Episode4 《冷たい水》
朝のST前、教室はざわめいている。これから成績個票が配られるからだ。
「えー、ちょっとゆめこやばくない!? あんた進級できるの??」
教室の端の方で女子が騒いでいる。彼女の名前が聞こえた瞬間に、興味なんかないはずの女子の会話に耳を傾けてしまう自分がいる。
「別にできなくてもいいかな。」
さらっと、なんて恐ろしいことを言うのか。彼女の表情は飄々としている。
「一緒に2年生になろうよ!」
他の女の子たちは彼女をやる気にさせようと必死だ。
「なれたらね。その時は仲良くしてね。」
彼女の微笑みを見て薄ら寒い気持ちになるのは、俺だけじゃないようだ。
「なるんだよ! 1人だけ留年だなんて許さない!」
女子のやりとりを聞いていて、彼女はとてもみんなに愛されているんだと改めて感じた。
「そうだねー。」
対する彼女は、なんだかとても雑だ。若干テキトーにあしらっているようにも見える。
「本当に、わかってるのかなー?」
女子が彼女のほっぺをつまむ。それはそれは、とても愛らしく可愛い構図だった。
「じゃあST始めるぞー。とっくにチャイムなったぞ、早よ席につけー。」
いつの間にか教卓の上に担任が手をつけていた。その顔は、とてもご乱心の様子。
ざわついていた教室が一気に静まり返り、足音しか聞こえなくなった。
「お前らの楽しみにしている個票は今日はいろいろあって業後に渡す。あと時間割変更もある。ちゃんと教科書持ってきたか?」
誰1人としてリアクションしない。このクラスは、そういうノリの悪いクラスだ。
「さっきまであんなにうるさかったのに静かになりやがって。」
ちっ、と小さな舌打ちが聞こえる。もちろん前方の教卓から。
「あとー、明石燐。お前は業後に職員室に呼び出されてるが、何かしたのか?」
急に名指しされ俺は戸惑った。つまらないからって、ふざけんなよ。珍しく、中々に苛立った瞬間だった。
「さあ、多分奨学金関係の事案ではありませんか? そうでなければ僕には思い当たる節がありません。」
ぶっきらぼうに言い放った。しかし、このくらいの非礼は別に問題ないだろう。
「お前もノリが悪いなあ。ノれよ! 人生楽しく生きようぜ?」
俺は静かに担任を睨め付けたが、彼はすでに俺に興味がないようだ。
「じゃあこれでSTは終わりだ。」
そこで、ST開始のチャイムが鳴り響いた。
「お前、テストの結果どうだったん?」
帰りの挨拶が終わった直後。後ろから飛びつくように首を絞められ、反射で彼の腕を殴ってしまった。
「悪くはねえ…。まあ、よくもねえ」
彼は相変わらず痛いな…と呟きながら、俺に殴られた部分をさすっている。
「さすが燐だよな! 優等生!」
彼は懲りずに笑顔で両腕を広げる。その鳩尾をグーで殴ってビンタした。
「きもいなあ、赤点とったんで教えてくださいって素直に言えよ…」
俺は本来だったらこのまま使う予定のなかった椅子に腰かけた。この椅子は座るたびにギシッと音が鳴り、よく見ればわかりづらくて大きなヒビが入っているという危険極まりないもので、明日の朝までには処分されているはずのものだ。
「俺の、愛の、抱擁を、そんな風に、お粗末にしなくても、いいではないか!」
彼は胸部を抑えてうずくまりながら必死に声を絞り出す。別に、そこまで本気で殴った覚えはないんだけどな。
「それで、お前は今回も何がやばいんだ?」
彼は、ん〜と唸って少し考える素振りをした。
「世界史と数学と英語と国語」
彼の表情は真剣そのもの、本気で全部教えろと訴えかけてきている。
「自分でやれ」
縋り付く彼を無視して席を立った。
職員室での呼び出しをなんとか処理し、教室に戻ると、彼女がいた。黒板の前に仁王立ちして、ピクリとも動かない。差し込んだ西日が彼女の形を淡く象る。
「ゆめこさん?」
声は聞こえているようで、彼女はゆっくりとこちらを振り向く。その表情は虚で、彼女の瞳には何も映っていないような気がした。
「…燐?」
力のない彼女の声が脳に馴染むのには時間がかかった。
俺は教室に入ってすぐ教卓の正面の席に座った。
「何かあったんなら聞くぞ?」
言いながら机の上に書類を出した。
「何それ?」
「奨学金の書類」
彼女が話すかどうかはわからないが、話さないなら話さないで俺は自分のやることをやるだけだ。筆箱から3mmのボールペンを取り出した。
「じゃあ、今朝見た夢の話でも聞いてもらおうかな。」
彼女の声は不安定で、今にもどこかへ消えてしまいそうだ。
「…どうぞ」
俺はボールペンを置き、彼女の顔を見た。彼女はくるんとスカートの襞を伸ばして、黒板と向き合ってしまった。一体どんな表情だったんだろう。
「大学生の私には彼氏がいて、私はその彼氏のことが大好きで、2年くらいずっと一緒にいたの。」
彼女が大学に通う頃の彼氏。それが俺だったらいいのに、と思ったり思わなかったり。
「その彼が、私のせいで死んじゃうの。死んじゃったの。」
彼女の声に嗚咽が混じる。無理矢理絞り出すような痛々しい音が俺の心を揺さぶった。
「君が悪いわけじゃないよ…」
俺は意識せずに呟いていた。彼女の夢を見たわけでもない俺の、無責任な発言。
彼女は早足で俺の席の真横までやってきた。俺の胸ぐらを掴むと、思い切り振りかぶって頭突きをした。
「私が殺したわけじゃなくても! 私のせいで彼は死んだの!」
悲痛な叫びだった。心が限界を超えて、気持ちが全て溢れ出してしまったかのような。
思わず、俺は彼女の身体を抱き寄せた。
「…ねえ、どうしたの?」
彼女は俺の問いに答えない。代わりに、とでもいうかのように、彼女は腕を俺の首に巻きつけた。
彼女の身体はふんわり柔らかく、温かい。その気がなくても男女の体格差を意識してしまう。脳が、幸せだと感じる。
無意識に、彼女の身体を自分の胸板に押し付ける。
「…もっと」
耳元で吐息と混ざった声が耳をくすぐる。
「え?」
今ここにいる彼女は、彼女なのだろうか。心が暴れそうになるのを必死に抑えた。
「もっと、強くして…。」
俺は一瞬困惑を隠せなかった。今日の彼女はなんだか、弱々しくてとても儚い。
「わかった」
そのまま彼女の身体を締めつける。ほとんど力はかけていないが、どの程度までなら平気なのかがわからない。
窓の外を黒い影が通り過ぎた。カラス、よかったら俺にアドバイスをくれないか。
彼女は俺の髪を撫でた。
「もっときつく締めて。」
できるだけ優しく、言われるがままに腕に力を込める。彼女が潰れてしまいそうで、怖かった。
どくん、どくんどくんと自分の生きている音が彼女に伝わるのがなんだか恥ずかしい。
「もっと…」
俺はもう何も考えないようにした。ありったけの腕力を衝動のままに用いて彼女を締める。きっと全部が赤くなっている。この冷えている教室でただ俺だけが発熱している。
彼女の髪を指先で絡め取った。その髪はひんやりと冷たくて、沸いている俺の体には気持ちよく感じられた。
彼女がゆっくりと身体を剥がし、ちらっと俺の顔を見た。頰が赤く染まっているのを見て、彼女も温まったんだと嬉しくなった。
そして、ほとんど衝動的に、彼女の唇を奪った。
ー カチン、と金属音が教室中に響いた。
寒い。
ズボンからベストまで、身につけているもののほとんどが濡れている。背中は無事だ。
俺の周りの床は、差し込んできた斜陽を反射してきらきら輝いている。
すぐ目の前に銀色に輝く小さなスイッチが落ちていた。
この教室は、俺一人だ。
落葉 妃凛 @MED310mo6
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