パウダーブルーの空 ②
この世界の時を止めたのは、母だという。
母は、世界の時を止めたあとで、そのときすでに身ごもっていた一刻を産んだ。
家族も、友人も、通行人も、医者も――母自身とその胎内にいる子ども以外の、すべてのものが時を止めたあとの世界で。
誰の助けも借りられず、一人きりで痛みを耐えて、血を流して。
それで母子共々に生き延びられたのは、きっと相当に運の良いことだったのだろう。
けれど。
運が良かったのは、あるいは一刻のほうだけで、母は決して強運の持ち主というわけではなかったのかもしれない。
まったく不意のことだった。
駅前広場の人ごみの中を歩いていたときだ。
母は突然、立っていられないほどの頭痛に襲われて、呻きながらその場に座り込んだ。
『母さん、大丈夫?』
『ん……。ごめん。ちょっと、ここで休ませて』
『頭、痛いの? どっかから頭痛薬、探してこようか?』
一刻のその言葉に、いくらかの沈黙を経て「頼む」と返した母は、もしかしたらその時点で、すでに察していたのだろうか。
そのとき母を襲った頭痛が、どういう類のものであったのかを。
一刻が、近くのドラッグストアから頭痛薬を取って、広場に戻ってきたとき。
母は、人ごみの中で、仰向けになって地面に横たわっていた。
めいめいの歩き姿で時を止めた通行人たちの、その足の林の隙間に、体をねじ込むようにして。
そうして暇でも潰すように、動かない通行人たちの顔を地べたから眺め、痛みに歪んだ顔で、力なく笑っていた。
『母さん……寒くないの?』
『いや……。地面のタイル、ぬくいんだよ。広場は……日当たり、いいからね』
『でも、そこじゃあ、何個も人の影があるじゃないか。もっと、直接日が当たるところにまで、運ぼうか?』
『いや……。この眺めが面白いから。しばらく……このままで、いいよ……』
荒い息をつきながら、とぎれとぎれに母は言った。
通行人の影が被さっているというのに、母は、眩しげにその目を細めていた。
一刻は、ドラッグストアから取ってきた頭痛薬を、一口大の水の塊に埋め込んで、母の口へと近づけた。
母は、すがるようにそれを睨んでから、口に入れ、ゆっくりと飲み込んだ。
そのあと、少しむせていた。
薬を飲んでも、母の頭痛は一向に治まらなかった。
けれど、それ以上、一刻にはどうすることもできなかった。
周りには、たくさんの人たちがいる。
目と鼻の先には、大きな病院の建物が見える。
でも、いくら助けを求めたところで、その呼びかけに応える者は誰もいない。
この世界では、母と一刻を除いたすべてのものが、残らず時を止めているのだから。
『……かずとき』
ぽつりと呼びかけた、その小さな声に、違和感があった。
普段の母とは明らかに違う、不明瞭な喋り方だった。
呂律が回らなくなっていたのだ。
『……何?』
『……これ。……わたしとこうと、おもって……』
そう言って、母は、懐中時計を――時計に付いた鎖を絡ませた指を、一刻のほうへ差し出した。
鎖から、母の指がほどけて落ちる。
一方で、母の指を離れた鎖と時計は、そのまま空中で静止する。
一刻は、手の平ですくい上げるように、そっと時計を掴んだ。
時を計る機械。
時間の流れが存在しないこの世界では、なんの役にも立たないもの。
だからこそ、それを渡された意味が、一刻はなんとなく理解できた。
『ねえ……母さん』
動かない時計の針を見つめて、一刻は言った。
『ひとつだけ、聞いてもいい?』
『……ん』
母は、呻きに似た声を億劫そうに押し出した。
その
だが、どちらにせよ、答えたくなければ、この人は答えることはないだろう。
そう思い、一刻は尋ねた。今まで、ずっと聞けずにいたそのことを。
『母さんは、どうして、この世界の時間を止めたの?』
時計を手の中に包み込んで、一刻は、地面に横たわる母に目を落とした。
母は、笑った。痛みに顔を歪ませながら。
だけれど、たとえ
母は声を出すことなく、唇だけを大きく動かして、一刻の問いに答えた。
あの人が答えとして選んだ、五文字の言葉。
その中に、唇をすぼめる音が一つも含まれていなかったので、ゆっくりと声なく五文字を紡ぐ間、母の笑みは途切れることがなかった。
それからほどなくして、目を閉じた母は、動かなくなった。
苦しげな息も、痛みに呻く声も、身じろぎの音も、何一つ、聞こえなくなった。
世界の果てまで続く静寂。
それを自分の口元で破って、一刻は、囁くように母へと語りかけた。
『俺さ……昔から、あんたが寝てる姿を見るたび、怖かった。 静かに眠ってて、ぴくりとも動かないあんたを見るたび、あんたも、時間の止まったほかの人たちと、同じようになっちゃったんじゃないかって。こっち側じゃない、〈向こうの時間の世界〉に、行っちゃったんじゃないかって。何百回も……何千回も……数えきれないくらい、そんな不安に怯えてきたんだ。……でも』
一刻は、長く伸びた母の髪の毛をいくらか、指先でつまみ上げた。
指を離すと、その髪の毛は空中に留まることなく、はらりと元通り地面に落ちた。
それは、彼女が確かに一刻と同じ時間を過ごした「仲間」であり、今尚そうであり続ける存在だという証だった。
一刻は、小さく微笑んだ。
『結局、あんたの言ってたとおりだった。あんたは、世界の時を止めることはできても、時を止めたこの世界を抜け出す力は、持っちゃいなかった』
一刻は、しばらく母を見つめたあと、立ち上がった。
そして、母から渡された懐中時計を、母がいつもそうしていたように、自分の首に掛けた。
『この時計の針が、動くところ……俺も、見てみたかったな』
呟いて、一刻は、その場でぐるりと一回転し、その間に、周りの景色をあらん限り見回した。
人々を。
道路の車を。
ビルの群れを。
色とりどりの看板を。
雲のある空を。
影が落ちた地面を。
母が動かなくなっても、何も変わることのなかった、その世界を。
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