グラデーションの旅路 ⑤

 母がいつも首に掛けていた懐中時計。

 それは、母の母、すなわち一刻の祖母から、譲り受けたものであったという。



『形見としてだ。あの人が私に遺した手紙の中に、その旨が書いてあった。私は、一人娘だったからね。母さんも、そうだった。それで、母さんと同じ血を引くのは、私一人だったから。この時計も、私が受け継ぐことになったわけだ』



 珍しく、母がそんなことを語ってくれたのは、いつのことだったか。

 オレンジ色の地帯にいた頃ほどの昔ではない。

 たぶん、一刻の背丈が、ちょうど母に追いついたくらいの頃だった。



『……で。この時計が、母さんから私の手に移ったのは、私が確か……そう。十三のとき』



 母は、太陽を背にして、遠くを見つめていた。

 母の隣に座る一刻もまた、その背中にほんのりとした熱を感じながら、母の言葉に耳を傾けていた。



『私の母さんもね。私と同じように、世界の時間を止める力を持ってたんだよ。なんでも、そういう血筋なんだそうだ。――けどね。一刻。よく、聞いてくれ』



 呼び掛けながらも、母の目は、相変わらず空と街との境を見つめていた。



『その力は、本当に、本当に、本当に必要ときにしか、使っちゃならない。なぜかっていうとだ。その力は、たった一度きりしか使うことができないからだよ』



 そうして、母は、ゆっくりとその目を伏せた。

 母が口をつぐんでいる間、世界は果てまで静寂だった。


『それからね』


 と、顔を上げた母は、そこではじめて一刻のほうを見た。



『その力は、時間を止めることはできても、それだけなんだ。止まった時間を、自分の意思で再び動かすことは、できないんだ』



 そう言って、母は、自嘲気味に微笑んだ。



『私の母さんも、時間を止めた。私が、十三のときだった。それは、当然なんだけど、私にとってはあんまりにも突然で……。自分の母親と、そんなに早くにお別れすることになるなんて、思ってもみなかった。しばらくの間は、実感なんて湧かなかったよ。だって。見つかった遺体の顔を見ても、それが、つい半日前までいっしょにいた母さんだなんて、とても信じられなかったしね』



 喋りつつ、母は、首に掛けた鎖をそっと摘まみ上げた。

 鎖と金具のこすれる音が、小さく鳴った。



『これは、ただの時計だ』



 動かない懐中時計。

 それは、世界中にある、ほかのあらゆる時計と同じように、この世界で決して針を進めることはない。

 そんなことは、一刻も知っていた。



『これ自体は、何も特別な力を持つわけじゃない、ただ、母さんが愛用してたってだけの懐中時計だ。……もっとも、母さんは、時間を止めたとき、この時計に向かって祈ったらしいがね。この時計の針を止めるつもりで、「時間よ、止まれ」って、祈ったんだとさ。母さんの遺体が見つかったとき、いっしょに見つかった手紙に、そう書いてあった。それを読んだからね。私も、自分で時間を止めるとき、同じようにしたんだよ』



 母は、胸の前に浮かぶ時計へと、指を伸ばした。



『いつか、私が動かなくなるときが来たら』



 時計を片手の中に包み込んで、呟くように、母は言った。



『そのときは、この世界の時間が、また動き出せばいいんだけどな』

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