第3話東イスラエル建国計画
封筒の中身を見たあと、松井石根大将は大きく息をはいた。
薄味の緑茶をすずっとすすった。
その様子を私は李香蘭として眺めている。
「いかがですか、閣下」
あえて瞳を潤わせて、私は問う。
ほとんどの男は、この目で見られると断ることができなくなる。
それほど魅力的な瞳らしい。
だが、歴戦の武人である松井石根はちがうようだ。
さすがとでも言うべきか。
「荒唐無稽だな。君たちはこの計画、本当に成功するとおもっているのかね」
質問に対し、質問で返される。
「もちろん、私は成功を信じております。他の誰でもない樋口季一郎ならやりとげるでしょう。閣下のご助力を得られれば、さらに成功は確実なものとなるでしょう」
一つ息をはき、私は言葉を続ける。
「満州国の一部をナチスドイツから迫害を受けたユダヤ人に割譲し、彼らの国を建国させる。それによってユダヤ人資産家や優秀な人材を我が国の味方とすることができます。彼らを仲介役とし、この戦争を早期に終結させる。この計画が成功すれば、欧米諸国との不毛な戦争を終わらせることができます。どうか、閣下、この計画に賛同していただけませんか」
懇願の念をこめ、私はいう。それは、演技に近い。
私は李香蘭を演じているのだ。
李香蘭として、南京占領の総司令官松井石根に頼んでいる。
だが、根底にある気持ちは同じだ。
この戦いを早期に終わらせたい。
そんな私の熱のこもった演技を南部法介は、無表情で眺めていた。
「そして、これは極秘事項でありますが、かのドクター・アインシュタインもこの計画の賛同を得ています。手土産にとある新型兵器の開発に尽力していただけるとのことです」
「なんだね、その新型兵器というのは」
思いもよらぬ名前をだしたので、すこしだけ興味をひくことができたようだ。
ドクター・アインシュタインをはじめとするユダヤ人知識階級の人びとの交渉をになったのは、南部法介であった。
彼がどのような手段で交渉をとりつけたのかは、まったくの謎であったが、それはここで語ることではあるまい。
「これは聞いたはなしですが、たった一つの爆弾で都市ひとつを破壊しつくすことができるといわれています。この兵器が完成すれば、戦争の概念そのものがかわるでしょう」
「戦争の概念か……」
航空機や戦車、機関銃の登場により、基本的戦術が大きくかわろうとしている。科学技術の進歩がすぐさま軍事力の格差につながる。
さらには毒ガスなどの大量殺戮兵器も登場している。
戦場の状態は日に日にかわりつつあるのである。
それは、全線の指揮官である松井石根が肌で感じていることであった。
少しの間、室内に沈黙が支配した。
そして、
「いいだろう」
ゆっくりと松井石根は言った。
「そして、計画に賛同する交換条件としてだされたのが、高級将校の連続殺人事件の解決というわけですか」
あきれた顔で学は言い、ぬるい烏龍茶をすすった。
「まあ、そういうわけだ」
紫がかった学の瞳をみながら、私は言った。
いつみてもきれいな瞳だ。
そして、君はかの名探偵の弟子なんだろうという松井大将がしたり顔で言った言葉を思いだしていた。
あの男どこまで知っているのやら。
「それにこの事件、君にまったく関係ないわけではない。君は、親王殿下の護衛で南京くんだりまで来たのだろう。親王殿下を無事に迎えるにあたり、この事件は解決しといたほうがいいのではないかね」
「まあ、いいですよ。一度引き受けたんですからね。じゃあ、こちらも交換条件です。事件のかたがついたら、姉さんの蘇州夜曲を生で聞かせてくださいね」
「ああ、おやすいごようだ」
そういえば、彼も李香蘭の歌が好きであったのだったな。
突如、バタンという乱暴な音がした。
私と学が音の方を見ると数名の陸軍兵士が店の中に入ってきた。
癖なのだろう、私は彼らを観察していた。
人数は約五名。
背の高いのが二人、中背が二人、低いのが一人。
五名のうち四名が軍服をだらしなくきている。
一人だけ、きっちりときていたのが、この集団で浮いていた。
浮いている男にすこし、意識をむける。
中背で軍服をきっちりと着ている。丸メガネをかけた若い男。年のころは学とそうはかわらないだろう。
その男以外は乱暴に椅子に座った。背の高い男などは、両足を机の上においた。
無礼な男たちだ。
気に入らないな。
私は思った。
料理屋の娘が彼らの前にいき、注文を聞こうとする。
おさげ髪で丸顔のなかなかに可愛らしい感じの娘であった。
その娘を背の低い男は、下品な目で見ていた。
わかりやすいやつらだ。
やれやれだ。
松井大将の軍律は厳しい。
それでも末端まではなかなか行き届かないのが、現実というものだ。
兵士による犯罪はかなり少ない。
だが、ゼロでないというわけだ。
「へへへっ」
下品な笑いを浮かべ、背の低い男は娘の手をつかもうとした。
「やはり、あなた方は。いけません。見つかれば、極刑になるかもしれません」
丸メガネの男が間にはいり、その手を遮ろうした。だが、それはもう一人の中背の男によよって阻まれた。
力いっぱい吹き飛ばされた。
床をけり、立ち上がり、私は彼の体を受け止めた。
そのときには学は四人の男たちに肉薄していた。
彼の紫色の瞳の光がさらにましていく。まるでアメジストのようだ。手袋に梵字がうかぶ。
学は的確に彼らの首筋に手刀を叩きつけ、意識を奪っていく。
文字通り彼らはバタバタと倒れていった。
学はくるりと踵を返すと私が支える男に歩みよった。
「今日は久々の人によく会うな。早瀬巡査君も南京に来ていたのだね」
丸メガネの青年に彼は手をさしのべる。その手を力強く握り返すと彼は、
「お会いできて光栄です。渡辺中尉殿」
と言った。
どうやら、彼らも旧知の仲のようだ。
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