暴走した魔王の身体は沼のようなもの、というより本物の沼だった。

 飛び込んでみたものの、身体がずっぷりとその中へ引きずり込まれた。

 前も後ろも上も下も分からない。

 ただ必死に手足を動かしてなんとか進んだ。

 しばらくすると魔王に吸収された兵士や馬が無数に浮かぶ深海のような空間に出た。

 浮いている兵士達は気を失っているだけで生きてはいるようだ。

 エレナはひとまずそれに安堵すると先の見えない空間を進んでいった。

 

「パパー? どこにいるの?」


 声が何重にも反芻して、空間中に響いてくる。

 歩けば歩くほど暗さが増し、宙に浮いていた人間達も見えなくなる。

 すぐ傍でなにか恐ろしいものが通り過ぎていったような、見えない不安がエレナを襲った。

 しかし震える足を止めてはいけない。

 足を止めると、今にも闇に喰われてしまうような気がしたからだ。


「パパ、」


 エレナは己の父を呼ぶ。

 何度も何度も。

 それを繰り返していく内に、声が聞こえてくるようになった。


 ────、────れ……。


「? パパ?」


 ──れ、──ろせ……。


「!」


 声が次第に大きくなっていく。


 ──怒れ、殺せ。


 息を呑んだ。


 ──怒れもっと怒れ殺せ殺してしまえ!!!!

 ──何の意味もなく怒ってしまえばいいじゃないか。何の意味もなく喰ってしまえばいい。

 ──憤怒こそ我が糧、我が快楽!!

 ──他のどの感情よりも鋭く、他のどの感情よりも盲目的!

 ──さぁさぁ狂っちまえよ、獣みたいに涎を垂らして。

 ──自分の中にある悪魔をだらしなく吐き出しちまえよおい!!


 声が、一気に襲い掛かってきた。

 エレナは頭を抱える。

 何百、何千もの声が同時に鼓膜を叩いてくる。

 ある声は歌いながら、ある声は怒声、ある声は笑って。

 おかしくなりそうだった。

 進めば進むほど、声は大きくなっていく。


「……逃げたい、」


 無意識の呟きだった。

 エレナは我に返り、自分の両頬を思い切り叩く。


「忘れちゃ駄目、忘れちゃ駄目。私はエレナ。私は今パパを探しにここへ来たんだから! ……よし、OK」


 そう呟いていくと幾分か落ち着いた。

 しかし憤怒の声らはそんなエレナを誘うようにさらに激しく存在を主張する。

 エレナは耳を押さえ、負けじと父親を呼んだ。

 おそらく魔王が怒りを忘れて暴走しているのならば、この声のする方にいるはず。

 そう考えたエレナは自ら声らに挑んでいく。


──パパは、この声にずっと耐え続けていたのかな。

──ずっと、ずっと。

──クリスマスの時も、私の作ったご飯を食べている時も、お風呂に入った時だって。

──それは、どれほどの苦痛だったのだろう。


 次第に空気が震えてきた。

 声らはそれぞれが大きすぎて、もはや言葉として成立してはいなかった。

 そしてどこからか鼓動も聞こえてくるようになった。

 周囲全体が鼓動に反応して不気味に赤く輝く。

 エレナは唾を呑んだ。

 足を止める。


「……パパ、」


 そう呟いた彼女の視線の先には──。


「……ころ、された……わが、ひかり、は、もう、いない」


 途切れ途切れに絶望を歌い、呻く魔王。

 彼の身体の半分は壁に埋まり、彼自身がこの巨体の心臓と化しているようだった。

 その証拠に鼓動は彼の身体から聞こえてくる。

 魔王はだらんと俯いて無力だった。


「……パパ?」


 ピタリ、と今まで聞こえていたはずの憤怒の声らが止む。

 魔王の身体も一瞬揺れた。

 しかし顔は俯いたままだ。

 彼はため息を吐いた。


「……ついに幻聴が聞こえてきたか」


 どこか諦めたような声にエレナはほんの少しだけ微笑んでしまった。


「幻聴でもなんでもいい。えっと、魔王さん? とりあえずそこから出てきてお話しない?」

「何者だ。ルシファーの罠か? その手には乗らない」

「じゃあそのままでもいいよ。魔王さん、このままだとたくさんの人を吸収してこの身体はもっともっと大きくなっちゃう。早く止めないと」

「無理だ。もうこの身体は制御が効かん。それに私はもう周りが見えないのだ。私の光はもう消えたのだから。……私は光に慣れ過ぎた。光がないと、もう、私は先に進めない……」


 弱弱しい声だ。

 エレナは片眉を吊り上げ、呆れた様に肩を竦める。


「ふーん? あ、そう」

「!」

「このままだと、その光が愛したテネブリスでさえ滅びるんだけど? いいの? 家族同然だった城の従者達も、皆みーんな、貴方が食べちゃうことになるよ」

「!!」

「それにちょっとがっかりしちゃった。それでも私のパパなの? 私のパパは怒りに身を任せるような人じゃないんだけどなぁ。いつだって優しくて、誰かを傷つけることを嫌う強い人なんだけど。あーあ、私の勘違いかぁー……」

「違う、エレナ! 待ってくれ、私は!!!! ……!」


 その時、その場の鼓動が止まった。

 魔王がやっとエレナの方を向いたのだ。


「……エレナ?」

「今回の収穫はパパが子離れ出来ていない駄目な人って分かった事だね。私が嫁入りしたらどうするの?」

「…………っ!!」


 魔王はすぐに壁に埋まっていた腕を強引に引き抜き、エレナに手を伸ばした。

 エレナはその手を自分の頬に当てると微笑する。


「ほら、パパ。温かいでしょ。ちゃんと生きてるよ、私」

「! ……な、何故……」

「ルシファーは私を殺すフリをしたの。実際に殺されたのはルシファーの魔力で出来た分身だよ。パパを怒らせる為にそうしたんだって」

「そうか。……そうか……」


 魔王はまた大きなため息を吐くと、エレナに自分から離れるように言った。

 そして引き抜いた片手を壁に当て──何かが焼けた音と共に、壁が叫び声を上げる。

 どうやらこの辺り一帯の壁は触手で構成されていたようだ。

 溶けた触手達がボトボトと無残に散っていく。

 熱で弱った壁から抜け出すのは容易い。

 あっさりと魔王は身体を引き抜き、エレナを抱えた。


「パパ?」

「とりあえず、お前が汚れないところに行こう」

「え? それってどういう……」


 視界が一気に明るくなり、エレナは反射的に目を細めた。

 そしてそれと同時に黒い嵐──暴走した魔王の身体が風船のように破裂し、溶けたのか泥になり果てた触手達が辺りに散った。

 エレナは魔王のマントの中に包まれたので汚れはしなかった。

 

「えぇ、は、破裂した……」

「エレナ、怪我はないか?」

「う、うん。私は大丈夫だけど……」


 周囲を見れば、粘り気のあるどす黒い液体が散り、なんとも不気味だ。

 暴走した黒い嵐が喰らった人間達が点々と倒れていることに気づく。


「光よ」

「! シャドーさん。ごめん、すっかり置いて行っちゃったね」

「……、」


 シャドーは黙ってエレナの影に沈んでいった。

 どうやら拗ねてしまったらしい。

 機嫌が悪いと無言になるのは魔王そっくりだとエレナは苦笑する。


 そして。


「ノーム様、ご無事ですか!」


 そんな声の方を見ると、泥だらけになって尻餅をついたノームにイゾウが手を貸していた。

 エレナはすぐにそんなノームの元へ駆ける。


「ノーム!」

「! エレナ! 魔王殿を救ったんだな」

「うん! ノームは──大丈夫じゃなさそうだね」


 すっかり泥にまみれたノームは慌ててそっぽを向いた。

 

「こ、こっちを見るな! 今の余は格好が悪い!」

「大丈夫。ノームは泥まみれでも男前だよ!」

「うっ……え、エレナ……!」


 ノームの褐色の頬に赤みが浮かぶ。

 するとそこで違う方角からエレナの名を呼ぶ声がした。


「エレナー!!」

「ん? ……あ、サラさん!」


 サラを抱えたアスモデウスと、アムドゥキアスの登場だ。

 アムドゥキアスはところどころで倒れている人間達に唖然としている。


「ま、魔王様……先ほどの黒い巨大なお姿は……まさか……!」

「あぁ。皆には迷惑をかけた。もう大丈夫だ」


 アムドゥキアスが胸を撫で下ろす。

 するとここで、辺りに誰かの笑い声が響いた。

 

「この声って!」

「ねぇ、あれ──」


 一同はサラが指を指す方を見る。

 

 そこでは──狂ったように笑うルシファーの背中から伸びた巨大な蛇がルーメンを、丸のみしていた──。



***


何人の人が更新を追ってくれているのかは分かりませんが、いつも読んでくださってありがとうございます。

励みになります。

本当に。

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