鬼の啼き声 南京占領編

白鷺雨月

第1話 黒い軍服の男

乾いた風が私の頬を撫でていく。

大陸独特のものだ。

どこともなく血と泥と火薬のにおいがする。

戦場のにおいだ。

昭和12年12月25日。

私は帝国陸軍占領下の南京にいた。

街は一応の平穏をとりもどしつつある。

国民党軍はほぼ撤退したものの、ごくごく小規模な戦闘はまだ続いていた。

こんなところまで、戦線を拡大しなくても。

それが私の個人的見解であった。

今の私の身分は大阪日報新聞の従軍記者であった。

私の名は小林稜子。

いくつかある名のひとつであり、新聞記者という身分もいくつかあるものの一つである。

とある人物を探し、私は広い南京の街を歩いていた。

南方の都市とはいえ、12月ともなるとさすがに冷え込む。

白い息を吐きながら、私はコートのポケットから小さな水晶玉を取り出した。

竜眼と呼ばれるものだ。

探し物をある者を導いてくれる魔術道具だ。

竜王の巫女、西の魔女、工房の賢者といった異名をもつ平井夢子特製の品であった。

手のひらに竜眼を乗せる。それはコロコロと手のひらを転がる。転がっている方向に探している人物がいるのである。

私はその方向に歩きだす。

いくつもの門を曲がり、30分ほど歩いた。

とある飲食店の前で竜眼はぐるぐると手のひらを回り出した。

どうやら、探している人物がいるのはこの店のようだ。


簡単な作りの店だった。

屋台よりはましであろう、店の佇まいはそう思わせた。

ぎいぎいときしむ観音扉を開け、私は店内に入った。

店内はそう広くない。

いくつかのテーブルと椅子がおかれ、きれかけた照明がちかちかと音をたてていた。

奥のほうのテーブルに目当ての人物がいた。

黒い軍服を着た男であった。

その色は闇を切り取り、染め上げたのではないかと思わせるほどに黒い。

豊かな黒髪をぼんのくぼあたりで一つに束ねている。

その顔は少女のように繊細で美しい。

丸いレンズのサングラスをかけており、その奥の瞳は紫がかった黒色であった。

古来より魔力の持つも者の瞳は紫色に輝くといわれている。

その瞳は鬼眼、魔眼とも呼ばれる。

彼は父親とは違い、鬼眼の影響が表に出やすい体質であった。他者から奇異の目でみられるのを嫌がり、彼はサングラスを愛用していた。

コートと愛用のつば広帽を脱ぎ、私は彼の目の前に腰かけた。

彼は肉そばをうまそうにすすりながら、サングラスのレンズ越しに私の顔を見た。

ごくりと麺をのむこみ。

「いやぁ、小林姉さん。久しぶりですね。パリ以来ですか」

黒い軍服の男は言った。

「そうだな。パリ以来だ、渡辺学中尉」

特務機関黒桜という組織が陸軍内部に存在する。帝国陸軍の設立とほぼ同時期につくられた組織で、おもに皇族や高級貴族らを霊的障害から守護することをその任としている。組織の特色から警察組織ではてにおえないようなオカルト犯罪も扱うこともある。

黒桜に所属するものは皆、闇のように黒い軍服を着用していた。

別名「クロ」とも呼ばれている。

私の目の前にいる彼もその黒桜の一員である。

「あのときは痛快だったな。憎たらしいナチス親衛隊相手に大暴れしてやったからな」

私は言った。

学はあきれた顔で、

「女だてらにサーベル振り回して、チャンバラするのは勘弁してくださいよ。いくら滝沢先生仕込みの腕とはいえ、あのときは死ぬかと思いました。実際あのイギリス人があいだにはいってくれなかったらどうなっていたことやら」

といった。

「ああ、あのイギリス人な。あれは良い男だったな。たしかイアン・フレミングとかいったな」

脳内に記憶がよみがえる。スマートで長身、ハンサムなイギリス人。その時はナチスに潜入しているスパイだった。ジェームズと名乗っていた。

私のよく知る帝都の探偵のように気障な男だった。たが、不思議と好感がもてた。

「で、なんの用です。占領下の南京に。まさか観光ってことはないでしょう。また、そんなものをぶらさげて」

ちらりと私の腰のサーベルを見て、学は言った。

柄に血のように赤いサファイアが埋め込まれたナポレオン時代の逸品である。

日本を離れるさいに剣の師匠がもたせてくれたものだ。

「ある事件を解決するのに、君の協力が必要なのだよ」

紫がかった彼の瞳をみつめながら、私は言った。

「ほら、きた」

あきれた顔を学はする。

「姉さんはいつもやっかいごとをもってくる」

「まあ、そう言うな。君も親王殿下がこられるまで暇なんだろう」

「そりゃ、まあ、そうだけど……」

年明けに皇族の一人が南京の総督として赴任される。特務機関黒桜の渡辺学中尉は警護役として先任していた。

「それにこの案件は君にも少なからず、関わりのあることだ。南京攻略の総司令官松井岩根大将じきじきの依頼なんだ。こんなところで食事をしているんだ、それなりに時間はあるのだろう」

「まあ、時間はあるには、ありますけど」

ため息まじりに学はきく。

「で、それはどんな事件なんですか」

「帝国陸軍の高級将校が4名殺された。また、その死体が奇妙この上ない。干からびた木乃伊のように全身の血をぬかれ、殺されていた。ちなみに生存は全員が前日までは確認されている。しかも、その事件現場となったのは彼らが自室としていたホテルですべてが密室だったのだ」

「なるほどね。そいつは厄介そうだ。帝都の明智探偵にでもたのんでみたらどうです」

左右に顔をふり、

「あの人は今の陸軍をよく思っていない。協力は頼めないだろう」

と答えた。

「わかりました。他でもない姉さんの頼みです。協力しましょう」

学はそう言った。

「すまんな、恩に着る」

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