイトに追われ、ついにそれを手に入れた冬休みの最後の日、ついに、バンドの結成となった。ベースの西山と、ドラムの川端、ぼくの三人編成。そして、ぼくとは比べ物にならないほどのギターの上級者で、レッド・ツェッペリンの信奉者の同級生が他のバンドを組んでいたが、空いていれば参加してくれた。
西山とはバンド活動以外で、あまり付き合いはなかったが、川端とは、どこへ行くにも一緒だった。
同じように音楽好きといっても、川端とぼくはかなり違っていた。ぼくがメロディー耽美主義なら、彼はヘビーロック主義。ぼくが頭でっかち音楽理論派なら、彼は本能的音楽衝動派。
ぼくはいつも喋っていたが、彼はいつも屈託なく笑っていた。ぼくが、たとえばセックスについて話をする時は唐突で、なぜか過激で、強がったところがあったが、彼が話す時は自然で、やわらかく、しかもユーモラスだった。
彼には、よく似た顔つきの仲のいい妹がいたが、ぼくには、あまり口をきいたことのない兄しかいなかた。
ぼくは人生の意味を求めたが、彼にとっては、ヘアスタイルをどうキメるかの方が重要だった。
ぼくらは、はたして共通の価値観を持っていたのかどうか、よく分からない。再会したとしても、交わす言葉があまりあるようにも思えない。しかし、音楽を愛する少年どうしという、あの時代にしか得られない共有感を味わうことができたからだろう。ぼくらには、なにかピッタリ合うものがあっ た。
缶ビールの味を教えたのは、ぼくで、タバコを無理やり吸わせたのは、彼だった。音楽に強引なメッセージを押し込もうとしたのが、ぼくなら、音楽にそれ以上でもそれ以下でもない神聖さを取り戻そうとしたのは、彼だった。彼は無心でドラムをひたすら叩いて、それ以上のものを望もうとしなかった。
だけど、一言で言えば、ぼくは彼が好きだった。いつも共にいたかった。感動するものを見つけたなら、どんなものであろうと必ず伝えたし、彼もまたそうしてくれた。
妙子のことを川端という親友に隠しておくことが、ぼくには難しかった。だから、夏休みの半ばごろ、ぼくは、川端に彼女をを会わせることにした。その時、川端のために友達を一人連れてきてくれと、妙子に頼むことをしなかった。彼女がぼくにとって、不思議なほど異性を感じさせない相手だったということもあったが、彼女を特別な人だと宣言するには、まだ早いと感じていた。ロングヘアーがぼくの好みだと彼女に告げたくなるるまでは、その時ではないだと。
妙子は当時ではあまり見かけないような驚くほどのショートカットをしていた。だが、彼女がけして魅力的でないわけではなかった。それが証拠に、川端は彼女を一目見るなり、気に入ってしまった。
「こちら、大野の彼女の友達で、妙子ちゃん。いろいろ自殺について、研究してるらしいんだ」
「していたと、過去形で言い直しなさい! 思春期はもう、終わったのよ」
「こいつが川端。ドラムをやってるんだ」
「えっ! ほんと? すごい! ドラムって、練習する場所にこまるんじゃない?」
「いやいや、こいつなら、どこでもやれる。スティックさえあればいいんだから」
「そう、オレは、時間があれば、どこでもやる。休み時間トイレでしゃがむ時も、ガンガン壁を叩くんで、うるさいって、ひんしゅく買ってる」
「ええっ、ほんと?」
「ほんとうさ! こいつ、ノロマだから、そうしないと次の授業までに、トイレから出てこれないんだ、なっ?」
「そう、ノリノリで、まき散らしながら、やっちゃうわけ。さいこうだぜ! だから、すっきり、さわやかコカ・コーラのような男って言われてたんだ」
「うっそぉお!」
妙子が楽しげに、大袈裟なあきれ顔をしてみせる。
そして、すかさず川端がぼくの肩に手をのせて言った。
「ところで、石田って、こいつ、生まれた時からずっと思春期だったって、知ってる?」
「そうさ、死ぬまでずっと、オレは思春期」
「どうりで、変な人だと思ったわ!」
妙子の甲高い笑い声が、いつまでも響いていた。
その夏から、どこへ行くにも、ぼくら三人はいっしょだった。
なにもかも楽しかった。そして、爽やかだった。
ぼくにも、妙子にも、自殺願望が確かにあったはずなのに、すべて溶けてなくなったように思えた。ジョージ・ハリスンの歌う、ヒア・カムズ・ザ・サンが、いつも頭の中に響いていた。
ぼくはだれにも、ぼくらのことを三角関係と言わせるつもりはなかった。それは “冒険者たち” 的関係と呼ぶのが、ふさわしいと思っていた。
“冒険者たち”とは、アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ、ジョアンナ・シムカスが出演していた1967年公開のフランス映画のことだ。二人の男と一人の女が、それぞれの夢が破れ再起のため宝探しの冒険に旅立つ物語なのだが、この三人の関係がとてもピュアなのが印象的な映画だった。そう、三人の関係は爽やかなものだった。それがこの映画の唯一の救いだった。
「わたしたちも、財宝を探しに冒険の旅にでかけましょう!」
そう妙子が言った時、その意味をぼくはすぐに解したが、川端には分からなかった。
「そうだ! ザック、ザックの財宝だあ! 冒険だあぁぁ!」
いつものように脳天気に彼は叫んだ。
ぼくは、ピュアな三人の関係をずっと続けることがきっと可能だと信じていたのだ。それを望めさえすればいいのだと。そして、妙子も同じように望んでいるのだと思った。そういう意味で、財宝を探しに冒険の旅と言ったに違いないのだから……
だが、この映画の結末には死が訪れ、けして幸福なものではない。それは暗い結末を暗示していたのかもしれない。
夏休みが終わり、新学期が始まった。
ぼくは、その夏休みが、すっかり自分を変えてくれたように感じていた。まるで新しく生まれ変わったかのように。
亡霊がいる埃の舞う西の階段も、あの黴臭い科学の実験室も、すべてただの思い込みに過ぎなかったと思えるようになっていた。
そして、彼が自殺した現場を見るのがいやで、ずっと避けていたことに、ぼくは気づいた。
一度ぐらいは、ちゃんと見ておいてもいいかもしれないなどと考えたのは、自分は変わったのだという、新しい思い込みのせいだったに違いない。
よし、と呟いて、裏山に踏み込んだ。
だらし無くうなだれるように葉を垂らし無愛想に立っている並木の間を抜けると、斜面を切り、丸太を横に打って作った階段が、しばらく緩やかに延びている。一段を二歩ずつ、もどかしく登る。四、五十段登ったところで、山道はいったん平坦に拓かれた、ちょっとした広場に出る。
その広場の奥に、二本の木々が寄り添うというより、絡まり合うように立っている。それぞれ違う名を持った樹木だ。片方は桜だとすぐ分かる。もう片方が分からないのだが、広葉樹だ。その絡まりようが、なんとも不気味だ。求め合っているのか、それとも憎み合っているのだろうか? いずれであれ、離れることができない。どっちもそこに根を張ってしまっているのだから。
まったく平気に違いないと自信満々で足を運んでいたはずなのに、そこに漂う気配はただのものではなかった。
聞こえない声しかあげられない二本の木が立っている。もしもその声が聞こえたら、ぼくはまったく違った自分になって、まったく違う向こうの世界へ吸い込まれてしまいそうな気がした。
もう、なんの説明もいらなかった。彼はこの桜の木で、死んだのだ。
そばに、赤い花をさした業務用のイチゴジャムの瓶が置かれている。だれかが来たばかりなのか?
ぼくは、すぐ横にある冷たいコンクリートのベンチに腰をおろした。
ぼくはその時、生と死の間には、やはり定められた境界があり、二つの世界をきちんと隔てているのを感じた。
そこには国境があり、越えることは容易いが、けして戻ってはこれない。
見たこともない風景が広がり、耳にしたこともない音声で言葉が交わされ、まったく知らない法によって支配されている、未知の世界が向こうにあるのだ。
ぼくは今、その境界の近くにいるのだ!
ベンチに腰掛けたまま、放心状態でいたぼくを、だれかが呼んだ。
「…………?」
「どうしたんだ、こんなところで?」
「ああ、先生……」
なんとその時の担任の山口先生が立っていた。なにか答えなければいけなかった。
「なんとなく、ここを見たくて……」
「なにか、わけでも…あるのか?」
「いいえ、とくべつには……」
「そうか……」
山口先生は現代国語の教師だったのだが、この高校の卒業生でもあった。縁があって母校で教鞭をとることになったのだった。
「先生は?」
「オレか? オレは、新たな自殺者が出ないように見廻っているだけさ」
「…………?」
ぼくの様子は明らかに不審に見えたのだ。いや待ってくれ、違うと言いたかったが、慌てるとかえって変だと思い、黙っていた。
きっとかなり危険な状態に見えたのだろう。ゆっくりと、ぼくの横に腰をおろすと、かけるべき言葉を懸命に選んでいるのが分かった。
「なあ、一度おまえに聞きたいと思ってたんだが…… どうしたら、おまえ達のような音楽好きになれるんだ?」
なにを言えばいいのか、すぐに分からなかった。ただ、自分にとっての深い音楽体験に根ざしたことを話せばいいように感じた。
「先生、それは、ほんとうにいい音楽と出会ってないからですよ。体験してみないと、わからないです。たとえば、ライブなんかで絶頂になったら、ミュージ シャンと一体になって、ただもう、うれしくなって、まわりにいるまったく見ず知らずの連中とも、一体になってしまうわけ。同じ音楽を聴いて、同じように感動している相手はもう他人じゃないって感じ…… みんな一体になって、演奏会場全体で、言ってみれば、自分と他人との区別が消えてなくなっているわけ。みんないっしょって感じ。ほんとにいい音楽って、そんな力を持っているんです」
「酒みたいなものか。オレは酒、飲むとそうなるけどな……」
「酒? そんなもんじゃないって! 次元がちがうんです。だいいち、音楽には二日酔いは、ないでしょう」
「ほう、そいつは便利だな…… しかし、そのわりには、ミュージシャンってのは、音楽だけでは我慢できず、酒どころか、マリファナや覚醒剤なんかに手を出して、かんぺきに命を削ってるのもいるだろう」
「それは……」
「それはどうだっていうんだ?」
ぼくはどうにも、うまく説明できないもどかしさに苛立った。
本物のアーチストというものは、生きることの本質を追究する。虚飾や形式、世の中の慣習といったものを限界まで削ぎ落とし、生きるということの、ぎりぎりの輪郭のみを切り取って見せようとする。そして、その生きざまを真っ正直に大衆の目の前に晒す。それこそが魂の自由を勝ち得る唯一の方法と信じて。だが、その時、なにか違う、まったく正反対のものを掴んでしまう。そうだ、そんなふうに思えてならない。しかし、それは心が渇望し指向する方向に、だれより真摯な姿勢で突き進んで行こうとした結果に他ならないのだ。
人間は、生きることに懸命になればなるほど、破滅するように最初からできている。そうとしか考えられないじゃないか!
「命を削って、なぜ悪いんですか? 長生きさえすれば、それでいいんですか!」
しまった…… これでは、ますます怪しまれるではないか!
「………………?」
山口先生は言葉に詰まっていた。先生にしてみれば、むきになって論じ合うために選んだ話題ではなかったのだから。
「先生、ロックミュージシャンが命をけずるのが理解できなくても、ヘミングウェイが自殺したのがどうしてかなら、きっと先生もわかると思います」
「なるほど……」
彼は気の毒なほどやさしい眼差しを作って、ぼくを見ていた。
「ここで死んだ、あいつのこと知ってるか?」
「いいえ、ほとんどなにも……」
「あいつの一年の時の担任が、このオレだったってことも、知らないだろう?」
「えっ……?」
「背丈も中ぐらい、成績も中ぐらい、実に目立たないやつだった。こんなこと言っちゃなんだけど、ほとんど、担任のオレの意識の中にいなかったようなやつだ」
「………………」
「しかし、よくよく思い出してみれば、変わったところがあった。ほら、三学期の初めに短歌をみんなに作らせ、歌集にしたことが、あっただろう? 冬だから、だいたいみんな冬のことを書くものだろう? だが、あいつだけ真夏のことを書いているんだ。おかしなやつだと思ったんだ」
「………………」
「実は、お前たち生徒にはまだ誰にも話してないんだが、自殺騒ぎは今回が初めてじゃない…… オレもここの出身だってことは知ってるだろう? オレの高校時代の級友が…… そいつも、ちょっと変わり者で……」
「…………………」
「ちょうど、十年前だ。同じように、二年生の春、ここで……」
「………………?」
「同じように、そいつも自殺している」
「………………!」
「最初はただ、自殺する奴らってのは、同じような所で死にたがるものだな、としか思わなかったが、よく思い出してみると、二人ともぞっとするほどよく似ているんだ…… なんて言ったいいんだろう、一人だけ違う方向を向いているとでも言うか、とにかく感じがよく似ているんだ。説明しにくいんだが、同じ目をしていたとでも言うか…… そうだ、同じ目の色をしてた気がする」
「…………………」
彼は、ぼくの目の中を突き刺すように覗きながら、こう言った。
「おい、なんだ? そのおまえの目の色は……」
「………………!」
ぼくの困惑するさまを見て、彼はからくり人形のように素早く、大袈裟な笑顔に表情を変えていた。そして、声を上げて笑い出した。
十年前の自殺の話は本当だろうか?
目の色とは?
それとも、あれはただの作り話で、ぼくに自殺の意志がないか確かめるためのものだったのだろうか?
「う・み・だ・あ……」
海は思ったよりも、大きな音をたてていた。波は思ったよりも、もっと白かった。やはり、海は秋がいい。誰もいない海が……
空はしびれるようにどこまでも蒼く、海鳥の鳴く声をはね返しては、すっぽり包み込んでいるように見えた。
三時間もペダルを回し続けて、すっかり、くたびれていた。入江の堤防に並んで腰掛け、真ん中にいた川端のジッポーで、それぞれの煙草に火をつけた。汗で下着のシャツが体に張り付いて、なんともいやな気持ちだった。
それでも渚には、音と光と爽やかな風があった。ほんとうに潮の薫りには驚いた。町にいた時には、鼻が死んでいたのではないかと思うぐらい、なに一つ印象に残る町の嗅覚を思い出せないというのに。
ぼくが二本目の煙草に火をつけた時、妙子が口を開いた。
「わたしたちって、ただ偶然に出会っただけなのかしら?」
「どういうこと?」
川端が聞いた。
「人って、なにかに引き寄せられて、出会ったり、いろんな場所に動いていったりするんじゃないかなって……」
「オレたち、気が合うからいっしょにいて、海が見たいからここに来たのさ!」
「そうね、川端くんの言うとおりだけど…… わたし、このごろよく考えるの…… 石田くんが自殺現場に行った日のことを話してくれたでしょう。山口先生だっけ? 十年前にも、もう一つ自殺があったって」
「なんだ、また、そんなことか?」
つまらなそうに川端が言った。
「うん。自殺は二度あったって……」
「いや、十年前の話は作り話かも知れないよ。調べればわかるかもしれないけど、そこまでやる気も起こらないから……」
川端を横目で見ながら、ぼくが言った。
「わたしは、ほんとうにあったと思うわ…… しかも、それだけじゃなくて、その場所で、それ以前にも何度もあったかも知れないよ……」
妙子はなにを思ってか、そんなことを口にした。
「つまり、あそこは、自殺の名所だってことだ」
川端が、もっと、つまらなそうに言ったが、妙子は話すのをやめなかった。
「わたし、他にもそんな場所があるのを知ってるの」
「自動車事故がきまって、そこで起こるっていう、トンネルの入り口とかだろう?」 川端がまた口を挟んだ。
「ええ…… そういうものそうだけど…… そういうのって、なにかに引き寄せられるように同じ場所に集まってくるのよ、なにかの理由があるかのように……」
「偶然というものはありえないって、言いたいんだろう?」
ぼくには彼女の言いたいことが分かったか。だが、川端にはどうでもいい話だった。海にまで来て、そんな話を聞きたくなかったのだろう。
妙子は、人生で出会うものは、目に見えない糸で繋がっている、というようなことを説明するために話し始めた。
「わたしの先祖は平家だったらしいの…… いなかのおじいちゃん家に、一度だけ行ったことがあるんだけど、それが、すごい山奥なの。山道とおじいちゃんの 家の間には大きな川が流れていて、長い吊り橋がかかっているわけ。それも、その一軒のための専用の吊り橋なのよ。家は山の斜面にあって、下を見たら目も くらむような高いその吊り橋を渡る必要のある人は、おじいちゃんの家に行く人だけなの。今、思えば、なぜあんな不便なところでわざわざ生活しているの かしらって、思うぐらい」
「たぶん、平家の落ち武者の時代から、ずっと代々そこで暮らしているんだろうね」 ぼくの家系もやはり平家と言われていた。そして、父の故郷もやはり、とんでもない山奥にあった。不思議なことに共に同じような血筋の末裔だった。
「そうなのよ、だけど身を隠さなければならない時代ならともかく、おじいちゃんの代までずっとでしょう…… お父さん、長男だったの。いなかに行った帰り道、冗談半分に言っただけど、自分が平家の亡霊から逃げ出すのに成功した初めての長男だって…… わたしが小学三年生の時。今でもその時のこと、 なぜかはっきり覚えているの」
「そのぐらい、いなかから逃げ出したかったってことなんだろう? 代々そこに住んでたわけだって、ふつうの人間が持つ土地に対する愛着心だよ」
そっけなく、川端が言った。彼はけして亡霊を否定したかったわけではなかった。そんな話を好む時は好むのだが、その日は違っていた。
「いいかい? あの自殺の名所はどうしてできたか。首を吊るのにちょうど枝振りのいい木があって、しかも春には、その木がきれいな花をつけてくれるの で、ぱあっと、人生を散らすのにちょうどいいんじゃないかと、思っちゃう奴らが出てきちまうだけ! それから、オレたちの出会いというのは、もちろん 偶然ではない。運命みたいなものさ!」
彼は堤防から浜に飛び降り、ぼくらと向き合って、両腕を横に大きく広げ、芝居のせりふでも言うようにして、言った。
「オレは人生を楽しみたいだけさ!」
潮騒が彼の演技のちょうどいいBGMだった。彼はふらふらと波打ち際まで歩くと、また振り向いた。
ぼくも、彼のいる浜辺の舞台に立ち、彼に向かって叫んだ。
「オレはどうして、ここにいるのか、知りたいだけさ! おまえに言えるのか?」
「ああ、教えてやろう! すべてが夢なんだよ…… 夢ってものは、目が覚めた時、はじめて夢だってことがわかだろう。だからオレはいつも思う、いい夢を見ていたいって! 覚めるまでは、幸福でいられるじゃないか!」
やがて海は、その神秘の力で、ぼくらの興奮と高ぶった神経をすっかり鎮め、心地よい虚脱感へと誘った。
波はしだいに穏やかになり、黄昏前の陽射しの下で、まどろみ、恍惚としているように見えた。
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