第2話南京の歌姫

南京に到着したのは、黒桜の渡辺学中尉と出合う、一日前の昭和十二年十二月二十四日であった。

そう言えば、クリスマスイブか。

ぼんやりと私は思った。

開戦前は帝都でよく奇人怪人たちが集まり、クリスマスパーティーをやったものだ。


とある建物の一室で、私はある人物を訪ねた。

その建物は帝国陸軍ハルビン特務機関が極秘裏に借りあげたものであった。

薄暗い室内にその男はいた。

光源はちいさなはだか電球のみ。

ソフト帽を目深にかぶり、その男は椅子に腰かけていた。

薄暗い室内、しかも、帽子を深くかぶっているので男の表情はよく見えない。

この男はいつもそうだ。

「ひさしいな、小林くん」

低い声で男は言った。

「お久しぶりです、南部さん」

その男の名を言った。

男の名は南部法介。

だが、それは本名ではあるまい。

陸軍中野学校を首席で卒業し、現在はハルビン特務機関の諜報員として活動している。

「君への依頼なのだが、南京攻略の総司令官松井石根大将との交渉役をまかせたい」

前置きもなにもなく、南部は本題をきりだした。

彼のことばには、無駄というものが一つもない。

会話を楽しむということはしないのであろう。

「私は松井司令官とは面識はないが……」

首を左右にふり、私は答えた。

「李香蘭としてなら、面識はあるだろう」

南部は言う。一瞬だが、口角があがったように見えた。

「なるほどね、そういうことか。わかりました。東イスラエル建国計画には私も興味があります。いいでしょう」

そう言い、私は承諾した。


ハルビン特務機関の南部が動いているということは、この依頼はあの樋口季一郎少将からと受け取って間違いない。

かのお人の力になれるのなら、微力を尽くそうではないか。

そして彼らがかかげる理想に近い無謀とも思える計画に私も賛同しているのである。

もし、あの計画が上手くいけばこの拡大するいっぽうの戦争を比較的早い段階で終わらせることが、できるかもしれない。


一時間ほどのち、私はとあるホテルの一室にいた。

大きな鏡台の前に座り、化粧をしていた。

普通の化粧ではない。

まったく別人になるためのものである。

変装といってよいだろう。

私に変装を教えた人物はかの二十面相である。

二十面相は言った。

変装の極意はなりきることであると。

人格を想像し、創造する。

私は自分のこころに言い聞かせた。


私は李香蘭。

大陸に咲いた、可憐な一輪の花。


鏡の前にあらわれたのは、豊かな黒髪の美しい、秀麗な容貌を持った女性であった。

喉を人差し指と親指ですつかみ、声帯を変化させる。

何度か発声するうちに、誰もが聞き惚れる美声へと変化した。

白を基調とした深いスリットの入ったチャイナドレスに着替え、コートを腕を通さずに羽織るだけにする。

私は部屋を出た。

そこには南部法介がたっていた。

「いつみても惚れ惚れするね」

南部は言った。

微笑をうかべ、私は答えのかわりとする。その微笑は誰もを魅了すること間違いないであろう。


眼前には、多くの兵士たちが羨望の眼差しで私を見ていた。

舞台の上からみる人々の表情は思っているよりもはっきりと視認できた。

皆、私の歌を楽しみに待ちわびていた。

生と死が隣り合わせの戦場にあって、歌は数少ない娯楽であり、生きる希望であった。

蘇州夜曲やさらば上海、陽春小唄などを情念と魂をこめて歌い上げる。

何人かの兵士たちは涙していた。

正直な気持ち、私は嬉しかった。

この時、この瞬間、私は本物の李香蘭になっていた。

「兵隊さんたち、どうかご武運をお祈りしています」

深々と頭をさげ、私は言った。

この言葉はこころの底からのものだ。

南京占領軍の兵士たちの慰問が終わり、私は松井石根総司令官の執務室へと南部法介とともに案内された。


室内は質素きわまりないものであった。必要最低限のものしか置かれていない。

南京占領軍総司令官松井石根の性格をそのままあらわしているようだ。

一応は応接用であろうソファーに座るようにうながされたので、私と南部は腰かけた。お世辞にも座り心地のよいといえるものではなかった。

目の前に座ってるのは、松井石根大将である。白髪を坊主に刈り上げた、眼光鋭い男であった。年齢は六十ちかいはずであったが、背筋の伸びたその姿はまったく年齢を感じさせなかった。また、彼が率いる軍隊はとくに軍率に厳しいことで有名であった。

贅沢を嫌う、武骨を絵にかいたような男であった。

「兵士たちへの慰問興行、実に感謝する。だが、君はどの李香蘭なのだ」

武骨な男には珍しい、皮肉な笑みを浮かべ、松井石根は私にきいた。

「李香蘭は皆さまのこころの中にそれぞれ一人だけいるのです」

ふふっと微笑みながら、私は答えた。

「なるほどな。まあ、よいだろう。皇軍の兵士たちも喜んでいたことだ。で、本題はなんだ。君らのことだ、ただ慰問にきただけではないのだろう」

「話がはやくて助かります。閣下には我々がすすめる計画にぜひ協力していただきたいのです」

そう言い、南部は角形二号の茶色い封筒をさしだした。

松井石根大将はその封筒をうけとり、尖った顎を撫でながら、中身を読んだ。

数分のち、

「君らは本気でこの計画を実行しようというのかね」

と言った。


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