グラデーションの旅路 ④

「日なたが狭くなってきたなあ……」


 市街地を歩きながら、一刻は呟いた。

 出発した地点と比べて、この街では、道路を覆う影の面積が明らかに広くなっている。

 周りにある人々の影も、母が倒れた駅前広場にあった人々のそれより、全体的にいくらか長い。


 わずかな日なたのなかで、一刻はなんの気なしに、自分の足元を見下ろした。

 そこに、影はない。

 母にも、同じく影はなかった。

 ただし、母は自分の影をどこかに置いてきた人だったが、一刻は、生まれたときから影を持っていなかった。

 それは当然のことだった。

 一刻は、時が止まったあとの、この世界で生まれたのだから。

 時を止める以前の世界に存在しない影が、この世界に存在するはずもない。


「うーん……。この、点字ブロック……? だっけ? このブロックのとこまでが日陰になってる歩道、歩いた覚えはある気がするけど……」


 地面に目を落としたまま、一刻は首をかしげる。

 自分が昔見た歩道は、本当にこの歩道だろうか? 同じところまで影がある似たような歩道は、ほかの場所にもあるかもしれない。


 顔を上げて、辺りを見回す。

 もっと、確実に見覚えのある景色はないだろうか。

 それを探しつつ、気がつけば一刻は、またいつもの歌を口ずさんでいた。


 その歌は、母がよく口ずさんでいたものだ。

 よほどお気に入りの曲だったのだろう。母が歌うのはいつもそればかりだったから、一刻は、それ以外の歌を知らない。


 ――いや。実際には、その歌さえも、本当に知っているわけではない、らしい。


 母が歌うその歌を、一刻は、いつの間にか、覚えるともなしに覚えていた。

 けれど、一刻がそれを歌っていると、母は必ず嫌そうに眉をしかめた。



『やめてよ。私が歌ってるのを、あんまり覚えないで……』

『え? なんで?』

『そりゃ……私は、歌が下手だからだよ。私が歌ってるのを聞いて覚えても、それは、この曲の本当のメロディーじゃないからね』



 この曲の本当のメロディー。

 それを、一刻が知る術はない。


 時間の流れる世界では、音楽を再生する機械というものがあるのだろう。

 だが、時を止めたこの世界で、その手の機械は動かない。

 手動で動かせるものなら、あるいはなんとかなるかもしれないが。

 でも、手動で音楽を流せる機械――以前読んだ本には、「レコード」や「オルゴール」といったものであればそれができる、と書いてあった――で聞ける曲は、限られているという。


 母のお気に入りのあの曲は、どうなのだろう。

 それが「レコード」や「オルゴール」で聴けない曲なら、やっぱり、一刻には永遠にそのメロディーを知ることができないのだ。


 それでも、一刻は、かまわずこの歌を口ずさむ。

 なるべくずっと、音を生んでいたいから。


 歌でもいい。

 独り言でもいい。

 足音でもいい。

 粒チョコレートが筒の中でぶつかり合う音でもいい。


 なんでもいいから、とにかくいつも、何かの音が欲しいのだ。


 隣を歩く足音も、一刻の言葉に応える声も、もう、存在しないから。


 自分以外に音を生み出すものは、何もない。

 自分が音を立てるのをやめれば、その途端に、世界中から音が消える。

 この世界が、隅から隅まで静まり返る。

 その静寂が、いまだに耐えられない。


「……あ」


 ふと、歌うのをやめて、一刻は立ち止まった。

 生垣の向こうに、たくさんの水の粒が見えた。

 上のほうにある水の粒は、一刻の身長よりも高い所に浮かんでいる。


「……噴水。かな?」


 生垣を辿っていくと、公園の入口があった。

 一刻はその公園に入って、噴水を探す。

 広い公園の真ん中にある噴水は、すぐに見つかった。

 噴水の横には、一台の赤い自転車がある。

 その自転車の持ち主らしき人が、噴水の縁に腰かけて、スポーツドリンクを口元まで持ち上げている。


 それは、間違いなく、見覚えのある光景だった。


「よかった。やっぱり、ここには来たことがあるんだ」


 ホッと息をついて、一刻は、噴水に近づいた。


 噴水の前に立ち、陽に照らされてキラキラ光る、その水の粒を見上げる。

 じっくり見れば、それらは一粒一粒、微妙に色が違っている。

 水の粒には周りの色が映り込むから、映り込んだものによって粒の色は変わる。


 空を映した薄青い粒。

 葉の茂る木を映した緑の粒。

 そばにある自転車を映した赤い粒――。


 一刻にとって、噴水とは、たくさんの水の粒や、水の筋や、水の膜の集まりだ。

 時間の流れる世界では、それは、水を噴き出すものだそうだけど。

 それがどんなものなのか、一刻にはいまいち想像がつかない。

 噴き出る水。落ちる水。

 その動きがどんなものなのか、わからない。

 水音というのも、どういう音であるのか謎だ。


 一刻は、赤い自転車の前に身を乗り出して、水の柱の根元を覗き込んだ。

 波紋の皺で歪んだ水面には、自転車と、その持ち主らしき人物の背中と、あとは空の色だけ、映り込んでいる。

 水面に映る自転車のハンドルには、一枚の落ち葉が重なっていた。

 それもまた、記憶にあるとおりの光景だった。


 一刻は、自分も噴水の縁に腰かけた。

 なんだか暗い、と思ったら、見上げた先に、翼を広げた一羽の鳥が浮かんでいた。

 その影が、ちょうど一刻の顔に被さっていた。


「鳥って……あの翼を動かして、空を飛ぶんだよな」


 鳥の羽ばたき。

 それは、いったいどんな動きなんだろう。

 鳥が羽ばたくと、どんな音がするんだろう。

 鳥の鳴き声って、どんな声なんだろう――。


 生まれたときからこの世界にいる一刻は、それらを知らないし、永遠に知り得ない。


 鳥の周りには、木の葉も何枚か浮かんでいた。

 木から離れたところで浮かんでいる、ああいう葉っぱは、「風」というものに吹かれた葉なのだろうか。


 風って、どんなものなんだろう。

「ものすごく大きな息みたいなもの」と、母は言っていたけれど。

 そんなの、ぜんぜん想像がつかない。



 かつては時間の流れる世界にいた母と、生まれたときから時間の止まった世界にいる自分。

 あの人が知っていて、自分が知らないものは、いったいどれだけあるのだろう。


 それは、きっと、あまりにも限りないに違いない。

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