Episode3 《記憶の欠片》

「どうしたの?」


俺は震える彼女を見て立ち止まった。

よく見るとほんの少し青ざめている肌色は、決して空を覆い尽くす分厚い雲のせいではないことくらい、俺にもわかる。


「…なんでもないよ。ちょっと、怖いの。」


彼女は口角をにっと上げた。

しかし、それは彼女のいつものそれとは何かが少し違っている。


「何が怖いの?」


俺は美しく透き通った液体の道を眺めながら問う。

彼女には、いつも心から笑っていてほしい。


「流れるような、冷たい水。」



見なれない天井だった。白くて光沢があり、とても冷たそうな印象を受ける。

「あ、燐くん!」

彼女が嬉しそうに俺の頬を撫でる。指が耳に当たると、少しくすぐったかった。

「ゆめこさん?」

俺は目を疑った。目を覚ますと彼女がそばにいるだなんて事態、夢でしか見ることはないと思っていた。

「ん? そうだよー。」

彼女は俺の顔を覗き込むように近づいてきた。少し上体をあげればおでこがぶつかってしまいそうなくらいの距離だ。近い。

「え、な、なんで、」

今の俺はきっとリンゴだ。赤く熟れたリンゴ。でも触ると熱いから焼きリンゴかな。焼きリンゴは赤くはないか。

動揺を隠せない俺をよそに、彼女は言う。

「よかった、元気そうで本当によかった。」

彼女は俺の頭を撫でた。天辺から頰を何度も何度も往復して、俺の頭部の輪郭を手の平で優しくなぞった。

「…どうしたの?」

されるがままも悪くはないな。彼女の柔らかな手の感触を味わいながら、しみじみと思った。このよくわからないシチュエーションには目を瞑ろう。

「ん、なんでもないよ。お医者さん呼んでくるね。」

彼女はあっさり手を離してしまった。桃色で暖かく満たされていた俺の周りの空気が、一瞬で少し涼しくなったように感じた。

「うん」

彼女が小走りでカーテンの向こうに消える。揺れるレモン色のワンピースが眩しい。

彼女が立ち去った後の白くて冷たい小さな箱は、一人でいるにはあまりに居心地が悪かった。そもそも、俺はどうしてこんな所にいるんだろう。

自分に乗せられた分厚く柔らかい素材でできた掛け布団を、両腕で持ち上げた。腕は問題なく動く。そして、布団がないとめちゃくちゃ寒い。

寒さに耐えながら上体を起こす。これも異常はない。

ここはおそらく病院だ。実際入院したことはないために最初は全く思いもよらなかったが、彼女はお医者さんを呼んでくるらしい。医者のいるところといえば、病院だろう。

「ええ!? 燐くん動けたの!?」

いつの間にかカーテンをめくっていた彼女は、俺を見て目を大きく見開き、声高に叫んだ。

「なんで動けないんだよ?」

彼女の表情があまりに真剣そのもので、思わず表情筋が|力(りき)む。

「だって、何か大きな病気かと思ったんだもん。」

彼女の瞳が橙色に光を放つ。静かに揺れる光が彼女の心を表すかのように不安定で、目が離せなかった。

「なんで俺はこんな所にいるの?」

彼女に夢中で今の今まで気づかなかったが、カーテンの脇に立つ白い男を見やった。優しい目つきのおじいさん。

「今日の昼ごろ、校門のそばで倒れられたんですよ。それで君はこの病院まで救急搬送されました。」

一目でわかる、この人は毅然とした意思を持って行動する人だ。きっと数々の修羅場をかいくぐって今日まで生きてきたんだろう。俺みたいな中途半端な人生を送ってきた人間とは、別種だ。

「…俺が、倒れたんですか?」

差し込んだ夕陽がだんだん落ちてきた。伸びた影の色が薄くなるのに合わせて、病室内に明かりが灯った。

「そうみたいですね。でもまあ、栄養失調と風邪が原因ですから、点滴でも打ってよく寝れば明日には帰れますよ。」

彼は微笑んだ。さあ行こうかと彼女に声をかけて、俺に背を向けた。この無機質な部屋で彼女の色はとてもよく映えた。例えば、無数のうずら卵に混ざっている1つの鶏卵と同じくらいに際立って目立つのだ。

「ねえ。明日、散歩しよう?」

カーテンに手をかけた彼女が、その長い黒髪をなびかせた。緩やかに落ちたそれを見て、思い出した。俺は、彼女の髪に触れたことがある。

「今日の埋め合わせ」と呟いて彼女は姿を消した。


「昨日の夜ごはんも、今日の朝ごはんも食べなかったの!? バカじゃないの!?」

俺に会う前にどうやらあのおじいさんと会話をしたようで、事情を聞くなり俺の病室に飛ぶような勢いでやって来たようだ。彼女の肩が細かく上下している。

「…寝てたんだよ」

俺は身支度をしながら軽く受け流した。太陽はもう傾き始めている。これから遊ぶなら、急がなければ。

「テスト欠席してまで休んでたのに、栄養摂らなきゃ意味ないじゃん!」

彼女は全身で怒っている。心から怒っているわけではなく、怒っているという演技をしているように見えた。そう思ったのは、彼女の表情と声質に若干の齟齬があるように見えたからだろうか。

「いや、寝れただけで充分だよ」

カバンを持って病室を出ようとしたとき、俺がドアハンドルに手をかける前に真っ白の扉が横にずれた。

「元気そうですね。」

昨日のおじいさんだ。こうして立ち上がって前にしてみると、案外身長が高い。俺が175cmで、彼はおそらく185cmはあるだろう。

「おかげさまで、すっかりよくなりました。ありがとうございます。」

適当に腰を折り曲げる。彼の光るネームプレートには安斎と記されていた。

「…若い子には色々あるでしょう。何かあったらここにおいで。」

彼は俺の頭を撫で、安らかに微笑んだ。


「すっかり暗くなっちゃったね。」

携帯の画面をつけると19時17分。これが夏ならまだ空は薄っすらと明るく、街灯のない道を歩いても前方が見えないほど暗いわけではなかっただろう。

「そうだね。危ないしそろそろ帰ろうか」

カラオケに付き合わされ、3時間彼女の歌を聴き続けた俺の耳はもうへとへとだ。もちろん、俺が喜んで付き合ったのだが。

「んー、じゃあコンビニ寄って行こう!」

街灯の明かりに照らされた彼女の頰は、寒さのせいか火照っていて、つつきたくなる衝動を必死に我慢した。

「ここら辺ってコンビニあったっけ?」

少なくとも俺の記憶では、カラオケから学校までの道のりにコンビニはないはずだ。

「燐くんここら辺に住んでるのに知らないの? ちょっと歩いたところに、みんなでよく行くコンビニがあるんだ。何ていう名前だっけ? 黄色い…」

彼女は左右にぶんぶん頭を振って思い出そうと頑張っていたが、途中で急にしゃがみ込んで静かになった。歩行者用と自転車用が分かれているこの広い歩道で丸まっている彼女はなんだかシュールだ。

「どうしたのー?」

コンパクトになった彼女が面白くて、指先でつむじに"の"の字を何回も書いてみた。そしたら思っていたより髪の毛が絡まって、余計に笑えた。

「髪がぼさぼさになるじゃんやめてよ!」

彼女はうずくまっていたのが嘘であったかのようにすっくと立ち上がり、俺の腹めがけてパンチした。感想を言うと、めちゃくちゃかわいい。

「ごめんって、あんまり遅くなる前にコンビニ行こう?」

彼女はこくっと頷いて黙って俺の半歩先を歩き始めた。その先は俺の居住域の外側で、俺は近辺に住んでいながら、その静かで寡黙な街並みをほとんど知らない。

黙々と歩き進める。彼女は寡言だ。いつも口数が多いわけではないが、それなりに喋る彼女が静かなのはなんだか気持ち悪い。

コンビニが見えても彼女は口を開かない。無言でガラスの自動ドアをかいくぐり、アイスコーナーから"ジャンボ"というモナカアイスを手に取ってそのままレジに差し出した。俺は彼女が会計を済ませている間、自動ドアの付近で雑誌を選んでいるフリをしていた。彼女がコンビニを出るのに合わせて、彼女の後につく。

彼女はモナカアイスをくの字に折り曲げてから、ジャンボのジの方から封をあけた。

「…はい。」

開封された方の口を俺に向けてくる。

「え?」

恐る恐る彼女の目を見た。その色はとても甘く、いつまででもうっとりと見入ってしまいそうなくらい深かった。

「取って。」

彼女の差し出す袋の口を見ると、薄橙のモナカが顔を覗かせている。俺はそれを指先でつまんだ。彼女はそれを確認すると、そのまま引っ張った。俺の指先には袋のはだけた半分のモナカアイスが残った。

「…ありがとう」

俺は今どんな顔をしているんだろう。知りたくはないけど興味はある。そんな俺を見てクスクス笑う声がする。

「私が怒ってると思った?」

彼女はアイスをかじりながら歩き始めた。幸いなことに俺の表情はきっと、彼女からは逆光で見えないはずだ。

「静かだなって思ってたよ」

彼女はやはり俺の半歩先を歩く。

「気づいたなら良し。」

今日は冷たい夜風が特別に気持ちのいい日だった。

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