片時の住人

ジュウジロウ

時間の止まった世界

パウダーブルーの空 ①

 ぼんやり歩いていたら、電飾看板のコードにつまずいて、すぐ前にいた通行人に思いきりぶつかった。

 その人を突き飛ばして倒れてしまい、とっさに「ごめんなさい」と口を開いて、起き上がる。

 わざわざ謝罪の言葉を口に出すことに、何か意味なんてあるのかな、と、いつものように疑問を覚えつつ。

 でも、人にぶつかったときは、そうやってちゃんと謝るようにと、さんざん言い聞かせられて育ってきた。人の体や持ち物に、むやみに触らないように、とも。


 わざと人に触れようとは思わない。

 だから、繁華街の大通りなんかは、人通りの多い歩道ではなく、たいてい車道を歩く。

 左右にずらりと並ぶ、自動車のドアと窓。それが延々と続く道。

車と車の間には充分なスペースがあるから、ごちゃごちゃと無秩序に人がいる歩道よりも、そっちのほうがよっぽど広々として、快適に歩ける。


 厄介なのは、通りたい道で、祭りやらパレードやらという大規模なイベントをやっていたりするときだ。

 ぎちぎちに人が密集していて、通り抜ける隙間もない。そんな状態になった路上にも、これまでに何回か行き当たったことがある。

 あれはいやなものだ。

 人間は岩や箱と違ってバランスが悪いから、たとえば、通行人の肩の上を渡り歩いて通り抜けようなどとしようものなら、まず間違いなく通行人ごと転倒して、その周りの通行人まで「ドミノ倒し」とやらになりかねない。

 そうなったら、もとに戻しておくのがとても面倒だ。

 人間は、バランスが悪くて倒れやすいくせに、やたらと重い。

 倒れたり傾いたりした通行人たちを、一人一人もとの体勢に戻していく、というその一連の作業たるや、考えるだけでも大変な重労働で、それをするくらいなら、もう潔く遠回りしたほうがマシである。

 ……もっとも、人の体を踏んだりしてはいけない、と散々言われてきたので、はなからそういう道の越え方をする気はないけれど。



 起き上がった一刻かずときは、溜め息をついて、ズボンの膝に付いた砂を払った。

 入念に叩き払って一歩下がると、膝のあった場所には、かすかな砂埃の膜が浮かんでいる。

 それをよけて、突き飛ばした通行人に歩み寄った。

 かなり強く突き飛ばしてしまったせいで、その人の体は、顔が地面に付くすれすれまで大きく傾いていた。

 その人の正面側に回り、一刻は、両手で肩を掴んで押し上げる。

 息を止めて力を込め、それを何度か繰り返す。

 やはり、人は重い。


 ――こんなとき。


「あの人がいればなあ……」


 そんな呟きが、ぽろっと口からこぼれ出た。

 直後に、はっ、として口を押さえた。

 自分のこぼしたその言葉がスイッチとなって、たちまちのうちに目頭へと、涙が吸い上げられる。


 土の中にいる「あの人」――母は、もう動かない。


 二度と動くことはなくなった。

 それでも、あの人ならば、きっと次第に溶けてはいくのだろう。

 だから、埋めたのだ。


 母が動かなくなったことで、この世界のあらゆる万物のうち、唯一自ら動くことのできる存在は、一刻ただ一人となった。


 人も車も、雨も雲も、鳥も虫も、影も日射しも――すべてが時を止めた、この世界で。



 ――ぶつかった人をもとに戻すのも、これからは、俺一人でやらなきゃいけないんだな。


 静寂がつらくて、声に出して呟こうとしたけれど、喉が引きつって、できなかった。

 目じりに向けて瞼を拭う。

 視界の両端に、小さな涙の球が浮かぶ。

 一刻は、それを手で寄せ集めて地面のそばまで押し下げると、上から踏みつけにじり、無理やり地面に染み込ませた。


 靴の下に潰れた涙を敷いたまま、首から掛けた時計をそっと掴んで、その硝子蓋の向こうを見つめる。

 生まれたときから、ずっと母と共にそばにあった、懐中時計。

 その針が動くところを、一刻は見たことがない。

 時計の針というものが、どんなふうに動くのか、一刻は知らない。

 ただ、それをこれから先も決して知ることができない、ということだけは、知っていた。

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