虎と狼

まゆぞう

第1話

その日、虎はとても疲れていた。

変わらない毎日。

妻と子供たちのために狩りをして、食べさせる。

毎日毎日、それはもう必死だった。

愛しているから頑張っていた。

守らねばならない存在だから。


しかしその日は、どう頑張っても獲物がとれなかった。

きっと、何も持たずに帰れば妻に冷ややかな目で見られ、こう言われるのだろう。

「私たちのために、もっと頑張れないの?」

と。

しかし君は気づいているのだろうか?

もう何年も、俺の誕生日におめでとうと言ってくれていないことに。

その日は虎の誕生日だったのだ。

家を出るときも、1人で朝食を食べ、1人で玄関のドアを開けた。

誰もいない玄関に向かって「いってきます」と呟いた。


家に帰りたくないな、と虎は初めて思った。

ずっとがむしゃらに走り続けていて気づかなかったが、虎の心にはポッカリ穴が空いていて、それに気づいた途端、恐ろしいほどの虚無感に襲われた。


自分でもわからないが、ポロリと涙がこぼれた。

家族を愛している。

でも…それは満たされるような暖かい愛ではなく、子供の頃に夢に描いた、理想の家族像を守るべく作りあげた義務の愛なのだと気づいた。


トボトボと川べりを歩いていると、何者かの気配を感じた。

向こうも警戒しているようだ。

しまった、いつのまにか誰かのテリトリーに入ってしまったのかと虎は焦った。

今の精神状態で闘うのはごめんだ。

虎は警戒しつつ、後ずさりしてうまくこの場を切りぬけようとしていた。


「…血の匂いだ」

風にのって、フワリと虎の鼻をついたのはよく知る血の匂い。

「怪我をしているのか?獲物になりそうなやつなら、万々歳だ。」

虎は静かに草むらをかき分け、何者かに近づいていった。

これで妻の機嫌を損ねずに済む、と虎は安堵した。


「近づかないで」

怒りを秘めたような静かな声に、虎はビクリと足を止めた。

メスだ。

姿は見えないが、声でわかった。

「争いは嫌い。このまま去ってもらえたらありがたいのだけど。」

虎は答えた。

「できれば俺も争いたくない。

けれど、君がもし俺の獲物になる存在ならば、俺は引き返すわけにはいかないんだ。

…家族のために…」

最後はゴニョゴニョと口ごもってしまった。


フッ、と相手が笑ったのがわかった。

「なぜ笑う?」

虎は少しムッとして尋ねた。

「だって、なぜそんなに自信がなさそうに言うの?家族のためなんだ!って息巻いて、サッサと私を襲って殺すこともできたのに。」


確かにそうだ。

いつもなら、相手が誰であろうと容赦はしない。

食べ物になり得るなら、カエルの肉だって欲しいのだ。

でも、今日は違う。

虎は自分に自信がなくなっていた。

何者かもわからない相手に飛びかかって行く気力がない。

心とは、怖いほどに行動に影響力を与えるのだ。


そして、その自分への自信のなさを、初めて会う姿もわからない相手に見抜かれてしまったことで、虎のプライドはズタズタだった。


「君の言う通りだ…」

力なく虎は言った。

そして踵を返し、元来た道を戻ろうとした。


「大丈夫?」

その言葉に、虎の心が跳ねた。

自分を心配してくれる言葉なんて、もう何年も耳にしていない。

聞いて欲しい。今の心の不安を。虚無感を。満たされない心の穴をどう埋めればいいのかを。

でも、姿の見えない相手に弱みを見せてもいいものか?

虎は立ち止まったまま、動けなかった。


川のサラサラと流れる音をどれぐらい聞いていただろうか。


「何かあったなら、話したらどう?楽になるかもしれないでしょう?」


虎は、声のする方へ向き直った。

これは踏み出してはいけない一歩だとわかっていた。

それでも踏み出さずにはいられなかった。

この草むらの向こうにいるのは何者なのか。

それが誰でもいい。


風が吹き抜けるこの心の隙間を埋めてくれるなら。








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