第6話 夏祭り

ぴいぴいと甲高い笛の音が鳴っている。

洪水のように飛び込む人の気配は、日菜多には慣れたもののはずなのに、随分と久しく感じられた。靴の裏に感じるコンクリートが固い。いつのまに砂利や土に慣れてしまっていたのだろう。


ーーゆきなつ商店街夏まつり


そう書かれた垂れ幕に、赤と橙、白の提燈がアーケードの天井を飾っている。


 人混みに押されながら、神社の下の街にはこんなにも人がいたのかと、日菜多は思わず溜息をついてしまった。


 日は傾いて、空はすっかり紫がかっているのに、この人混みでは蒸し暑さが増すばかりだ。


「暑い、うるさい。……つまんないよ」


 日菜多は周囲の色とりどりの浴衣、法被、家族づれ、友達と我が物顔で道を埋める子どもたちーー全員を睨めつけた。

 うるさいのに笑い声がいやに遠く感じる。ぬるい湿気た空気も相まって、一人、ガラスの厚い水槽に隔離されてた魚ようだった。


 神社の下の商店街で夏祭りがあると教えてくれたのは、ミノルおじさんだった。


 昨日の1日で随分と日記を進め、日菜多も気が大きくなっていたから、最初に祭りの話を聞いたときは胸が高鳴った。


 都会の街での夏祭り、今年は一緒に行く相手もおらず、結局行けずじまいだったのだ。ひらひらの袖の浴衣も、綿菓子の甘さも、かき氷の食感も、本当は羨ましかったのだ。

 けれど、一緒に行くと思っていたミノルおじさんは、日菜多の誘いに頑として頷かなかった。


「人がたくさんいるところに行くなんて真っ平だよ。何よりここの土地の人たちは、僕のことをよく知っている。喧嘩にしかならないさ。さあ、日菜多は楽しんでおいで」


 裕翔は早々に学校の同級生と向かったらしい。


 夏休み最後のブーストとばかりに連日駆け回る彼とは、昨日と今日とろくに話す時間もなかった。

 祭りの手伝いだとかで今までより一層忙しなく動くおばさんや神社の大人に声をかけるわけにもいかない。それなのに、彼ら彼女らはみんな、日菜多を見ると口を揃えて祭りを勧めるのだ。


「せっかくだから行っておいで」「ずうっと神社の中で退屈だっただろう、遊んでおいで」と。

 一緒に行く相手がいないことなど、少し考えれば分かるだろうに。


 一人ぼっちだと早々に気付いた日菜多だったが、結局は祭りに足を向け、街に降りた。

 期待をしてしまったのだ。祭りが始まる夕暮れまでには、母が迎えにくるかもしれない。そうすれば一緒に並んで出店を巡ると。


「明日、お迎えくるのかな」


ぼんやりと通りに立って、たまに押されるままに人混みに流されながら、そんなことを考える。


 母は、夏休みの終わりに迎えにくると日菜多に言った。今日ではなく明日だったのだ。もし、明日ーー夏休みの最終日、迎えがなければどうなるのだろう。新学期、学校に行けなくなってしまう。


(それはそれで、いいのかもしれない)


 右手に握ったポーチに目を向ける。ポーチの中には一行日記の紙を入れている。もう随分と余白はなくなって完成間近。けれど、それも必要なかったかと、日菜多はポーチのチャックを手慰みにいじった。


 ざりざりと靴を引きずるように歩を進める。特に行く当てはなかったが、夜店が連なる大きな一本道。アーケードの先もそこまで遠くはない。端っこまで行って引き返せば良かろうと、ぼんやりと祭を眺めた。


「お嬢ちゃん、一回どうだい!」


 大きな声で立ち止まったのは、別に気を惹かれたからではない。声を上げたおじさんと偶然目が合ってしまっただけだ。

 大きなビニールプールの中には、桃、黄、水色、オレンジ、赤にスミレ色……色とりどりの可愛らしい風船が呑気に浮かんでいる。数人の子どもが、何色だ、あの色だと言いながら、水風船を釣ろうとしていた。


(懐かしい。水風船)


 傍らでは戦利品をバシャバシャと乱暴に跳ねさせて遊んでいる子もいた。


(もらったお小遣い、そのままで帰るのも、変だと思われるし)


 日菜多はおじさんに硬貨を渡し、プールの傍らにしゃがむ。水に揺れる尻尾のようなゴム部分を釣り上げようと、えいっと手を動かす。しかし、薄い紙でできた釣竿は、隣の子がたてた波を被って、あっけなくフツリと切れてしまった。


(なあんだ、不良品)


 日菜多は唇を突き出した。お目当の黄色にピンクの模様を持った風船は、知ったことかと呑気に泳ぎ続ける。

 しかし、店のおじさんはあららと笑い「どの色にするんだい? 狙ってた黄色のか?」と日菜多に声をかけた。

 失敗しても、水風船はもらえるらしい。日菜多は、可愛らしい黄色の風船をじいっと見つめたが、その脇を泳いでいた濃い緑色の水風船を指差した。


「あ、お前! それ全部飲むなよ!」


 弾けるような笑い声に重なって、知った声が耳に飛び込んできた。

 ついと視線を向けると、5人の男児が道の向かいで群れている。

 声はその群れの真ん中にいる裕翔だった。

 薄暗闇の中でも彼の声と友人たちの声は明るく、はっきりと喜色が見える。彼らの手元にはラムネの瓶に、屋台の唐揚げ、かき氷、景品だろうか蛍光色に光るオモチャまである。浴衣や法被を着ている子はいなかったが、随分な楽しみようだと遠目からでも伺えた。


「あっちーな! 人が多すぎる」


 随分とつまらなそうにした子が、ぐいぐいと自身のTシャツの首元を広げながらぼやく。それに賛同するように、一等背の高い子が、「もう誰かの家行かないか? クーラー欲しいよ」と笑った。


「そもそも商店街の夏祭りなんて、大して何もないもんな」


 1人のその言葉に、違いないと群れは大笑した。もちろん裕翔も。


 行こうぜ、と背の高い1人が呼びかけその場を離れようとした瞬間、裕翔と目が合うのではと日菜多は怯えた。

 道を挟んで距離がある。それでも日菜多は、まるで大蛇が動き出したかのように、男児の群れから目を逸らすこともできなかった。言いようのない恐怖と共に、裕翔に対して憎しみにも近い気持ちがむくむくともたげる。


(こっちに気づかないで。名前なんて呼んでみろ。殺してやる)


 けれど、裕翔たちは日菜多に気づくことも、名を呼ぶこともなく、さっさと行ってしまった。きっとこれから群れのうちの誰かの家に遊びに行くのだろう。


 大蛇を見送った心地で、日菜多は急に頰が熱くなるのを感じた。彼女はこの感情をよく知っている。学校の教室でも今みたいによく血が上る。


 これは羞恥だ。


 ぶるぶると自身の唇が震えるのを感じ、日菜多は咄嗟に駆け出した。でたらめに足を蹴るようにその場から逃げる。唇の震えを止めようと力を込めるのに必死で、周囲の景色に目を向けることもできなかった。どんなに走っても、水槽に隔離されているような生温い湿気は振りほどけない。


ーー本当に私が魚なら良かったのに。そうしたら、水の中なら全部、全部、誤魔化せる。


 指につながれた水風船が、駆ける足にぶつかってバシャバシャと騒がしい。

 湿気も甲高い笛の音も、しつこいほどの提灯の行列も、追いかけてくるような心地がして、日菜多の足は止まらなかった。

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