第7話 熱帯夜

 無我夢中で足を動かしていると、ふと辺りが暗くなったことに気づく。膝を曲げ、喘ぐように荒い息を整える。暴れる心音が落ちついてからようやく視線をあげると、日菜多は目を見開いた。

 延々と連なるようだったアーケードの提灯はいつの間にか途切れ、人の気配は消えている。

 代わりにざわざわと煩いほど、周囲の木々が鳴っていた。光源は雲間にぽつぽつ覗く星のみで、数メートル先も見えない。こんな暗い中を走っていたなんて、と日菜多はぞっとした。木々の音が落ち着けたはずの心臓をはやらせる。


「どこ……ここ……」


 周囲を見渡すが暗いうえに、知らぬ土地。それも前も見ずでたらめに走って来た後である。神社に戻る道などわかるはずもない。ざり、と足元の砂がなる。街からはどれほど離れてしまったのだろう。


ぱん、


近くで柏手がなった。人がいるのだろうを首を音の方に向ける。逸る気持ちで何度も瞬きをしてそちらを伺うが、深い闇。


ぱん、


今度は反対側から音がなる。慌ててそちらを向くが、やはり何もない。ろくに確認できないまま、また違う方向からぱん、ぱん、と手がなった。どんどんとその音は速くなり、日菜多の心音も逸らせる。

 四方八方から柏手が鳴る。ぐるりと囲まれている。誰かが、何かが? 近くで手を何度も叩く。けれど視界は暗く、人の気配は感じられない。

 ひっと日菜多の喉が恐怖で鳴る。その間もぱん、ぱん、と渇いた音は続いた。震える足から力が抜け、ついに膝が曲がり、その場にしゃがみ込む。丸い小さな両膝に額を押し当てて、耳を塞いだ。膝に自分の息があたり、篭る。首筋や額に滑る汗が生暖かい。ぐらぐらと頭が鳴るほどの暑さだ。


「お、おかあさん、助けて」


ようやく絞りでた自身の声に日菜多は絶望する。母親がこの地にいるはずがない。母親がこの村に日菜多を預けたのだ。


「自然に囲まれて、休んでおいで」母はそう言っていたが、休みが必要なのは母親だと、日菜多は知っている。日菜多が側にいれば母の顔が険しくなる。ため息だって増える。その証拠に、離れてから今まで母親が連絡をくれることはなかったし、夏休みもじきに終わるというのに、迎えに来るかも分からないのだ。


「離れたい? いきたい?」


 目の前でそんな問いかけをされ、日菜多の肩が大仰に震えた。知らない声だ。知らない子どもの声。日菜多は恐る恐る、抱えた膝から顔をあげる。

 「いきたい? 逃げたい? かえりたい?」


 返答を待たずに問いかけ続けるのは、日菜多と同じくらいの身長の子どもだった。男の子か女の子か分からない。短く切り揃えられた前髪。ぽっちりとはめ込まれたような丸い瞳も中性的だ。知らない顔だ。そう思った日菜多だったが、対面の子をよくよく観察して眉をひそめた。

 子はお面をしていた。一見してお面をしていると気付けないほど精巧で柔らかそうなお面。夜店で売っているようなキャラクターのお面や、古臭いひょっとこ面とも違う、まるで生きている他人の皮をそのまま被ったような不思議なお面だ。


 子どもは暗闇の中、手を伸ばせば届くくらい近くに立って、座り込んでいる日菜多を見下ろしている。


「離れたい? いきたい? 消えたい? いきたい?」

「そのお面、いいね」

日菜多は問いには答えず、そう呟いた。子の表情は変わらないが、不意をつかれたような気色を感じる。


 日菜多は立ち上がって、汗で膝裏に張り付いたワンピースの裾を払った。突如現れた同年代の子どもに、どうしてだか暗闇の恐怖が霧散した。

 子は薄く笑ってみせる日菜多に右手を差し出した。「おいで」くんっと手を引かれる。柔らかく、日菜多より小さな手だ。手の暖かさに、日菜多はクスクスと笑った。そのまま小走りに進む子どもについていく。相変わらず木々のざわめきも、絶えない柏手も耳につく。けれど、一度慣れてしまえばその音も心地良かった。


 ざりざりと擦るような子どもの足音は日菜多とその子だけでなかった。手を叩いている子どもだろうか? 周囲に何人か気配を感じる。暗闇で顔姿までは見えないが、日菜多たちと同じくらいの背格好の子どもが他にもたくさんいて、同じ方向を進んでいる。皆、足取り軽く、スキップでも踏むようだ。


「消えたい? いきたい? いきたい?」

手を引く子どもが振り返って、また日菜多に問う。足は止めず。

「どこに?」

日菜多が聞き返すと子どもは「ここじゃないとこ」と笑った。瞬きをするだけで一向に答えない日菜多に、子は「戻りたいの?」と、今度は拗ねた声を出す。


「戻りたいの? 元のところ。お母さんって言ってたね。お母さんのところに戻りたいの?」


 日菜多はとっさに開いた口を結んだ。歩みを止めて、手を引く子を止める。左手に結んでいた水風船が反動で日菜多の足にあたり、バシャンと水音を主張した。

 子どももそんな日菜多をみて立ち止まり、彼女へ向き直った。日菜多の視界、お面の子の奥に大きな鳥居がそびえていた。神さまの通り道。ゆきなつ神社のものかと一瞬考えたが、日菜多の知る鳥居は石造りだ。対して眼前の大きな鳥居は、この闇の中でも朱い。


「戻りたいの?」


念を押すように、再び問われる。日菜多はゆっくり首を横に振った。


「じゃあ、いきたい? 向こう側」


繋がれた右手の暖かさに、日菜多は泣きそうになった。いきたいかと言われても、鳥居の向こう側に行きたいのかどうか、自分でも分からなかった。戻りたいかと聞かれても、日菜多には戻っていいのか判別できない。戻ったところで、迎えのない親戚の神社か、日菜多の手を離した母親か、居心地の悪い教室か。戻りたいとは決して言えなかった。


「一緒にいこうよ」


 柔らかな声とずっと繋がれた右手に惹かれて、日菜多は一歩踏みだす。


--バシャン、と水音が跳ねた。


「えっ?!」

日菜多が振り返ると、ゴムが切れたのか、左手の指に繋いでいた水風船が地面に転がっている。日菜多は子どもの手を振り払い、転がる水風船を慌てて追いかけた。水風船は幸運なことに割れてはいなかった。そのことに日菜多はほっと息をつき、水風船についた細かな砂利を払う。

 夜店で釣った時よりもやや小振りに萎んだ気のする水風船は、抹茶のような濃い緑色。波紋のような細い模様がついていて、大人っぽい柄だ。

 日菜多がいつもだったら選ばない、その柄。


 日菜多が立ち上がり、待ちぼうけているお面の子どもを見つめた。ぽっちりした瞳の可愛らしい、他人の顔を。子はもう分かっているのか、残念そうに唇を尖らせていた。


「戻りたいの?」

「戻りたいの」


はっきりとそう告げると、ふと、鳥居の真ん中に見知った影を見つけた。くしゃくしゃの髪。濃い緑色の浴衣。重そうな靴。


(いけないのに、やっぱり鳥居の真ん中にいる。かみさまみたい)


 日菜多はお面の子どもの脇をすり抜けて、ミノルおじさんの腰に抱きついた。

 ミノルおじさんは、駆け寄ってきた日菜多の背中を、二度、優しく叩いた。そうして大儀そうに「よいしょ」っと声を絞り出し、日菜多を抱え上げた。

「戻ってきたね」

「うん」

間違えなく聞き知ったミノルおじさんの声だ。どっと体の力が抜けて瞳からぼたぼたと涙が溢れる。顔をあげる。抱えられて随分高い目線から周囲を見渡すが、子どもたちも鳥居も見当たらない。相変わらず木々のざわめきは煩いが、それに加え、先ほどまで聞こえなかった蛙や虫の鳴き声が競うように響いている。

 ミノルおじさんの足取りは迷いなく、ゆきなつ神社の帰路へ進んでいた。


 日菜多は抱えられながら、手に持っていた水風船を彼に見せた。

「夏祭りでね、取ったの」

「うん」

「緑色、あんまり好きじゃないの」

「うん」

「初めてミノルおじさんと会った時の、浴衣の柄にそっくりだったの」

ほら、と日菜多はミノルおじさんの浴衣の袖に、水風船をくっつけて見せる。今日着ている浴衣もあの日と同じものだ。抹茶のような濃い緑色。波紋のような細い模様。まるで揃えたようなその柄に日菜多は笑った。


「だから取ったの。見せたいと、思ったの」


うん、とまた頷くミノルおじさんは、その水風船をじいっと見て「それでいい」と言った。


「小さなことでいいよ。特別な理由じゃなくても、なんだったら理由がなくてもいい」

日菜多はまた湧くように溢れてきた涙を、彼の浴衣に押し付けるようにして抱きついた。ぐすぐすと鼻がなる。



「特別な理由も、出来事も、特別な人がいなくても、ーー生きていて大丈夫」



 じっとりと汗ばむ暑い夜の中、日菜多はへばりつくように、ミノルおじさんに抱きついたままでいた。神社に着くまでの間、目が溶けるのではないかと不安になる程、涙は溢れ続けた。

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