落葉

妃凛

Episode1 《秋風》

「ゆめこー! 今日あいてる?」

昼休みの何気ない女子の会話が、どうしてか耳を通り越して思考に入り混じってくる。

「今日? 急だね。」

少し困ったような声色。女子は大変だな、と思う。

「ゆめこと最近遊んでないなって、思って」

「それにしても急だよね。」

はは、と陽気な笑い声が教室に響いた。このクラスは割と物静かな人が多いせいか、お喋りな女子高生の甲高い声はよく反響するようだ。

「まあ、嫌だったらいいんだけど。それより購買行こうよ。今日ご飯忘れたの。」

「別に嫌とか言ってないけど。いいよ、行こうか。付いて行くから豆乳おごってよ?」

扉を引く音が止むのと同時に、彼女たちの楽しそうな声はペンキのハゲた白い木の板に遮られた。

ゆめこ、って誰だっけ。少し考えた。

りん〜! 飯食おうぜ!」

声をかけられて、時計を見やるとチャイムが鳴ってから五分経過している。

「あー。お腹すいてないわー。」

ゆめこ、なぜだかその名前が頭から離れない。

「何言ってんだよ。お前が何も食わねえとか明日吹雪が降るわ! やめてくれ、まだ9月なのに。」

俺は別によく食べるタイプではない。食べないわけではないけれども。それを彼は勘違いしているようだ。俺の意思に反して、あくまでも厚意で、大きなおにぎりを2つ俺の机の上に並べた。

「…要らないって。」さすがに舌打ちは我慢した。

「そう言うなよ。悩み事があるなら聞くから、今はとりあえず食えよ。」

そんなに俺は物憂げな表情を顔に浮かべていたのだろうか。自分自身ではわからない。

「特に何もないから食わねえ。あと、お前のその優しさが、なんか無性にイラつくし鳥肌が立つんだ。頼むからやめてくれ。」

俺は笑うのが苦手だ。だからこう言うことも真顔か、または眉間にしわを寄せて言い放ってしまう。それは悪い癖だと自覚してはいるのだが、そう簡単に治るものではない。

「人の優しさをもっと大切に扱えよ…。」

お前の優しさなんか要らない、と喉元まで出かけた言葉を心のポケットにしまい込んで、代わりにため息を吐き出した。本心ではない言葉で人を必要以上に傷つける必要はないのだ。ため息はあくまでも、自分自信に向けたものである。

「ありがとうございました。」

ぶっきらぼうに聞こえるだろうが、あながち本心でないこともない。これが俺の本心だ。

「あっそ。」

さすがに彼は少し不機嫌そうだ。しかし、いつものことなので特に気にもとめない。

「そういえばさ、ゆめこって知ってる?」

「誰それ?」

「お前が女子の名前知らないだなんて珍しい。」

彼は世界一、今までに出会った女子の名前を忘れにくい男としてギネスブックに載ると期待されている逸材である。そんな彼が名前を聞いてフルネームを言えないだなんて、"ゆめこ"はクラスメイトであるならばますます稀有な存在だと言えよう。

「お前、その子が気になんの?」

彼の目は真っ直ぐに俺の心を見ていた。何を考えているのかは、直感で感じ取れた。

「さっき女子たちがその子を遊びに誘ってて、ゆめこって誰だろう、って思っただけだよ。」

彼が自然にへぇ、と声を漏らす。

「お前が人に興味を持つなんて珍しい。」

さすがに、笑えた。一応、俺にだって初恋の一度や二度くらいはある。

「初恋は二度もないか?」

「何言ってんだよ、とうとう沸いたか?」

俺が"ゆめこ"というその響きに少し、好奇心を覚えているのは確かだ。自分でもそう思う。


放課後。掃除を終えて、教室で勉強でもしようと白い扉を開けたら、黒板にチョークを擦りつける音が暗い教室に響いていた。

「…電気くらいつけたら?」口を開きながら教室に足を踏み入れた。黒板の方に目を向けると、腰ほどまでの長さの黒い髪を垂らした合服の女の子が、背伸びをして黒板に文字を書いている。

「もう少しで書き終わるので、わざわざ電気をつける必要を感じませんでした!」彼女は手を動かしながら声を張り上げた。

背を向けているから声が届きにくいとでも思ったのだろうか。なんだか俺にはそんな風に感じられる。

黒板を見ると、丁寧な楷書でこの一週間分の提出物が上方の端にまとめられていた。

「字、綺麗だね。」

思わず口から溢れるように言葉が漏れた。

「少しだけ書道習ってたんです! でも、それも今では昔の話です!」

ストン、と彼女の身長が落ちた。彼女は手に持っていた白いチョークを粉受けに置き、ゴミ箱の上でパンパンと音を立てて手を叩いて粉を払った。

「もしかして、これから教室を使う予定でしたか? 邪魔でしたよね、ごめんなさい。」

仕事をしていたはずなのに、どうしてわざわざ謝るのか俺には分からなかった。

「それは別にいいんだけど、なんで敬語なの?」

俺としてはそっちの方が気になって仕方がない。同じクラスにいたのだから、どんなに記憶になくても彼女は同学年のはず。同い年の人に敬語を使われるのは嫌いだ。

「え? あ、特に理由はありませんね。そんなに気になりますか?」

「うん。普通に話して。」

俺がそう言うと彼女は少しうーんと唸って僕の目を見た。心を読み取られたように感じた。

「わかった、これでいいかな?」

ほんの少しだけ緊張の色味を帯びた彼女の瞳が俺を見上げる。女子って身長低いな、とぼんやりと思った。

「うん。」

なんだか俺の方が緊張してきて、何を話せばいいのかわからなくなってくる。思考がまとまらない。

そんな俺を見て彼女は微笑んだ。しっかりと目を見て、俺に対して微笑みかけた。

「じゃあ、もう帰るから。また明日ね!」

彼女は教卓の上に置いてあった手提げ鞄を肩にかけた。女子の荷物はやたらと多いイメージがあるが、あの中には一体何が入っているのだろう。

彼女が僕の傍を通り過ぎて傷んだ扉に手をかけた。

「あ、ちょっと待って!」

気づいたら腹から声が飛び出していた。

彼女はこちらを振り返って小首を傾げる。

「どうしたの?」

彼女の表情は逆光のせいで見えなかったが、光の当たり加減で茶色く見える髪の毛が俺の目には、やたらと美しく映った。

「名前教えてよ。」

ー。

数秒間の間があった。その間、彼女は僕の何を感じ取ったのだろう。

はは、と明るい笑い声が聞こえた。

「ゆめこ って呼んで。」

彼女はそれだけ言い残すようにして僕に背を向けて手を振った。彼女の姿は気づいたら僕の視界からはいなくなっていた。


ジリリリリ、とけたたましい音で目を覚ました。使い続けて5年ほど経つこの目覚まし時計は未だに老いを見せていない。

熱いシャワーを浴びながら俺はゆめこのことを考えていた。彼女のことが頭から離れないのだ。

電車に揺られる間も、たまたま同じ車両に彼女が乗り合わせていたりしないかと、彼女の長い黒髪を思い浮かべては探してしまう。

教室のボロい扉に手をかけたとき、彼女に会うことを楽しみにしている自分に気づいた。

「おはよ明石あかしくん!」

ゴン、と鈍い音とともに俺の額に痛みが走った。木製の引き戸におでこをぶつけたのだ。

「大丈夫?」

彼女が俺の顔を覗き込んでくる。

「ん、おはよ。大丈夫って何のこと?」

しらばっくれるというよりは、なかったことにしようと思った。いつもなら気にならないのに、今日はなんだか恥ずかしい。

「何って、頭打ったことに決まってるじゃん。」

そう当たり前のように言い放つ彼女は、優しい人だと改めて感心させられる。

「気にすることじゃないよ。」

ぶっきらぼうに言い放って教室に足を踏み入れる。

「痛くないならいいけど。」

彼女の声で心がこそばゆい。不思議な感覚だ。

「ありがとう。」

始業5分前の合図、予鈴が鳴り響いた。

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