グラデーションの旅路 ①
「――ばーぐらぁんどにー……」
歌を口ずさみながら、一刻は歩く。
高架線沿いの県道。
道の脇には、色褪せた看板とすすけた建物の、ひと気のない観光施設が立ち並ぶ。
車道にそこそこ自動車はあるが、歩道にはほとんど人の姿がない。
高架線のすぐ向こうには山が見える。
道の反対側にも、いくらか離れて連なる山。
右へも左へも行き難いこの町を、はたして、以前に訪れたことはあっただろうか。
山間にある寂れた観光地の風景は、確かに記憶の片隅に残っている。
でも、母がいた頃に二人で歩いたあの道が、本当にこの県道だったかどうかは、定かでなかった。
地名も、道路の名前も、何も覚えていないのだ。
それを覚えておく必要なんて、なかったから。
少なくとも、これまでは。
もと来た道がわからなくなっても、一度訪れた場所に、そのあと二度とたどり着けなくなっても、これまでは、なんの不都合もなかったのだから。
「――ばーぐらぁんどでー……」
生まれてからというもの、一刻は、ずっと母と共に旅をしてきた。
そう。
ひとつの場所に留まることなく、こうやっていろんな場所を渡り歩きながら暮らすのは、「旅」とか「放浪」とかいうらしい――というのは、本で学んだ知識だ。
本の中の登場人物は、たいていが自分の家を持って、そこで寝起きしたり食事したりして暮らしていることが多い。
そうでない人物が「旅人」と呼ばれていた物語を、いつだったか読んだことがあった。
「……はあっ」
一刻は、歌を口ずさむのをやめて、大きく息継ぎした。
この県道に入ってから、ずっと歌い続けで、さすがに喉が枯れてきた。
歌うのをやめた代わりに、わざと地面を踏み鳴らして歩く。
これをやりすぎると、てきめんに足が痛くなるのだけど。
「……それにしても、遠いなあ。これだけ歩いているのに、まだまだ、こんなに明るいなんて」
呟いて、一刻は、進む先の空を見つめた。
それから、立ち止まり、後ろを振り向いて、太陽の光に目を細める。
「方向だけは、合ってるはず……。太陽から離れていけば……。いつか……いつかは、あの、オレンジ色の町に、行けるはず……」
一刻は、粒チョコレートの入った紙筒を振って、カシャ、カシャ、と音を立てる。
昔。ずっと昔。幼い頃。
一刻は、いくつものオレンジ色の町を転々として暮らしていた。
空も、人も、建物も、川も、オレンジの光に染まった景色。
今思い出すと、それは嘘のように非現実的だ。
けれど、あのオレンジ色の地帯は、きっと実在する。
写真集の本やポスターで、あの色に染まった空や町を、何度も見たことがあるからだ。
今いるここには、空や町を染めるあの色はない。
それは、この町がまだ太陽に近すぎて、光が強く、光の色が透明すぎるからなのだろう。
オレンジ色の地帯にある町は、もう少し暗くて、外にいると物が見えづらかったように記憶している。
だから、太陽から遠ざかっていけば、そのうちだんだんと景色は暗くなって、あのオレンジ色が見えてくるはずなのだ。
母と二人で、ずっと旅をしながら暮らしてきた。
そんな一刻の記憶は、古いものであればあるほど、色濃いオレンジに彩られている。
母は、一刻を連れて、明るいほうへ、明るいほうへと歩いてきたのだ。
どうしてだろう――なんてことを考えたのは、あの問いに対する母の答えを受け取った、あのときからのことだった。
『母さんは、どうして、この世界の時間を止めたの?』
一刻の問いに、母は声を出すことなく、唇だけを動かして答えた。
――あ て て み な。
あのときの答えを、今一度、一刻は自分の唇でなぞる。
思わず、ふっと笑いが漏れた。まったく、あの人らしい答えだ。
「あんたがそう言うなら――当ててやろうじゃないか」
囁くように、一刻は呟いた。
幼い頃に歩き暮らした、薄暗いオレンジ色の地帯。
母といっしょにいくつも通り過ぎた、あの色に染まった町の一つ。
その中の、どこかにある。
母が「決して行ってはいけない」と言った、あの場所が。
『だめ、一刻』
ふと何気なく、そこへ向かおうとした一刻の腕を、母は強く掴んで引き戻した。
『行くな。あそこは、近づいちゃいけない場所だから。あそこにだけは、何があっても、絶対に行っちゃだめ。――いい?』
あのときの母の目を、一刻は、今でもまざまざと思い出すことができる。
オレンジに染まった景色の中で、一刻を睨みつけた、あの人の瞳の色を。
あのときを境にして、一刻の思い出の中の情景は、次第にオレンジの色を薄め、明るく、鮮やかに彩られていった。
「あそこに――何が、あるんだろう」
母が、遠ざけようとしたもの。遠ざかろうとしたもの。
それがなんなのか、知りたかった。
あの場所にたどり着くことができたら、そこにはきっと、答えに繋がる何かがある。
「そう考えて……いいんだよな?」
うつむいて、一刻は、不安の混じった笑みを浮かべた。
「だって、そうでもなきゃ、お手上げだ。さすがに、まったくのノーヒントで、あんなこと言ったわけじゃないよな? ……母さん」
母は、そこまで人の悪い人物ではなかったと、信じたい。
ただ――それ以前に、そもそもの大きな問題として、だ。
たった一度、ずっと昔に訪れただけのあの場所を、今になって自分一人で探し当てることなど、本当にできるのだろうか。
「ま……やるだけ、やってみるしかない」
小さく溜め息をついたあと、一刻は、再び太陽に背を向け、歩き出した。
地面を踏み鳴らして歩くのは、もう疲れた。
だから、粒チョコレート入りの紙筒をもう片方の手に持ち替えて、それを振りながら歩く。
カシャカシャ、カシャ、カシャ、カシャ。
喉か足が休まるまでは、こうしてチョコレートを振っていよう。
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