あのオレンジ色の町 ④

 それから、一刻は、公園広場で暮らし始めた。

 どうしても、このまま離れがたかった。

 ここにいたところで、自分に何ができるわけでもないと、わかってはいたけれど。


 首を切り裂かれた男のいるそばには、ベンチがあった。

 一刻は、そのベンチを拠点として過ごすことにした。

 食事や睡眠をベンチの上で取り、散歩や読書の合間に、ベンチに座ってすぐそこに見えるその男の姿を、ただ眺め続けた。


 しかし、そうしているうちに、ふと疑問が湧いた。

 ――本当に、俺にできることは、何もないのか?

 そんな疑問が。


 深く、大きく、首を切り裂かれ、大量の血を空中に撒き散らしているこの人は、おそらく、時を止めたこの世界が終ると同時に、息絶える。――このままなら、そうなる。


 じゃあ、「このまま」にしなければ?


 この世界が終る前に、できることはないのか?

 できる限りのことをして、この人を助けることは、本当に不可能か?


「いや。――もしかしたら」


 一刻は、考える。


 たとえば、この人の体を病院まで運んでいけば、どうだろう。

 時間の流れる世界なら、病院にいる医者が、手術という処置をしてくれるはずだ。

 この人の時間が再び動き出したとき、ここにいるよりも、あらかじめ病院の中にいたほうが、はるかに早くその処置に取り掛かれるのは間違いない。


 それでも、だめなのだろうか。

 間に合わないのだろうか。

 少なくとも。母は、「間に合わない」と思ったから、この人をここに置いたままにして、逃げたのだろう。


 可能性は低いのかもしれない。

 でも、望みを掛けるだけは、掛けておこうか。

 このまま何もしないよりは……。



「時間を、巻き戻すことができればなあ」



 一刻は、ぽつりと言った。


 一瞬。

 たった一瞬でいいのだ。

 この人の時間が一瞬でも巻き戻れば、傷も、出血も、なかったことになる。


「戻らないかな。たった一瞬なら、なんとか取り返しがつかないかな。傷が開く前に。体から血が出ていく前に。この人を、その瞬間に、戻せたら――」


 そう呟いて。

一刻は、自分の言葉に、目を見開いた。


 ――戻せたら?


 戻す、というのは。

 それは、要するに、どういうことだ。

 あの人の体を、一瞬前の状態に戻すというのは。


 傷は、塞がればいい。

 体の外に出ていった血は、体の中に戻ればいい。


 ――つまりは、そういうことじゃないか?


「この人の時間は、止まってる。どんなに深い大きな傷でも、傷はこれ以上悪化しない。体から出ていった血も、ちゃんと、ぜんぶここにある。――それなら」


 一刻は、ベンチから立ち上がった。

 そして、男のそばに歩み寄り、その顔を見つめた。


「待ってて。また、戻ってくるから。――絶対に」


 物言わぬ相手にそう告げて、一刻は、公園広場をあとにした。

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