第8話 みじか夜

 数年ぶりに顔を見ても、いまいちピンと来るものはなかった。なんせ出会ったのは小学5年の時の、ほんの数日だ。

 衝撃的な邂逅だと、特別な一夏だと思っていたのは、幼心のまやかしだっただろうか。日菜多自身が思うより、ずっと美化しているものなのかもしれない。


 黒い額に囲まれた彼ーーミノルおじさんは、癖の強い頑固な髪はすっかり薄くなっていて、白い光を受けてぎらぎらとしていた瞳は窪み、かわりに優しく輝いていた。細い顎だけが唯一変わらず、面影を感じられる。


 前の人の作法に習って、玉串と呼ばれる枝を捧げる。葬儀に参列するのは初めてで、何の作法も知らない日菜多は、耳に入り抜けていく祝詞が終わるのをただ静かに待っていた。


 そういえば、と遺影を眺めながら思い起こす。


 あの夏、短い7日間。

 神さまのようだったあの人ーーミノルおじさんと、何をして遊んだんだっけ。

 それから親戚である神社の男の子。あの子も一緒にミノルおじさんといたはずだと、日菜多は参列者に視線を滑らせた。




 あの夏祭りの日、ミノルおじさんは、迷子になった日菜多を抱えて家へと戻った。なかなか帰ってこない日菜多に神社の家の人も心配していたようで、青い顔をしておばさんは日菜多を抱き寄せたらしい。その時、日菜多は泣き疲れて寝入っていたので、記憶にない。


 そして次の日、夏休み最終日の朝に、あっさりと迎えにきた母の車に乗り込んで街の家へと帰り、今までと変わらぬ日常に戻った。


 ただ、あの夏以降、日菜多はちょっとだけ不良になった。不良と言っても小学生の可愛いものだ。


 結局、空白を埋めきれなかった課題の一行日記はそのまま提出せず、先生から呼び出されても知らんぷりを決めた。

 母親が何かに思い悩んで険しい顔をしていても、心配するのをやめてしまった。ただその代わり、神社にいた頃のようにたまに家事を手伝うと、母親は相好を崩して「一度、他所に預けてよかった」と言った。日菜多はその言葉に呆れたけれど、まあいいかと捨て置いた。

 学校ではクラス替えがあるまでの間、相変わらず孤立していたけれど、以前より一人が苦痛でなくなった。クラスメイトのこそこそ話を冷たい視線で受け流し、思う存分に気ままに過ごした。その時に手慰みに始めた手芸がすっかり趣味になり、いつの間にか同じ趣味の友人ができていた。高校生になった今では、勉強よりも物作りを優先してしまう生活だ。




 葬儀場のロビーのソファで、何をするでもなくあの日のことを思い返していると、見慣れない学生服の青年を見つけた。葬儀中には全然見つけられなくて諦めていたのに。


「裕翔くん?」


呼びかけると、彼は首を傾げて胡乱げな顔をした。素直な表情に、思わず日菜多は笑ってしまう。


「私、親戚の日菜多だよ」

「……ごめん、俺、覚えてなくて」

日菜多は当然だと笑った。親戚といっても、縁は遠く、会ったのはあの夏きりだ。小学生の頃に一度、神社の家に一週間だけ泊まったと話せば、

「ああ、そういえばそんなことも」

と、頷く。


「ご家族は? 挨拶したかな?」

裕翔の問いに日菜多は首を横に振る。

「今日は私一人で来たの。だから挨拶は大丈夫」


不思議そうな顔をする裕翔に、日菜多は「ミノルおじさんに、あの時、遊んでもらったから。連絡きいて無理言って一人で来たの」と告げる。それだけで裕翔はなんとなく察してくれたようだ。浅く頷いて、日菜多の向かいのソファに腰掛けた。


 記憶に残る裕翔は腕白で生意気な少年だったが、随分と殊勝に成長したようだ。落ち着いた所作で腰を落ち着けている。伸びきった長い足が日菜多の近くまで届いていた。ただ、丸い瞳が幼い頃の面影を色濃く残している。


 参列者は少しづつ散っていて、喪服の黒は出口に吸い込まれていっている。簡単な通夜は一時間ほどで、呆気ない。緊張していた日菜多は拍子抜けだった。別れを惜しんで残る人もいないようで、ロビーから見渡せる人たちの足取りは随分と軽い。


「ミノルおじさんって嫌われてたの?」

裕翔だけに聞こえるよう声をひそめる。

「私が参列したいって行った時、お母さん、変な顔してた」

決していい顔をしなかった母に気づかないふりし、小言も右から左に流して、勝手にここまで来たのだ。あの夏の後、母にミノルおじさんのことを聞いたことがあったが、面倒そうな顔で「知らないわ」と取り合ってもくれなかった。


 裕翔は「まあ……」と口をモゴモゴと動かしている。流石にさっきの今で、故人の悪評を認めるのは心苦しいのだろう。

「俺は、嫌いじゃなかったよ」

ややあって、裕翔は寂しそうにそう笑った。


「私だって、嫌いじゃなかったよ。私ね、おじさんのこと、神さまみたいって思ってるの」


 子供の頃の日菜多には、彼は聡明で頼もしく、誰よりも優しい人に映った。


 言ってしまってから、さすがに不審だろうかと、日菜多は眉を下げた。

「あ、いや、変な意味じゃなくてね、なんか、浮世離れした雰囲気の人だったなって」

言い繕う日菜多に、裕翔は笑った。裕翔は揃えていた足を組んで、姿勢を崩す。


「あの人は、多分、そんなところが周りに嫌われてたんだと思う」

「私は、そんなところが好きだったのに」

「随分、懐いてたんだなぁ」

「裕翔くんもそうじゃないの?」

「そうだな、うん、そうだ」


かみさまか、と裕翔は呟いた。


「神道の考えでは、人は死後、神様になるんだ。家を守ってくれる神様」

裕翔の話に、日菜多は驚いてまじまじと彼の顔を見つめてしまった。だが、ややあって先ほどの葬儀を思い出す。ろくに聞いてなかったが、そういえばそんな話がされていた。


「ミノルおじさん……守ってくれそうかな?」

裕翔は思わずと言うように吹き出した。

「どうだろ? 親族、特にうちの父親、めちゃくちゃ仲悪かったらしいからなぁ」

だから、と裕翔は声をひそめた。子ども同士の内緒話のように、その声色は弾んでいる。


「俺たちの神様って思っとこうか。家より、俺と日菜多の方が守ってくれそう」


ここだけの話な、という一言を最後に、裕翔は立ち上がり親戚の輪へと向かって離れていった。


 日菜多も自動ドアの出口へと向かう。近くにとっている宿にそろそろ戻らなければ、人気もなくなってしまう。

 扉が開くと同時に顔面に、生ぬるい夜風を受け、目を細めた。


(かみさま、)


声には出さず、唇だけ動かす。


 決して信仰深い性質でも無い。裕翔のような家の生まれでも無い。

 けれど日菜多は、あの夏からずっと胸の内で、かみさまを信じている。ぼんやりした、たまに気難しくなる、おかしなかみさま。


 あの時のように泣きつくことは一生ないだろうけれど、毎晩、一日最後に胸の内で報告をしている。

 その日がどんな日だったのか。楽しくなくても何もなくても、特別じゃなくても。たまに些細な発見や幸せを。あの未完成の一行日記のように、簡単に。それだけで、日菜多の日常から空白はなくなる。


(かみさま、今日はかみさまのお葬式でした。裕翔くんに久しぶりにあったよ。かみさま)


(もし明日、特別な理由が、出来事がなくても、特別が人がなくても、ーーこれからずっと、大丈夫)


もう二度と、変な子どもに手を引かれて迷子になることもなかろうと、日菜多は夏の夜道に足を踏み出した。明日は朝一番に電車に乗って、また日常に戻っていく。





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夏のかみさま 伊川 @197333

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