あのオレンジ色の町 ③
「――本当に」
そうなってしまったから、母は、この場所に背を向けた。
思い出したくなくて。
忘れてしまいたくて。
手放して、楽になりたくて。
「本当に。あんたは、臆病で、薄情で――」
この世界に閉じ込められることがわかっていて、それでも、耐えきれず時間を止めるほどに。
それほどまで、想っていたのだろうに。
なのに。
この人のそばにいてあげることもせず、影だけを残して。
ただひたすら、遠ざかり続け、逃げ続けていたなんて。
「――どうしようもない人間だよ」
力ない笑みと共に、一刻は、小さく溜め息をついた。
ねえ? と、目の前の男にも同意を求める。
この人が、もしも動いて話すことができたなら、はたしてどう応えただろうか。
そんなことを考えながら、男の顔を見つめて、目を細めた。
「もしかしたら……俺は、あなたに、似てるのかな。どうなんだろう。俺は、自分の顔を知らないから、わからないけど」
それさえも、わからない。
目の前にいるこの人と、言葉を交わすこともできない。
この人が、どんな声で喋るのか。
どんな顔で笑い、怒るのか。
母が知っていたそれを、一刻は永遠に知ることがない。
「あなたも、俺のことを知らない」
一刻は、続けて語り掛ける。
言葉も、うなずきも、視線も、何一つ返すことのない相手に。
この人は、知らない。
一刻が、ここにこうして存在している、そのことさえも。
「俺は、時間の止まったこの世界で生まれたから。あなたと……あなたたちと同じ、そっちの時間の流れの中には、行けないから」
それだけが、ただ一つ、わかっていることだった。
もしも――。
もしも、この出来事が起こっていなかったら。
もしも、母が、世界の時間を止めなかったら。
時間の流れる世界で、母が自分を産んでいたら。
そうしたら。
自分の人生は、今とはまったく違うものになっていた。
それはいったい、どんな人生だったのだろう。
その人生の中には。
母と、自分と、この人と。
三人で語らう時間だって、きっとあったに違いない。
「それを――」
それを、奪ったのは。
首を切り裂かれた男の前に立つ、もう一人。
フードを被ったその人物を、一刻は、睨みつけた。
「おまえが、奪ったんだ。――おまえさえ、いなければ」
震える声で、一刻は呟く。
フードの人物が掲げる、固く握られた右手。
赤い
「おまえさえいなければ。――この人も。母さんも。俺も――」
自らの手に握ったナイフの先を、フードの人物へと向ける。
高く、ナイフを振り上げる。
このナイフを、このまま、こいつの歪んだ笑みへと振り下ろせば――。
息を止めた。
しばらくの間、フードの男を睨んで、ただそうしていた。
やがて、苦しくなり、静かにゆっくり息を吸い込むと同時に、一刻は、ナイフから指をほどいた。
取り残されたナイフが、空中に静止する。
濡れた刃が、オレンジ色に染まっている。
その色が、一刻の視界の中で次第にぼやけ、空の色との輪郭を失っていった。
こいつにナイフを突き刺すのは、簡単だ。
どこを刺すのも、どれだけ深く刺すのも、いくつ傷を付けるのも、思いのままだ。
けれど、一刻は、そうする気にはなれなかった。
たとえ今、こいつをナイフで刺したとしても。
こいつは、血を流すこともなければ、痛みを感じることもなく、己の行いを悔いることもない。
それなら、同じじゃないか。
何をしても、しなくても。
自分にとっては、何も変わらない。
一刻は、フードの人物の掲げた腕へと手を伸ばし、その腕を掴んで、強く引いた。
重い。でも、少しは動いた。
もう一度、今度は両手で引っぱる。
地面から両足が離れ、空中に横倒しになったその体を、一刻は少しずつ、遠くへと引っぱっていく。
公園広場の隅には、林を背にした池があった。
池に入らないように、と警告を促す立て札が目に付いた。
その立て札を読んでみると、どうやらそれなりに深い池のようだった。
一刻は、引っぱってきたフードの人物を、宙に浮かべたまま、池の水面の上へと押しやった。
できるだけ、池の淵から遠くへと。
池の中心にそいつの頭が、池の淵にそいつの足が向くようにして。
そのあと、そいつが持っていたナイフを取ってきて、池の前を通る遊歩道にそれを置いた。
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