あのオレンジ色の町 ②

「……やっぱり、鳩だな」


 羽の模様でそれとわかるまでに近づいた、その鳥の群れを見上げて、一刻は呟いた。

 その場所は、林の横にある公園広場のようだった。

 植え込みの隙間に開いた入口を通り抜けて、様々な花で溢れた大きな花壇の横を通り過ぎて、一刻は、鳩の群れのあるほうへと進んでみる。


 思い思いに翼を広げ、空中に静止した鳩の群れ。

 空高くに浮かぶもの。

 地面からわずかに足を離したもの。

 目線の高さに浮かぶもの。

 数えきれない鳩たちは、景色を隠すように、目の前を覆い塞いでいる。


 重なるその翼の向こうに、飛沫しぶきが見えた。

 噴水、だろうか。

 いや、違う。そこには、どんな小さな噴水もありはしない。

 そこにあるのは――ただ、人の姿だけだ。


 鳩の群れを押しのけて、一刻は、その人たちに近づいた。

 そこにいたのは、二人の人間だった。


 一人は、両腕を広げ、首をわずかに後ろへ向けて立っている、男の人。


 その男の人の首は、大きく切り裂かされていた。

 頭よりも高くまで広がる飛沫が、その首の傷口へと繋がっていた。

 オレンジ色の光の中でも、はっきりとわかった。

 その飛沫は、赤い飛沫だ。


 首を切り裂かれた男の人の前には、フードを被った人物が立っている。

 その人物は、楽しげに目を細め、唇を笑みで歪ませ、前のめりに傾いた姿勢で、濡れたナイフを掲げ持っていた。

 点々と宙に浮かぶ赤い玉が、そのナイフの軌跡を示していた。


 一刻は、もう一度、首を切り裂かれた男の人に目をやる。

 何かを庇うように両腕を広げ、背後を振り返ろうとしている男の人。

 その足元に目を落とすと、そこには、男の人の足から伸びた影と、男の人の前にいるフードの人物の影のほかに、もう一つ、影があった。


 ここにはいない人の、ただ影だけが、そこにあった。

 髪の長い、女の人の影。


 それを見つめながら、一刻は、息を詰まらせ、歯を食いしばった。


 ――これだったのか。

 ――これが。あの人が、世界の時を止めた理由か。



「そう……だったのか」



 うつむいたまま、一刻は、力なく笑った。

 なるほど。「今さら」だ。

 あの人の言っていたとおり。


 あと、ほんの少し。

 一瞬でも早く。

 あの人が、時を止めていたならば。

 そうしていれば、このナイフは、この男の人の喉に、届かなかったかもしれない。


 けれどそれでも。

 あの人は、迷わざるを得なかった。

 ためらわざるを得なかったのだ。

 あの人の持つ力は、世界の時を止めることはできても、止まった時を再び動かすことはできない。

 そのことを、あの人自身も知っていたから。



 ――この人を助けるために時を止めれば、代わりに自分はたった一人で、時の止まった世界に閉じ込められる。

 もう二度と、この人と同じ時間の流れの中には、戻れなくなる。

 この人といっしょの時間を過ごすことは、叶わなくなる。

 ――永遠に。



 それを思って、あの人は、迷い、ためらった。

 ほんの一瞬だけ。

 でも、結局。



 一刻は、ゆっくりと顔を上げて、目の前の男を眺めた。

 その人の首の傷と、傷から延び広がった赤い飛沫を眺めた。


 こんなにも深く、大きく、首を切り裂かれてしまったら。

 こんなにもたくさんの血が、体の外に出ていってしまったら。

 こんなふうになってしまったら、きっと、人は、死ぬのだろう。


「今」、この人は、まだ生きているかもしれないけれど。

 時を止めたこの世界が、いつか終わりを迎えたら、それと同時に、この人の命も消えてしまうのだろう。


 母は結局、時間を止めたのに。

 そのときには、もう、遅かった。

 一瞬の迷いとためらいのせいで。


 そして、もはや何もできはしないのに、時を止めた世界だけが残った。

 無意味で孤独なこの世界だけが。

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