オレンジ色の地帯 ②

 オレンジ色の町の道路は、どこもかしこも影の中だ。

 たまに、太陽と道路の向きの兼ね合いによって、陽のあたる場所もあるにはあるが。

 それでも、こうまで日なたが少ないとやや肌寒く、一刻は、道中見つけた服屋に入って、薄手のコートを一枚羽織った。


 コートを手に入れるために服屋に入るのは、初めてだった。

 下着やその上に身に付ける衣類は、着倒しては取り替えてを、もちろんこれまで幾度となく繰り返してきたから、それなりに選び方はわかっている。

 しかし、ここに来るまでずっと着る必要のなかったコートとなると、どういう基準で選べばいいのかわからなかった。


 幼い頃にオレンジ色の町を歩いていたときも、たぶん、何かしらの上着を着せられてはいたと思うが。

 その上着は、ほかの衣類と同じく、やはり母がいっしょに選んでくれていたのだろう。


 ――「うん、似合うね」「これより、あっちのほうがいいかな」と、そんなことを言いつついっしょに服を選んでくれる人は、もういない。


 自分に似合う服。

 それに至っては、いよいよ自分一人では判断のしようがなかった。



 時間の流れる世界では、自身の姿を知るための道具として、鏡やカメラといったものがある。

 けれど、この世界ではカメラという機械は使えない。

 そして、この世界における鏡とは――それは、ショーウインドウでも車の窓でも池の水面でも同じことだが――あくまでも「世界の時が止まった瞬間に、そこに何が映っていたかを示すもの」だ。

 それゆえに、「世界の時が止まった瞬間、どこの鏡にも映っていなかった人や物や風景」は、この世界では永遠に鏡に映ることはない。


 時間が止まる以前の世界に存在しなかった一刻の、その姿を映す鏡など、この世界のどこにもあるはずがなかった。


 ――俺は、母さんに似てるんだろうか?


 そのことを、一刻は、何度か考えたことがある。


 しかし、自身の姿を知るすべのない一刻に、それを確かめることなど、どうやってもできはしないのだ。


 結局、あまり吟味せずに選んだコートは、一刻には少しサイズの大きなものだった。

 そのせいで、ボタンを留めると暑いのだけど、ボタンを留めずに前を開けていると、いつの間にか、コートがずるずると後ろへ脱げていってしまう。

 そうならないように、その場に静止しようとするコートを、うまく体に引っかけて歩かねばならない。

 コートの裾は、常に一刻の体より後ろに浮き上がるため、袖に通した腕や肩に比べて、背中や腰回りだけがスースーする。


「くそ。失敗したかな……。新しい上着に取り替えるときは、ちゃんとサイズの合うやつ、選ばないとな……」


 肩から落ちたコートの襟を、引き上げる。

 こんなに着心地に難があるとは、思わなかった。

 でも、色やデザインは好みのコートだ。

 着慣れれば気にならなくなるかもしれないし、一応、駄目になるまで着倒すつもりではいよう。


「そういえば。そろそろ、靴は取り換えないと……」


 地面を踏み鳴らす足を止め、一刻は、足元を見下ろした。

 今履いているスニーカーは、もうひどく底が擦り減って、爪先にも穴が開いている。

 一人で歩き始めてから、これは、いったい何足目の靴だったろうか。

 しょっちゅうわざと足音を立てて歩くから、余計に傷みが早いのだ。


「靴屋……。ないかな、どっかに……」


 辺りを見回しながら、一刻は歩く。

 そうして探すのは、靴屋だけではないけれど。

 見覚えのある景色はないか。

 建物でも、人でも、雲でも、なんでもいい。ほんのわずかでも記憶に残っている何かが、見つからないものか。


 オレンジ色の地帯にたどり着けたはいいものの、今いる場所が、はたして、昔訪れたことのあるオレンジ色の町の一つなのかどうか、一刻にはわからなかった。




 しばらく歩いたあと、一刻は、一軒の店に目を留めた。

 それは、探していた靴屋ではなく、書店だった。

 入口側の壁が一面ガラスで、ドアが開きっぱなしで、店内の様子が外からでもよく見える、小さな書店。


 その店の奥で、一冊の本が、宙に浮かんでいた。


「あれって……」


 一刻は、店の中に入り、奥にある本棚へと近づいた。

 その本棚は、児童書のコーナーだった。

 棚の前には、立ち読みをしている子どもが一人いる。


 その子の隣で、一冊の児童書が、空中に静止している。

 立ち読みの子どもが手に持っている本と、ちょうど同じくらいの高さに浮かんだその本は、真ん中よりいくらか後ろのページが開かれていた。


 一刻は、少し腰をかがめ、その本を覗き込んで目を細めた。


「あはっ……。そうそう。これ、読んでる途中でおなかがすいてきて、食事探しに行ったから、最後まで読めなかったんだよなあ。食べ終わったら続きを読もうと思って、このままにしてたはずなのに。本が開きっぱなしってことは、あのあと、すっかり忘れちゃってたんだろうなあ」


 一刻は、開かれたページの隅を摘まみ上げて、その一枚を次のページから引き剥がし、前のページへと押し付ける。

 本を宙に浮かべたまま、片手の指だけでページをめくる。

 そうやって、ついつい最後まで読みふけった。


 読み終えた本を閉じ、一刻はそれを、棚の中に開いた本と本との隙間に差し込んだ。

 その隙間は、棚に戻した本の厚みとぴったり同じだった。




 店を出て、一刻は、オレンジ色の空を見上げた。


「よかった。ここは、昔来たことのある町だったんだ」


 ずっと昔に通り過ぎた、だけの町。

 それでも、まったく知らない町ではないというだけで、心細さがいくらか和らいだ。

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