第2話

その日、狼は疲れ果てていた。

いつからか気づいてしまったからだ。

自分は夫の所有物であると。

ずっと大好きだった。

どんなに酷い言葉を言われようとも、誰よりも夫を愛していた。


けれど、ふと考えてしまったのだ。

夫は自分を愛していたのだろうか?

思い通りに動く家政婦のような存在だったのかもしれない。

家から出る事を許されず、狭い狭い世界で生きてきた狼は、今になって色とりどりの世界を見てみたいと思ってしまった。


そして今、初めて自分のテリトリーを出て遠くまでやってきたのだ。

想像もつかないような勇気が必要だった。

勝手に家を出たことに夫が気付けば、きっともう2度と外には出してもらえないだろう。

不安が重くのしかかってくる。


けれど、自由な世界が眩しすぎて、狼の心は踊っていた。

花はこんなに鮮やかな色だったのか。

川はこんなにキラキラと輝いていたのか。

見上げた空は、いつもと同じはずなのに、今日は驚くほどに澄んでいる。


「もっと早くこうしていればよかった」

狼はポツリと呟いた。

夫はいつもこう言うのだ。

「君は僕がいないと何もできないんだよ」と。

それが呪いの言葉だったことに気づいた。

自分は夫に言われたこと以外、何もできないのだと思い込んでいただけだったのだ。


狼は、太陽の光を浴びて輝く川の水面をじっと見つめた。

この美しい風景を目に焼き付けて帰ろう。

そう思ったとき、突然右足に痛みを感じた。


「ハイエナ…!」

浮かれてフラフラと歩いていたので、ここがハイエナのテリトリーだと気づかなかった。

思い切り振り払うが、噛み付かれた右足からは鮮やかな赤い血が溢れていた。


逃げようにもこの足では…。

3匹のハイエナに囲まれて、狼は覚悟を決めたかのように座りこんだ。

「きっとバチが当たったんだ。

やっぱり私は、外の世界に出てはいけなかったのかもしれない。」


死を覚悟した。

きっと、ここで私が死んでも夫はまず怒るのだろうな。と思った。

そう。

悲しむより先に、私が勝手に外に出たことを怒るだろう。

最期に美しい風景を見れてよかった。


ハイエナたちが狼に飛びかかろうとしたときだった。

何者かが草をかき分けてくる気配がした。

ビクリとハイエナたちの体がこわばる。

敵わない相手だと気付いているのだろう。

ゆっくりと後ずさりをしてから、3匹は蜘蛛の子を散らしたように逃げ去った。


何者なのだろう?

助けを求められるだろうか?

子供たちの顔がよぎる。

さっきは自暴自棄になっていたが、わたしにはあの子達を守る義務がある。

そう思った。

家に帰らなくては。


「近づかないで」

できるだけ落ち着いた声で狼は言った。

姿は見えないが、雰囲気でわかる。

ハイエナたちが逃げていくような存在だ。

言うことを聞いてもらえるとは到底思えないが、できるならば立ち去っていただきたい。


「できれば俺も争いたくない。」

穏やかな声だった。

しかも何だか頼りない話し方をする。

思わずフッと笑ってしまった。

相手は気を悪くしたようだ。

血の匂いは感じているはずなのに襲っては来ない。

それどころが、自分の言葉にショックを受けた様子で、悲しそうにここを立ち去ろうとしている。


「大丈夫?」

そんな言葉が無意識に口から出ていた。

何を言っているんだ、私は。

狼は思った。

わざわざ自分から関わろうとするなんて。

放っておけば、そのまま帰ってくれていたものを。


けれど、姿の見えない相手が何か助けを求めている気がした。

自分にできることがあるなら。と思ってしまったのだ。


ゆっくりと相手が近づいてくる気配がする。

この出会いは偶然なのか、必然なのか。


どちらだとしても、虎と狼の人生を変える出会いになることに変わりはなかった。







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