Episode2 《温度感》
早朝の、普段なら教室には誰もいないであろう時間帯。俺は教卓側の古く厚い木の板を、横に引いた。
「おはよ!」
外は大変寒く、白みがかって雪でも降りそうな雲行きだ。凍えきった俺の身体は彼女の声を聞いた瞬間に、まるで融解するかのようにじんわりと温まり始めた。
「おはよう。」
今日は早いね、と声をかけられなかった。
先ほどまでおそらく彼女は黒板に今日の試験科目、試験時間、注意事項などをチョークで書いていたのだろう。今日は試験初日だ。見覚えのある綺麗な字が真緑の黒板によく映えた。
そして今では、既に決められた自分の席に座り、机の上にノートを開いている。
「燐くんも今日は早いんだね。」
せっかく俺が今、気を遣って話しかけなかったというのに、彼女はそんなことは御構い無しだ。
「勉強しようと思って」
彼女はへぇーと声を出しながら席を立ち、ノートを持って僕の真ん前の席に座った。もちろん、後ろを向いて。
「私に勉強を教えてよ」
そう言いながら開かれたノートには黒い点一つなく、新品の自由帳のように見えた。
「私、勉強してきてないから。」
俺には彼女が何を言いたいのかわからないときが、しばしばある。
「知らねえ…。」
それに彼女が勉強を、ましてや試験勉強をサボるようなタイプには思えなかった。
「進級がかかってるから。お願い。」
彼女の口元は微笑んでいるが、目元は笑ってはいなかった。冗談ではなく本気だ、と訴えかけられているかのようだった。
「わかったよ。」
俺は自分の筆記用具と教材を出し、机の上に置いた。
「本当? やった!」
彼女の表情も、声の調子も、嬉しそうに聞こえる。果たしてどこまでが本心なのだろう。
「で、なにがわからないの?」
俺は自分の復習も兼ねて彼女に教えようと思った。真面目な彼女のわからないところは、試験に出される可能性が高いと予想して。
「全部!」
彼女は満面の笑みで答えた。俺の反応を見て楽しんでいるみたいに見えた。少しだけ、不愉快だ。
「あと1時間半では無理だよ」
彼女は言った。
「無理でいいよ。」
やっぱり彼女の真意はわからない。彼女の瞳に映る色は、水に浮かべてかき混ぜた油性の絵の具のようにぐちゃぐちゃだ。
「意味がわからないよ」
彼女は微笑んだ。俺の心をねじ伏せるように、呟いた。
「わからなくてもいいよ。」
このときの彼女の表情を俺は一生忘れることはできないのだろう、そんな気がした。
「テスト終わったねー!」
彼女は無邪気な表情を浮かべている。
「いや、まだ終わってないよ? 明日、明後日、明々後日とあるでしょ?」
時計を見やると時計の針はちょうど真上を向いていた。今から帰宅するのに10分ほど、帰ったら昼ごはんを食べて勉強する。それが今日の俺の予定だった。
「んー、あるけど、やっぱりテスト期間は遊ばなきゃ!」
彼女は楽しそうに声を荒げながら、お財布と学生証を俺に見せるように差し出した。
「そんなこと言ってると、またあの川に連れてくよ?」
一瞬、彼女の表情が固まったのを俺は見逃さなかった。先月の試験期間に、俺は彼女を近所の綺麗な川に連れて行った。どうしても彼女と思い出になるような場所に行きたかった。
「ん…。燐くんがその川にどうしても行きたいのなら、考えておくよ。」
彼女は水が苦手だ。特に、流れるような冷たい水が。
「無理すんなって、もう連れて行ったりしないから。」
あんなに苦手だと言っていたのに、克服なんてできないだろうに。それでも頑張ろうとしてくれようとする彼女がやっぱり愛おしい。
彼女は少し俯いて、こくっと首を縦に振った。
「ありがとう。」
じんと顔が熱い。まるで頭の中の血液が沸き立つようだ。どこからともなくドクドクと激しく血が巡り、果てには吹き出してしまうのではないかと不安になるほどだ。
「じゃあ、私は職員室に用事があるから、私の下駄箱の前で待っててくれない? すぐ終わるから。」
俺はよく考えずに、よく考えることができずに、うんと頷いた。彼女は小走りで俺の元を離れ、厚い木の板を両手でずらして教室を出た。
「なぁ、お前らいつの間にこんなに仲良くなったの?」
後ろからそっと冷気を帯びた手を肩にかけられる。真後ろで熱っと声がした。
「俺が聞きたいよ」
ため息でも吐こうとした。しかし、どうやら俺の肺にはそんな余力は残っていないようだ。彼はそんな俺を見て、にやりと笑う。
「満更でもなさそうじゃん?」
俺の頭に手を乗せて、髪をわしゃわしゃとかき乱してくる。やっぱり熱いな、と小さく呟いたのが聞こえた。
「まあね。俺、結構彼女みたいな子は嫌いじゃないよ。」
僕の言葉を聞いた彼は手を止めた。そして声を出して笑った。あはははは、とそれはもう思い切り。
「お前馬鹿じゃねえのか、惚れてんだろ? 惚れてますって言えよ素直じゃないな!」
あまりに彼の声が大きいために、クラス中の注目が俺らに集まってしまう。俺は大勢に見られるのが大嫌いだ。業後のクラスメイトの数なんて高が知れているとしても。
「…黙れよ」
彼はこう見えて、その場の雰囲気や人の機嫌にとても敏感だ。このときもやはり、即座に地雷を察知した。
「ごめんって、大声で言うようなことじゃなかったな。場所を変えるか!」
彼は俺を半ば強引に立たせようとする。きっと俺に彼女のことを早く訊問したいのだろう。脇にかけられた彼の手をなるべく優しく振りほどいて、言った。
「俺、今からゆめこさんと遊んでくるから。またな」
俺は彼を置き去りにするように、席を立ち、リュックを背負ってその場を去った。面倒臭そうな彼の顔を見ないようにして。
教室のペンキのハゲた扉に手をかけたとき、彼は言った。
「無理すんなよ!」
彼は一体、何を想像しているのだろう。俺が彼女に無理矢理迫るとでも思っているのだろうか。
「本当に、黙れよ…?」
俺は振り返らず、彼に見えるように左手を挙げた。
下駄箱に着いたとき、彼女は既に俺を待っていた。
「遅かったね。」
逆光で彼女の表情はよく見えない。
「ごめん。友達に捕まって」
なるだけ手早く靴を履き替える。そういえば俺は、どうして試験期間に遊びに行こうとしているのだろう。
「燐くん賢いもんね。」
別に勉強を教えていたわけではないが、それを言って何をしていたという話に発展しても面倒臭い。
「そんなことないよ」
2人で並んで下駄箱を出る。頰に冷たい何かが落ちた。
「雪が降ってるねー!」
彼女はまるで跳ねるように喜んでいる。その傍で、だからこんなに寒かったのかと納得している自分がいた。
「雪なんていつぶりだろうな?」
彼女は俺より半身ほど前を歩いている。おそらく、このままカラオケまで真っ直ぐ歩くのだろう。
「んー、1年くらい?」
下駄箱から、ほんの少し歩いたところで校門を通過した。そこで彼女がステップを踏んで、くるっと俺の方を振り返った。宙を舞った艶やかな黒髪に触れたくなった。
「ねえ、学生証って持ってる?」
風に揺られて、さらさらと流れる髪に点々と小さな雪の粒が乗っている。彼女がクリーム色のコートを着ているのに、今の今まで気づかなかった。
「持ってるかもしれない」
ほとんど無意識だった。俺の手は、彼女の頭上から髪先まで、手櫛でとくように、彼女の髪に触れている。
「…え?」
彼女の表情は見えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます