オレンジ色の地帯 ①

「カレーライス、うどん、スパゲッティ、オムライス、焼き鳥……」


 飲食店の多い商店街を歩きながら、一刻は、目に付いた料理の名前を片端から呟く。

 この商店街は、ずっと昔に訪れた場所だけれど、はっきりと覚えている。

 ――懐かしい。


「ラーメン、たいやき、たこやき、寿司、お好み焼き……」


 そろそろおなかがすいた。

 ここらで何か食べておこう。


 少し迷って、一刻が選んだのは、カレーライスだった。

 カレー屋に入ると、厨房には、皿に盛り付けられているシーフードカレーがあった。

 その皿の横に、汚れた空の皿も並んでいた。

 それは、以前この商店街を訪れたときに、一刻が食べたカレーの皿だった。


「あのときは、チキンカレーだったっけ。……あのとき、風邪で熱出してたのに、それでも、食べたいのはどうしてもカレーだったんだよな」


 うどんにでもしとけ、と母は呆れ顔で言ったのだけど。


「どうせなら、あのときの場所で食べようか……」


 一刻は、シーフードカレーの皿にラップをかけて、それを持って店を出た。

 向かう先は、商店街の一本裏の通りにある、喫茶店だった。

 ビルとビルの隙間に造られたような、縦に細長い三階建ての建物。

 一階は古道具屋。二階はギャラリー。

 そして、狭い階段を最後まで上がりきると、そこに、ステンドグラスの小さな窓が嵌め込まれた、喫茶店のドアがある。


 ドアを開けて店内に入り、一刻は、空いている壁際の席に腰を下ろした。

 昔ここに来たときと、同じ席。

 窓の向こうに、向かいのビルによって端の欠けた、オレンジ色の太陽が見える。

 店内は、オレンジの光で染まっている。


 オレンジ色の町。

 ようやく、ここまで辿り着いた。


 でも、まだここからだ。

 オレンジ色の地帯は広い。

 オレンジ色の町は、いくつもある。

 その中から、あのときのあの場所を、探し出さなければ。


「とりあえず、今は、腹ごしらえだな。……どうせだから、ここで、あのときとおんなじようにして、食べてみようか」


 独り言と共に、一刻は、フェイクレザーのソファに横たわった。

 仰向けに寝転んで、顔の上にカレーの皿を浮かべる。

 逆さまにした皿からラップを剥がし取り、皿だけテーブルの上に置く。

 そうして、空中に残って静止したご飯とカレールーと福神漬けを、ほかのテーブルから取ってきたスプーンを使って混ぜ合わせ、口に運んだ。



 風邪で熱を出したあのときも、こうやってカレーを食べた。

 鞄を枕にして、ソファに体を横たえて。

 顔の上に浮かべたカレーを、一口一口ゆっくりと食べたのだ。


「うん。シーフードカレーも、美味しい」


 味わいながら、あのとき食べたチキンカレーの味を思い返し、一刻は瞼を閉じた。


 あのとき――。


 一刻をこのソファに寝かせて、母は、カレーを探しに行った。

 喫茶店のドアから出ていく、母の後ろ姿。

 それを見ながら、一刻は、不意に突き上げるような不安を覚えた。

 なぜだか、それきりもう二度と、母が戻ってこないような気がしたのだ。


 その不安は、熱で弱っていたせいだったのかもしれない。

 現に、母はあのあと、ちゃんと一刻のもとへ戻ってきた。


 一皿のカレーを持って戻ってきた母に、一刻は、しがみついて泣きじゃくった。

「おいていかないで」「どこにもいっちゃやだ」と、嗚咽にまみれながら、何度も何度も繰り返した。

 そんな一刻の背中を、とん、とん、と広げた手で優しく叩いて、母は言った。


『どこにも、行かないよ。まだ子どものあんたを、置いていったりするもんか』


 それを聞いた一刻は、瞼を拭って、母を見上げた。

 宙に浮かんだ幾粒もの涙の向こうに、微笑む母の顔があった。


 けれど、その笑みは、オレンジに染まった空間の中で、やけに冷めた色をして見えたのだ。


 泣き止んだあとに食べたチキンカレーは、美味しかった。

 おなかが膨らんだのと、熱による疲弊のせいと、泣き疲れたせいで、一刻はすぐに眠たくなった。


 目を閉じて、うとうとと、もう少しで眠れそうになっていたところへ、ふと、母の声が聞こえてきた。


『そうなんだよな。……私は、薄情で、臆病な人間だ』


 それは、今思えば、一刻に話し掛けたわけではなかったのだろう。

 しかし、一刻は、その呟きを聞くともなしに聞いていた。


『大事なはずのものを、ずっと大事に想い続けていられない。大事なものであればあるほど、失う前に、自分から手放したくなる。自分から手放せるくらい、それは私にとって小さなものなんだと、そう思ってしまったほうが、楽だから。――まったく、どうしようもない人間だよ』


 そのとき、母がどんな表情をしていたのか。

 瞼を閉じていた一刻には、知るよしもない。


『けど……まあ、いいや。どうせ、もう。――今さら、関係ないんだから』


 瞼の裏まで透けたオレンジ色の中に、ただ、母の声だけが溶けて、響いていた。



 それから何日か、一刻たちは三階の喫茶店で過ごした。

 そして、一刻の熱が下がってから、次の町へ行くために、また歩き出した。


 母といっしょに、チキンカレーの皿をカレー屋に返しに行ったあと。

 一刻は、オレンジ色の太陽に向かって歩きながら、繋いだ母の手を強く握った。

 その手を、母は同じくらい強い力で、握り返した。


『一刻。あんたは、私に似るなよな』


 太陽に顔を向けたまま、母は言った。


 あの言葉が、あれからずっと、胸の奥に引っかかっている。

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