オレンジ色の地帯 ③

 大通りの先に、見覚えのある建物が見えた。

 大きなその建物は、ターミナル駅の駅舎だった。

 外観が特徴的で、遠くから見てもそれとわかる建物だ。

 この辺りの街並みの景色は覚えていないけれど、その駅舎だけは強く記憶に残っていた。


「昔……確か、あの駅を……。駅に、入ったんだっけ? それとも、駅を出たんだっけ?」


 駅舎を前に立ち止まった一刻は、粒チョコレートの筒を小さく振りながら、その場でしばらく考え込んだ。

 昔、母とこの町を訪れたときは、あの駅から……。

出てきたのだ。と、思う。たぶん。

 とりあえず、一刻は駅へと向かった。

 駅の中をいくらか歩き、改札を乗り越えてみると、その先は、左右にいくつもの階段がある通路になっていた。


 その通路を眺めているうちに、だんだんと思い出してきた。


 そうだ。

 昔ここに来たときは、やっぱりこの駅を「出て」いったんだ。間違いない。


 確信した一刻は、いちばん近い、通路の端にある階段を上って、ホームに出た。

 オレンジ色の光に染まったホーム。

 その地面には、人々の影が、長く長く伸びている。


 鉄柱のそばに立って、新聞を広げて読んでいる人がいた。

 その新聞を、一刻は、横からちらりと覗き込む。

 少し見ただけで、それが、読んだことのある新聞の読んだことのある紙面だとわかった。

 いろいろなところで、いろいろな人が同じ新聞を読んでいるから、幼い頃から何度も見かける機会があったのだ。


 通り魔事件の記事。

 いじめによる学生の自殺の記事。

 詐欺事件の記事。

 交通事故の記事。

 政治の話。

 経済の話。

 住宅展示場の広告。


 ――それらの情報は、時間の流れる世界で生きる者にとっては、きっとそれなりに重要な意味のあるものなのだろう。

 小説や漫画の中で描かれる物語とは、また違った意味が。


 一刻にとっては、新聞に載っている様々な記事の内容も、小説や漫画の中で起こる事件と等しく、自分にはなんの関係のない、なんの影響もない、こことは隔絶された世界の出来事だ。

 交通事故に遭う心配など、しなくていい。

 政治、経済とやらがどうであろうが、一刻の生きるこの世界は何も変化しない。

「逢魔ヶ刻の連続通り魔」――大きく紙面を割いて書かれているその事件の、まだ捕まっていない犯人に、一刻が襲われることは、けっしてない。


 読み飽きた新聞から顔を上げて、一刻は、ホームから線路に飛び降りた。


「さて。どっちに行けばいいんだっけ……」


 呟いて、一刻は、オレンジ色の太陽に顔を向けた。

 ――違う。あのときは。

 今度は、太陽に背を向ける。


 ――ああ、そうだ。


 昔、母と歩いたときは、こうして太陽に背を向けて、線路を伝ってこの駅までやってきたのだ。

 ということは。

 あのときの道を遡るには、太陽に向かって線路の上を歩いていけばいい。


 よおし。と意気込んで、一刻は歩き出した。


 しかし、少し進んだところで、再びはたと足を止めた。

 目の前一面に広がる、赤錆色の地面。

 その上に敷かれているのは、ごちゃごちゃと入り組み、そこここで絡み合いながら伸びていく、たくさんの線路。


 ――そうだった。


 この駅は、いろんな方向から集まってきた線路を、ここで一ヶ所にまとめて束ねている、そんな場所だったのだ。


「どうしよう。こんなにいっぱい線路があったら……」


 どの線路の上を歩いていけば、昔の道を遡れるのか。

 皆目見当がつかない。

 じゃり、じゃり、と靴の裏で石を鳴らしながら、一刻は、しばらく考え込んだ。


「……とりあえず、進んでみるしかないかなあ」


 考えた末に、行き着いたのは、そのような結論だった。

 とにかく先へ進んでみて、そうしたら、この先の景色を見たりして何か思い出せることが、あるかもしれない。

 それがまったく見覚えのない、通ったことのない道だと確信できたら、そのときは、引き返してまたここに戻ってくればいいのだ。


「時間は掛かるだろうし、何か思い出せることがあるとも限らないけど……」


 かといって、ほかに良い方法も見つからない。

 ひとまず、一刻は、今立っている線路の上を進んでみることにした。


 行く手に延々と架線が連なる景色は、まるで、骨組みだけが透けた四角い透明なトンネルのようだ。

 その架線を、一つ、また一つと、くぐり抜けていく。

 石の敷かれた地面は、少々歩きづらいものの、足音がよく鳴る。

 そこがいい。


「あ。……そうだ」


 ふと思いついて、一刻は、地面から赤錆色の石を一個、拾い上げた。

 その石を、胸の高さの辺りまで摘まみ上げて、指を離す。

 空中に静止する石。

 それを見つめて、一刻はうなずいた。



「これからは、こうして目印を置きながら進んでいこう。そうすれば、一度通った道はそれとわかる。

 ……この先、昔歩いた道を何一つ思い出せなくても、いざとなればこうやって――。

 通った道に目印を置きながら、オレンジ色の地帯を、しらみ潰しに歩いていけば――。

 いつかは、あの場所にたどり着くことが、できるんじゃないか?」



 もう一度うなずいて、一刻は、宙に浮く石の横を通り過ぎた。


 じゃり、じゃり、と響く足音に合わせて、鼻歌が漏れ出す。

 それは、いつしか口ずさむ歌に変わっていた。

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