【三章前日譚】エマと黒い男②
エマの帰る場所はテネブリスの隣国──エマの父親が治めるシュトラール王国の城である。
リュカは城のバルコニーにエマを下ろすと、城下町にある己の家に帰って行った。
帰宅したエマは虫が暴れている腹を撫でる。
するとそこで、ノックが聞こえた。
「──エマ様、そろそろお帰りになるかと思っていました。お食事の時間でございます」
エマのお世話係を務めるフォルトゥナの言葉にエマは顔を輝かせた。
そしてフォルトゥナを通り過ぎ、元気よく食堂へ向かう。
食堂の扉を開け、琥珀石で出来たテーブルに並べてある食事に頬がふんわりと落ちそうになる。
「エマ、今日もテネブリスに行ったの?」
どこか魔王に似た優しい手が、エマの頭に降ってきた。
振り向くと、エマの母親であり、このシュトラール王国の妃である──エレナ・バレンティアがいた。
エマは甘えるようにエレナの腰に擦り寄る。
「うん。禁断の森でリュカと遊んだの。おじいちゃんはドリアードさんとニクシーさんとのーんびりとティータイムだったから」
「エマの相手は大変でしょうに。リュカには今度お礼をしないとね」
「違うよママ。私がリュカと遊んであげてるの。リュカは私以外にお友達がいないんだもの」
エマの話を聞きながら、エレナは席についた。
エレナのお世話係であるセーネとエマのお世話係であるフォルトゥナ、数人の使用人達が見守る中での食事だ。
「あれ? パパは?」
「父上様でしょ、エマ。一応貴女は一国の王女なんだからもう少し言葉遣いを……」
「いいじゃない。ママの子だもん。ちゃんとする時はするよ」
悪戯っぽく笑うエマと口元をピクリとひくつかせるエレナ。
十数年前のおてんば娘時代のエレナを思い出した従者達が密かに笑いを堪える。
「……パパはおじい様と遠征。エストレラ王国にも寄らないと行けないから一週間は帰ってこないって。そうよね? フォルトゥナ? ……ちょっと、何笑ってるの」
「ふふ、はい、その通りでございますエレナ様。いえいえ、少女時代のエレナ様を思い出し微笑ましく思っているのでございますよ。お気になさらず食事をお楽しみください」
エレナは恥ずかしそうに頬を染めると、すぐさま食事を始めた。
本日の主食である麺食の味付けはアスピの汁と
塩辛さとアスピの酸味が上手く重なり、じんわりと舌にうまみの足跡を残していく。
少し脂っぽいのにいつまでも食べられる味。
エマは頬を抑えた。
その表情にはまさに幸福という二文字が浮かんでいる。
ここまで喜んでもらえたならば料理長も作った甲斐があっただろう。
そんな娘の様子にエレナも思わずにっこりだ。
ルシファーがミカエルの血を取り込み身を隠してから、十数年が経った。
愛しいエマは今年で十歳になるが、特にルシファーの動きは報告されていない。
ただ、エレナは愛しい家族と平和な日々を過ごす幸せに浸っている。
だからこそ怖かった。
この幸せがいつ壊れてしまうのか。
明日かもしれない。今夜かもしれない。
もしかしたら今こうしている間にもルシファーの魔の手が忍び寄っているのかもしれない。
そう考えると、笑みが消えてしまう。
幸せに包まれるほど、決意が固くなる。
琥珀色のテーブルの下でエレナが拳を握りしめた。
──その時、だった。
食堂のガラス窓が勢いよく割れた。
フォルトゥナが俊敏に動いたが、そんな彼でさえソレは吹き飛ばし、一直線にエマに向かっていった。
「──えっ」
瞬間、エマの身体がふわりと浮かぶ。
ソレ、とは黒い男だった。
黒い男は身体と空間との境界線が黒く滲んでおり、今にも空気に溶けていきそうな不気味なものだった。
そんな男に抱きかかえられていたエマは未だにポカンとしている。
エレナが真っ青な顔で立ち上がった。
「私の、娘に、何をしているのっっ!!!! 返しなさい!!」
エレナがこんなに怖い顔と声をしたところを見たことがないエマはびっくりする。
男はそんなエレナを見て、酷く動揺したようにエマとエレナを交互に見た。
しかしそれは数秒のこと。すぐさま男は空を素早く飛び、窓枠に着地する。
そしてエレナを見降ろし──。
「このコは、
背筋の凍るような低い声でそう言うと、窓から城を去った。
すぐさまエレナがシャドーと共に男を追ったが、黒い男はエマと共に夜の闇の中へと姿を消したのだった……。
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