あのオレンジ色の町 ⑤

 一刻は、これから必要となるものを探して、またあちこち歩き回った。


 今度の探し物は、医学書と、手術器具。

 それらを見つけるのは、さほど難しいことではなかった。


 大きな書店や、医学部のある大学の図書館で、一刻は、縫合手術のやり方について書かれている本を探した。

 該当する本は何冊もあった。

 それを端から読み漁った。

 理解できるまで何度も何度も繰り返し読んだ。

 病院の中を探して、手術器具や注射器を集めた。


 そうやって、知識と道具を揃えたあとは、技術を手に入れるために練習をした。

 人間の体を使うわけにはいかないから、スーパーで売っている鶏の肉や内臓を使ってだ。

 皮や血管を縫合された、手羽先や肝やハツが、行く先々のスーパーで山積みになった。




 下準備は、これでいい。

 自分でそう納得できるだけの知識と技術を手に入れて、一刻は、再び公園広場に戻ってきた。


 手術器具が入った容器を手に、その男のもとへ、歩み寄る。


 切り裂かれた首と、空中に広がった血飛沫。


 無茶なことをしようとしているのは、自分でもわかっていた。

 いくら本を読み漁り、手術器具の扱いに慣れるための練習を重ねたとはいえ、専門の訓練を受けたわけでもない素人が、こんなことをするのは無謀でしかない。


 でも――でもだ。


 この世界でなら、どうだろう。

 時間が止まった世界、という条件下で、それをやるならば。


 傷はこれ以上悪化しない。

 血はこれ以上出てこない。

 脈動もない。

 呼吸もない。

 体内においてさえ、どんな微々たる動きをも失った人体。――それを相手にするのであれば。


 一つ、深呼吸をして。

 一刻は、意を決し、その作業に取り掛かった。



 未使用の注射器をパッケージから取り出す。

 自分の手を念入りに消毒液で拭い、何にも触れないよう宙に浮かべていた注射器を手に取る。


 まずは、体の中に血を戻さなければ。


 外に出た血をぜんぶ戻す必要はない。

 いくらか血を失ったとしても、それだけで人間が死ぬことはないと、本に書いてあった。

 だから、戻せるぶんだけ戻しておく。


 戻せるぶん――というのは、大きな血液の塊の、内側の部分だろう。

 塊の表面には空気中の細菌が付着しているかもしれないし、それを体に戻して大丈夫なものかどうかわからない。

 だが、世界の時間が止まった時点で空気に触れていない血であれば、無菌状態が保たれているはずだ。


 一刻は、首の傷口に繋がった大きな血液の塊の一つに、注射器の針を刺し込んだ。

 ゆっくりと、注射器の中に血を吸い取る。

 塊の表面や気泡をいっしょに吸い取ってしまわないよう、慎重に。

 血液の塊が、少しずつ、少しずつ、小さくなっていく。


 注射器がいっぱいになったら、それをとりあえず宙に浮かべておき、別の注射器をまた取り出す。

 同じように、塊の内側にある血で注射器を満たす。


 それを何度か繰り返して、中身を吸いだせるほどの大きな塊がなくなるまで、血を集め続けた。


 いったんそこで作業を止めて、食事を取り、しっかり眠った。



 目を覚ましてから、続きの作業。


 今度は、集めた血を男の体の中に戻す。

 息を止め、血管内に空気が入らないよう注意して、傷口から見える大きな血管の断面に針を刺し、注射器の中の血を血管へと戻す。


 少しずつ、少しずつ。


 ときおり、皮膚の上から肉に埋もれた血管を撫でて、チューブをしごくように、注入した血液を奥へ、奥へと送る。

 血液が一ヶ所に溜まったら、血管が破裂してしまうかもしれない。

 そうならないよう、なるべく広い範囲に血を行き渡らせる。


 集めた血液を、傷口から見える血管だけにすべて入れるのは難しかったので、手足の数ヶ所にも針を刺した。

 針穴を少し広げて覗けば、皮膚に近い血管の位置なら正確にわかる。

 その血管に血液を注入し、マッサージする要領で血管をならした。


 すべての注射器を空にするまでの間に、何度かの食事と、一度の睡眠を取った。



 その次は、いよいよ傷の縫合作業だ。


 一刻は、首の傷が見やすいように、男の体を明りの灯った街灯の下に移動させ、横たえた。

 それから、消毒液の塊で傷口の周りの空間を拭い、手を消毒し、マスクと手術用の手袋を付けた。


 清潔な手袋をしていれば、傷口に指が触れてしまっても丈夫なはずだ。

 マスクをしていれば、自分の呼気に含まれる雑菌が傷口まで届くことも防げるだろう。


 縫合に用いる器具各種も、もちろん未使用のもの、滅菌消毒されているだろうものだけを、道中空気に触れないようにして集めてきた。

 これらが傷口に接触することに関して、衛生上の問題はあるまい。


 ナイフで切り裂かれた傷口を、一刻は、器具を使ってさらに大きく開き、隅々までよく見える状態にした。

 そうして、切断された血管を、筋肉と筋膜を、皮下組織を、繋ぎ合わせていく。


 一針、一針、たっぷりと時間を掛けて。

 この上なく慎重に。



 途中、何度も休憩を挟んだ。

 何百回と食事を取り、何百回と眠りに就いた。

 そうしながら、血管を繋ぎ、何層にも渡る肉を閉じ合わせ、傷を修復していった。



「……あと、少し――」



 やがて、とうとう最後の層である、表皮へとたどり着く。

 皮膚の裂け目のいちばん端を、針ですくって――最後のその一針を、抜いた。


 糸を結び留め、余った糸を切り離す。


 その直後。

 一刻は、大の字になって地面に倒れ、オレンジ色の空を見上げて、胸の底から大きく息を吐き出した。

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