ヤー・ブルース
藍野 克美
第1話 自殺志願者
ぼくが高校生だった頃、桜の開花はもっと遅かった。入学式を桜が祝ってくれた。そう、次の学年に進級した時もそうだった。
あれは、二年生に進級したばかりの四月だった。一人の生徒が、校庭の背後に広がる裏山で、満開をやや過ぎた一本の桜の木にぶら下がった。首吊りだった。同学年ではあったが、クラスが別だったこともあり、その自殺した生徒は、全くぼくの記憶にはない少年だった。
一週間ほど過ぎたころ、その自殺の動機だという出来事が明らかになった。彼は、期限切れの定期券を使った電車の不正乗車で補導されていた。当時の定期券は電子化されておらず、駅員に提示するだけだったので、不正使用が容易だった。当然学校にも通報されて、それを苦に自殺に至ったというのだ。だが、それ以外のこと、いじめに遇っていたとか、家庭内に問題があったとか、そんな話は微塵も聞くことはなかった。それどころか、だれも、彼のことを詳しく知っている者がいないというのだった。
「奇妙なやつだった。存在感がまるでないんだ。いなくなっても、だれも気がつかないような……」
一年生の時、同級生だったという生徒がそう言った。
「最期にやっと自己主張したんだろう……」
大方の生徒は、そんなことで自殺するなど馬鹿のすることだと、決めつけるように言い放った。しかし、ぼくは、それは違うと思った。
自殺者に必要なのは、自殺を実行するためのきっかけだ。だからそれは、ちょっとしたインパクトになった出来事に過ぎない。自殺志願者は、その日が来るのをずっと待っているのだ。自殺することは、すでに決定済みなのだが、それをある意味、無期限に延期し続けた結果、外から見ると、普通の日々を送っているように見えているに過ぎないのだ。
自殺の動機など探って、どんな意味があるのだろう? 動機と呼ぶべきものは、表面に見えるものだけではない。心の奥深くに、さまざまなことが重なりながら、複合的に成立しているものではないか? たとえば、不確かな将来に対する漠然とした不安。日々途切れることのない不快感。他人を見れば、常にそこにある嫌悪感。けして止むことのないストレスの長雨。いつも崖っぷちに立っているようなプレッシャー。喪失。裏切り。挫折。苦痛。後悔。
そんな人生の暗い迷路を抜け出す最後の手段として、片手にいつも握っていた、見えない拳銃の引き金を、自殺者は、ついに引くのだ!
なぜなら、手っ取り早いからだ! もう、それ以上、何のためかと問う必要はない。そして、もう知る必要もない。どこまで行けば、終わるのか? 安息できるのか?
そうだ! ぼくだって、死にたいと思うことは何度もあった。
ただ、逃げ出せばいいだけだ。実に単純なことではないか。勝てないのなら、パワーが足りないのなら、嫌なものからは逃げるしかない。
自殺の動機など探っても、やはり無意味だ。自殺者は──存在したから、死ねたのだ。ただ、それだけだ……
学校には円筒形の校舎があった。そんな形状だったため、ほとんど陽光の差し込まない教室があった。科学の実験室も、そんな部屋の一つだった。そこではいつも、薬品のものとも、黴のものとも判別のつかない、嫌な臭いがしてた。ぼくは科学が苦手だった。担当の教師が好きになれなかったこともあって、とにかく実験室にいる時間は、いつも憂鬱だった。
そして、その校舎にはある奇妙な噂があった。西側の階段だけが、なぜか他の階段とは違う不気味で複雑な足音がするというものだった。自分一人しかいないのに、だれかもう一人の足音が重なって聞こえるというのだ。ただ、それは、学校の《カイダン》というわけで、だれかが飛ばして調子よく連鎖した、ただの駄洒落のはずだった。ところが、あの自殺騒ぎを境に、 それは本当かもしれないと、何人もの生徒が言い始めた。
ある日のこと、ぼくは追ってくる足音を振りはらうように跳躍し、階段の踊り場で足を止めた。振り向かず、ただ耳を澄ました。すべての足音は消えていた。放課後の無人の校舎は完全な静寂を保っていた。
階段の亡霊も今、息を殺しているのだろうか?
それとも、恐怖心が聞かせたただの幻聴だったのか?
窓からは、西日が強く差し込んでいた。眩しかった。その中に舞う無数の埃を見つけ、ぼくは思わず息を止めた。
こんなものを吸っているのか! いくら息を止めたって、きっと、どこにでも埃は舞っている。いつも、気づかないまま、吸っているのだ! きっと、だんだん、病気になっていく!
ふと、その時ぼくは思った。彼を殺したのは、ここの不気味な音や暗い空気の臭いだったのか知れない……
ぼくが通った高校は、小高い丘陵の中腹にあった。三つに分かれた運動場と、六つの校舎の敷地は、斜面を切り開いて造成されていた。その後ろには、雑木林に覆われた裏山がそのまま残っていた。
そこは街とは、まったく隔絶された場所だった。唯一専用道路が一本、下界と学校とをつないでいて、ぼくは駅から出るス クールバスに乗って、通学していた。教師たちはそこを絶好の教育環境と呼んだが、生徒たちは、そこは精神病院だと言った。なぜなら、そこは 男子校だった。ロマンス溢れるバラ色の学園とは呼べないのが大きかった。
ぼくは、音楽好きな仲間が集まるグループの中にいつもいた。仲間たちはブルース系のロックや、ブリティッシュ・プログレッシヴ・ロックを好んで聴いていた。ミュージックライフ誌を持ち歩き、誰もがミュージシャンに憧れ、口を開けばほとんど音楽のことばかりだった。
そして、それ以外の関心事といえば、女子以外になかった。男子校にいることとは、宿命的に女子の日照り状態から逃れられないことだった。その上ぼくらは、ルックスもぱっとせず、ほとんど例外なくモテるようなタイプではなかった。今にして思えば、あのころのぼくのような、キング・クリムゾンやピンク・フロイドを夢中なってに聴いているような気難しい少年に、まともで上手な恋のアプ ローチなどできるわけもなかった。普通の娘の目から見れば、まさしく問題外と言わざる得ないような男子だった。
満たされずにできた胸の空白には、ぜんぶ音楽を詰めていた。
だが、ぼくは、いつか目と目で火花を散らすような女子との運命的な出逢いがきっと起こると信じていた。そんな日は突然やってくるから、ガツガツせずに待つ以外にないのだと、仲間たちに言ってもいた。
「石田、おまえに女を紹介してやるよ」
突然、大野が訪ねてくるなり、そう言った。
友人の中に、一人だけモテる男がいた。大野とは、幼い頃からの付き合いだったが、彼はいつも野球部の活動に追われていて、顔を合 わすことさえ珍しくなっていた。高校時代、さっぱり冴えなかったぼくとは違い、彼はさわやかな甲子園球児という、紛れもないヒーローだった。一年生からエース投手で四番打者。初戦で敗れ たとは言え、野球の伝統などまったくない我が校を甲子園へと導いた一番の殊勲者だった。身長一八三センチ、目もとは涼しく、学業成 績も悪くなかった。おまけに、中学から付き合っているガールフレンドまでいた。
「おまえ、このごろ少し、変だからな。女とでも付き合った方がいいぞ」
「なにが、変なんだ!」
「裏山は血を求めている…… 次の生け贄は石田だと、言ってるやつ、いるぜ」
もちろん、そんなことを言うのは、彼自身に違いなかった。
次の日から夏休みという日だった。本当なら野球漬けの毎日になるはずなのだが、大野には転機が訪れていた。突然、退部届を出し、人生について考えると宣言し、ちょっとした騒ぎを起こしたばかりだった。彼にとっては、ジュニアリーグからの野球生活を離れて初めて迎える夏休みだった。だから、初めての本当の夏休みといったところだっただろう。だが、ぼくらには金がなかったし、遊ぶことにも慣れていなかった。思い出すたび苦笑するのだが、ぼくらには実際、あの程度の計画しか立てられなかった。
「一日、きっちり遊ぼうぜ! まずはプールでひと泳ぎし、午後は、白鳥池で貸しボート。それから、のんびり散歩でもして、夕方、めし食って、映画、見に行こう!」
そんな経緯で、大野のガールフレンドが友達を一人連れてきて、翌日のダブルデートは絶好の晴天にも恵まれ、ひどく暑い日だったのを覚えている。その頃のぼくにとって、出来過ぎた一日だったかも知れない。映画が終わって、知り合ったばかりの彼女を駅まで見送った別れ際にさっそく、すぐ翌日の約束を取り付けるのに成功していたのだから。
洒落た服も靴もなかったし、とにかく金がなかった。
高校に上がってから、夏休みも、冬休みも、アルバイトに勤しんでいたというのに、レコードと楽器にそのほとんどを費やしていた。当時、ビンテージだと言って、膝の抜けたジーンズをはく者などいなかった。それなのに、あと一押で抜けそうなジーパンばかりだった。問題はそんなことより、デートに必要な軍資金だった。せいぜい喫茶店でお茶するのがやっとの懐状態だった。
それでも彼女ならどうにかなるように思えた。
「それで…… 目から火花は、散った…わけ ?」
前日のダブルデートで過ごしたばかりの、緑地公園のボート池の岸辺をのんびりと散策し、回転花壇を一回りして、花時計の前で立ち止まると、すぐ左手に “ハッピーエンド” という名の雑然とした喫茶店があった。一番奥の落ち着けそうなテーブルにつき、二人ともコーラをオーダーして いた。
「目から火花が散るような相手としか、付き合わないんだって、昨日、言ってたでしょう?」
初めて会う相手に対して、自分が気難しい性格の持ち主であることを印象づけるような、明らかな失言を、ぼくはしていた。
「ああ……」
ぼくは自分で、頭のてっぺんを拳骨で、軽くと叩き、戯けて言った。
「今、目からなにか、飛び出さなかった ?」
彼女はさりげなく、調子を合わせて、笑った。
「よかったわ、思ったより、明るい人なんだ……」
「………………?」
「学校で自殺した人──いるんでしょう ? その人を弁護するみたいに、同情的なことばかり言って、このごろ少し変だって、大野君、心配してるよ」
「…………………」
少し躊躇ったが、ぼくは自殺志願者が持つ見えない拳銃について、彼女に語って聞かせることにした。
「つまり、自殺の動機や原因を探すなんて、ほとんど無意味なことなんだ。あえて言うなら、存在したから、自殺できたのさ!」
そんな訳の分からない理屈に、不思議なことに、彼女は何度も頷いていた。
「わかるわ……」
「わかるだろう? だから、オレはもっと前のことが知りたい。生まれてくる、もっと前のこと…… オレ達がなぜ存在することになったかを……」
以外なことに彼女は、そんな話題にはっきりと興味を示していた。
いや、むしろ彼女の方が選んでいたのだと、言うべきだったかもしれない。
「そうね、どうして生まれてきたのか分からないまま、生きているなんて、ほんとうは、おかしなことだわ……」
「そう、それから死の意味についても知るべきだ。人生について解らないことが多すぎる……」
そろそろ、話題を変えようと思った時だった。
「自殺したいって、思ったことってない?」
「自殺? いや、オレは、ないね!」
きっぱりと否定したのは、女子というものは誰でもそんな話は好まないものだと、その時は、まだ思い込んでいたからだ。
ところが彼女は、思ってもみなかったことを語りはじめ、ぼくを驚かせたのだ。
「わたしは、自殺したいって、いつも思ってたの…… 方法もいろいろ考えたりしたし…… 笑わないでね。道具まで作ったのよ。電気コードを両手に巻けるようにし て、コンセントタイマーに差し込んで、いつでも使えるように、押し入れに隠していたこともあった。睡眠薬と併用すればいいと思って…… たぶん、いつでも その気になれば、死ねるってことが、大切なことだったの…… もう終わったことのように言ったけど、今でも、まだ、立ち直ったとは言えないかな……」
彼女はごく自然なことのようにそう話し、なぜだか、ぼくもそれをできるだけ普通のことのように受け止めようとしていた。だれでも一度ぐらいは、自殺を願ったことはあるはずだし、ぼくにも死にたいと思ったことは何度もあった。だがそれは簡単に、他人に話せることではない。それなのに、ほとんど初対面に近いぼくに対して、こうも、なんの戸惑いもなく話す彼女には、正直なところ驚いていた。だが、彼女には、なにか逆らうことのできない不思議な力があった。おそらく彼女には、自殺について深く考察してきた時間が充分あり、その知識と経験のようなものが、ぼくよりも上手のように思え、一目置かないわけにはいかなかったのだ。
「ねえ、あなたの学校の人だけど──消えて無くなりたいだけの人が、わざわざ首吊りなんて、派手な方法を選んだりするかしら?」
「そうだね。方法は他にもいくらでもあるんだからね……」
「でも、わかるような気もするわ。ほら、自殺する人のたいていが、自殺予告をするって、聞いたことな い? 突然、親しい友達なんかに、力のない声で電話かけてきて──じゃあ、元気でね、とかなんとか言って、プッツリ電話を切るわけ。きっと心のど こかで、気づいて止めてほしいって思っているのよ」
「いたわりとか、やさしさがほしいし…… また延期できるかもしれないし……」
「そう。だけど、だれも助けてくれず、すっかり見捨てられてしまったような気持ちになってしまったら、できるだけハデに死んでしまいたくなるものなのよ……」
「そうだね。それに、彼は木にぶら下がって、なにかメッセージを残したかったんじゃないかとも、オレは思うわけ。彼にとって、自殺が一つのセレモニーのようなものだったのかも知れないとかって……」
その時、ぼくはこう考えていた。彼の自殺は死にたいがゆえの自殺ではなく、生きたいがゆえの自殺だと。まるで逃亡者が追いつめられた断崖の上で、万策尽きて、勢いにまかせて絶壁を飛んで逃れようとするように。ただ彼の場合、飛んだ先に海面が用意されていなかった。
「自殺者って──きっと、逃亡者なんだよ」
「………………?」
「現実を受け入れることができなくなって、絶壁から死のダイビングを敢行する逃亡者」
「そうね、それも、あるかも…… でも、わたしには、また違う面から自殺を捉えてみるの」
「どんな?」
「自殺って、その目的は、復讐なのよ!」
「いじめに遭って、自殺する子供のように?」
「それとも違うの…… それは、恨む相手が、人間でしょ? 目に見える相手に対してだけとは、限らないわ」
「………………?」
「神様に対する復讐よ」
「………………!」
「満たされない人生を、与えられたことへの…… そんなふうに思わない?」
「………………?」
その日は、それっきり、話題をかえて、好きな音楽やミュージシャンことや、それぞれが学校で一緒に過ごしている愉快な友人たちについて語り合った。
ハッピーエンドを出てからも、木陰になっている場所にあるベンチを求めて、公園じゅうを歩き、日が暮れるまで、果てしなく話しつづけた。夢中になって、共有できるの言葉を探し出し、肯き合った。その時は、話すことはなんでもすべて思うまま、真っ直ぐに伝わるのだと、二人とも信じていた気がする。
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