いつだって君が


 なんだろう。

 

 刹那、半ば意識を失いかけていた私が我に返った。

 何故ならもはやただの餓鬼となった今の私の鼻が魅力的な匂いを察知したからだ。

 その匂いは不思議だった。温かいコーンスープのものにも思えるし、はたまた甘ーいチョコのものかもしれない。パパの好物のジャッカロープの丸焼きのものかもしれないし、或いはママが作ったレッドキャップスープのものかも。どれにしろ、私はソレに手を伸ばさずにはいられない。この地獄から、掬い上げてくれる何かであることには間違いないと確信しているのだから。

 手触りからしてソレはツルツルした多肉植物のイメージであった。そっと視線をそちらに向ける。そこには──暗闇でも分かるほど真っ赤で艶やかな実。その実には青紫色の花弁が寄り添っており、私の方を向いていた。私は無意識に唾を飲み込む。


 ──なんておいしそうなの……。


 うっとりとその実を撫でる。実は私を誘惑しているかのように、私の指先で踊った。

 早く、食べないと。もう長い間食べていないのだから、死んじゃう。そうだ、ノブナガ君達にも分けてあげよう。今ならどういうわけかケルベロスも追いかけてこないようだし……。


 私はその実を地面から引き抜いた。しかし瞬間、炎で手を焼かれたかのような痛みが走る。思わず手を引っ込める。見れば、実の液に触れた皮膚に水ぶくれのようなものができていた。


「……毒……?」


 ポツリ、と呟く。その数秒後、ようやく冥界の入り口での聖剣からのヒントを思い出した。十中八九、この真っ赤な果実がトリカブトであることに気づいたのだ。


「死の果実、トリカブト……」


 食べてはいけない。その瞬間、私は死ぬ。でも、それでも。


 ──この地獄から救ってくれるのなら、食べたい。

 ──この恐怖から逃げれるのなら、食べたい。


 そんな思考ばかり、私の頭の中を暴れ出す。頭を掻きむしった。


 食べたい。


 ──駄目だよ!


 たべたい。


 ──死んじゃうんだよ!?


 タベタイ。


 ──触れてはだめ!


 私の手がトリカブトに寄ったり離れたりを繰り返す。己との戦いだった。

 涎が垂れる。私は今、目の前のこれを食べるためだけに生まれてきたような気がしてきた。思いきり齧り付きたい。これさえ食べれれば、もう何もいらないから。


 もう、とにかく今は、これを──。


 














「──だめだ……」
















 一瞬、だった。


 誰のものかも分からないほどに掠れてしまった小さな声。

 でも、すぐに誰か分かった。

 振り向いても、やはりノブナガ君は微動だにしていない。する様子もない。

 気がつけば、私の頬に涙が伝っていた。涙は静かに落ちて、地面に広がる。


 ──『間に合ったみたいだね!』

 ──『大丈夫だよ』

 ──『ここから逃げる?』


 脳裏に、優しくて温かい言葉が響く。

 そうだ。いつもなんだ。ノブナガ君はいつだって──私を、救ってくれる。

 私の道を、示してくれるんだ。


 私はトリカブトを見る。やはり何度見ても、残酷なほどに魅力的なのは変わらない。涎が、垂れる。これが欲しいと、本能が叫ぶ。涎と涙が顎で交わって、滴り落ちていった。


「う、うぅ、うぁああ……っ、たべたい、たべたぃぃいいいいいいいいいいいいいいっっ!!」




 ──でも。




「だめ! めをさませぇっ!! エマ・バレンティア──っ!!」


 ──貴女が背負っている人達を救いたいのならば、そんな安っぽい果実なんて見なかったことにしてしまいなさい!!

 ──こんな果実を見る暇があるのなら──一歩でも多く、進むことを考えなさい!!!


 私は──トリカブトへ伸びようとする己の右手に思い切り牙を立てた。痛みで我に返る。

 続いて、己の両頬を思いきり叩く。そうして、己の足も鼓舞するように叩いて、立ち上がった。ノブナガ君とリュカの首根っこをまたひっつかんで、足の裏の痛みなんか無視して、進む。

 足が不自然に痙攣している。視界が異常なくらい歪んでいる。少しでも気を抜いたらきっと意識を失ってしまうだろう。


 でも、それでも、私は進むしかない。

 

 ──大切な人を守るために。

 ──今でも希望を忘れずに戦っている人を救うために。

 ──あの胡散臭い悪魔を思いっきり殴るために。

 

 そうだ、そうだ。


「希望とは、〝未来に望みをかけ、前に進む志〟……!!」


 私は進む。どこまでも進む。見える先は相変わらず真っ暗であるけれど。

 それがどうしたのだ。そんなこと、足を止める理由にはならない。

 私は己自身を激励するために必死に声を上げた。


「待ってろよ、ルシファー! こんな薄暗い所とっとと抜け出して、その胡散臭い顔に私の手形を絶対つけてやるんだから──!」




 そして、私は、その暗闇の果てで──。

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