第34話 マリッジリング

 睦月が浮気をした……。


 夏希は、その事実( 勘違い )をなかなか消化できないまま、毎日睦月にお弁当を届けた。

 仕事の邪魔はしたくない、でも辛いのを知ってほしい! そんな気持ちが行ったり来たりして、口数もどんどん減ってきていた。


 最初は、寂しいのだろうか? と思っていた睦月も、明日帰れるという段階になっても、夏希の表情が暗いままなのには、さすがにおかしいと思い始めていた。


「夏希、明日の朝帰るから、そうしたら区役所行くぞ。書類は揃えたか? 」

「うん、それは。でも、仮眠とらないの? 」

「ああ、すぐに新婚旅行だしな。その支度も頼むな」

「うん」


 夏希は、睦月の正面に座り、味噌汁の用意をしたり、お弁当を出したりしていた。


 前は隣りに座っていたのに、ここ数日は距離をとられている気がする。それに、ハグもキスもそっけないような……。


 睦月は、夏希の表情を読み取ろうと、お弁当を食べながらも、夏希の顔をじっと見た。


 わずかに顔色が悪い。

 寝不足なのか、目の下に隈があるような気がする。

 体調が悪いわけではなさそうだし、ハグした時にさりげなく首もとを触ったが、熱もなかった。


 もしかして、マリッジブルーってやつか?

 ただのマリッジブルーならいいが、俺との結婚に、実は乗り気じゃないとか?!

 確かに、出会ってからまだ三ヶ月弱だし、スピード婚といっていいだろう。

 付き合ったのだって、寝ている夏希に無理やり申し込んだ訳で、同意があったわけじゃない。なんとなく流れで結婚することになったが、本当はまだそこまで好きじゃないと、悩んでいるんだろうか?

 それとも、最近はほぼ恋愛セックス恐怖症も克服できてきたと思い、かなり際どいことまでしてきたが、実はまだ克服していなかったとか?

 新婚旅行ではセックスしないといけないと思って、これだけブルーになっているんじゃないのか?


 睦月は、考えれば考える程、夏希の気持ちが自分に向いていないのでは?と、こちらもこちらで勘違いが膨らんでいく。

 だが、そうだと言われるのも怖くて、睦月は夏希に確かめることができなかった。

 今までは、どんな女性に対しても俺様!だった睦月が、夏希の前ではすっかり弱気になっていた。


 睦月も気がついていなかったのだが、実は三十間近にして、初恋であったから。女性関係において、常に不自由しなかった睦月は、自分から好きになることがなく、付き合って別れてを繰り返してきた。だから俺様でいられたのだが。

 そんな睦月が、初めて自分から好きになった女が夏希だ。

 どうしとも手離したくないという思いから、睦月は聞くに聞けないというジレンマに苦しんだ。


 傍から見ると、お互いに好き過ぎての勘違いなんだが、結局睦月までギクシャクする形で、夏希の誕生日をむかえてしまった。


「ただいま」


 睦月が徹夜明けで帰宅すると、夏希はやはり起きていたのか、まだ早い時間にも関わらず、すぐに出迎えにきた。


「おかえりなさい。お疲れ様。シャワー浴びる? 」

「ああ。そうだな」


 夏希は、一緒に入るか? と誘われるのではと一瞬期待したが、睦月は夏希にコートを渡すと、一人で風呂場に向かってしまった。

 そこで、ハグもキスもしていないことに気づく。


 睦月さん、もしかして、私よりも彼女に気持ちがいっちゃったのかな?


 夏希は、泣きそうになりながらも、朝食の支度をしにキッチンに向かった。

 シャワーを浴びてすっきりしてきた睦月は、キッチンに立つ夏希の後ろからそっと抱きしめ、頭にキスをした。


「やっぱり家はいいな。夏希がキッチンに立っているのを見ると落ち着く」

「本当? 」

「ああ、我が家って感じだ」


 夏希は、睦月の方を向いて目を閉じた。

 わずかに瞼が震えているのに、睦月は気がついた。


 なんで泣いてんだ?!


 睦月は、ギュッと夏希を抱きしめた。


 キスしてくれないの?


 夏希は、睦月の胸に顔を埋めた。

 もう、本当に号泣したかった。喉の奥がひきつれて痛みを覚えたが、なんとか泣くのを我慢する。


「ご……ご飯にしよっか」

 朝ごはんは、鮭に味噌汁、ヒジキの煮物に温泉卵だ。

 二人とも、黙々と箸を動かした。

 せっかく念願の二人きりなのに、重苦しい沈黙が広がる。


「まだ早いけど、区役所行くぞ。時間外受付で受理してくれるはずだ」

「うん」


 夏希は、朝食の片付けを手早くすませると、書類を持ってきた。


「行くぞ。いいか? 」


 夏希はうなずく。


 婚姻届を出すことは嫌がってないな。ということは、やっぱりセックスがまだネックなのか?!


 睦月は、とりあえず悩む暇を与えずに婚姻届を出してしまえ!と、夏希の手を引っ張り、マンションを出て車に乗り込んだ。

 車の中で、夏希の様子をチラチラ観察する。

 夏希は緊張気味に口を開いた。


「睦月さん、本当に私でいいの?」

「おまえがいいんだ」


 おまえこそ、俺でいいのか? とは聞けなかった。


 夏希は、少し表情を和らげて書類を抱きしめる。

 区役所の駐車場に車を止め、時間外窓口を探した。

 区役所の入り口の脇に、時間外窓口があったため、迷うことなく書類を提出できた。

 眠そうな職員が出て来て、書類を一通り確認する。


「不備はなさそうですが、万一記入漏れなどがあった際にはご連絡します。連絡先はご自宅でいいですか? 」

「はい」

「では、受理いたしました。ご結婚、おめでとうございます」

「あ……りがとうございます」


 あまりにあっけなく、書類は受理され、二人は夫婦になった。


 やったあ! と喜ぶことも、嬉しくて涙することもなく、もちろんいきなり世界が薔薇色に見えることもなく、ごく普通の日常が流れている中、何が変わったのかわからない。


「夫婦……になったんだよな? 」

「だよね? 」


 もっと、こう……感動というか、特別なことが起こるんじゃないかと、勝手に想像していた夏希は、拍子抜けし過ぎて、笑いが込み上げてくる。


「普通だね。普通過ぎて、なんかおかしくなっちゃった」


 そんな夏希を見て、やっと笑ったと、睦月は安堵した。そして、まだ誕生日のお祝いも言ってないことに気がついた。


 車に戻ると、睦月はダッシュボードの中に入れておいた指輪を取り出した。


「誕生日おめでとう。これ、マリッジリングな」


 シンプルなペアの指輪だった。


「なんか、エンゲージリングと違って、マリッジリングは通常使いだから、石とかは使わないらしくて、全然安いんだが……。もちろん、ちゃんと別にも用意する」

「これだけでいい」


 夏希は、左手を睦月に向かって差し出す。

 睦月は、マリッジリングを夏希の薬指にはめた。

 夏希の目から涙が溢れた。


「嬉しい…」


 婚姻届を出した時にはなかった感動と実感が、ジワジワと夏希の中に広がった。


 嬉し泣き……だよな?


 睦月は心底安堵し、と同時に絶望に近い感情も生まれる。

 契約ももちろんだが、決して夏希を傷つけたくなかった。


 あんなにブルーになるくらい、まだセックス恐怖症が根強いのであれば、この際何年でも待ってやる!


 やや自暴自棄になりつつ、睦月はしばらくの修行生活を覚悟した。


「俺のもつけてくれるか? 」

「うん」


 夏希は、睦月の左手の薬指にマリッジリングをはめた。


「外さないでね? 」

「絶対外さない」


 睦月は夏希を抱き寄せ、数日ぶりに濃厚なキスをした。

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