第32話 据え膳は食いません

「社長、こちらの資料に目をお通しください」


 秘書の一人が、睦月のPCにUSBメモリーを差し込む。

 睦月の後ろから乗り出して、マウスを操って情報を開いた。


 睦月の肩に豊かな胸が当たる。


 睦月が、秘書の顔を見ると、秘書は艶やかに微笑み、さらに身体を密着させるようにマウスを動かした。

 前に数回、関係を持ったような気もするが、名前は思い出せなかった。


 わざとか……。


「社長……」


 耳元に息を吹き掛けるように、秘書は囁いてくる。


 すでに、夜中の二時。


 睦月と数人の秘書が泊まりで仕事をしていたのだが、いまだに起きているのは、睦月とこの秘書だけらしい。


「君は仮眠とらないのか? 」

「社長がお休みになりましたら」


 秘書の手が睦月の肩に触れ、するっと前に滑ってくる。


 前なら、即食いだったんだがな……。


 睦月が秘書の手をつかむと、秘書は勘違いしたのか、睦月の膝の上に横抱きに座ると、強く抱きついてきた。

 香水の香りと、柔らかい身体。弾力のある尻が、睦月の股関に押し付けられ、睦月の頭とは別に、身体が反応しそうになる。


「悪いな。今は彼女だけで足りてるんだ」


 威圧的にならないように、そっと秘書を引き離すと、PCの画面に集中して仕事を続ける。

 秘書は、カッと頬を怒りで赤くし、社長室から出ていった。


「はあ……」


 以前なら、彼女がいてもいなくても、言い寄ってくる女は抱いていた。あの秘書も、確か彼女がいても構わないと言って、数回ここで関係を持ったはずだ。名前は思い出せないが、内腿のあった三つの黒子は思い出していた。

 ここ数ヶ月、女断ちをしたわけではないのだが、不本意ながら女を抱いておらず、本来なら飛び付いてもおかしくない状況だったのだが……。


 据え膳も食えない身体になっちまった。


 睦月は、ムスッとして机を蹴る。


「新婚旅行では、いやってほど夏希を抱いてやる! 」


 睦月は、猛烈に仕事をし始めた。


 そんなことがあった日の昼、夏希がいつも通り昼のお弁当を持って会社にやってきた。

 これで四日目、夏希を知らない受付嬢はいなくなり、顔パスで会社に入れ、睦月専用の直通エレベーターで最上階にある社長室に向かう。

 夏希がきたことは、受付嬢から知らせが入っているはずで、万が一来客などのときは、秘書課の誰かが出迎えてくれる。それがないということは、社長室に直行しても良いということだ。

 それでも、社長室をいきなり開けずにノックする。


 返事がない。


 恐る恐るドアを開けると、睦月がソファーで書類を握りしめて眠りこけていた。

 夏希は弁当をテーブルに置き、起こしたものか思案する。


 せっかく寝ているし、でもきっと仕事もしないといけないんだろうし……。


「睦月さん……」


 夏希は、睦月の耳元でそっと呼んだ。

 睦月は、軽く目を開けると、夏希をギュッと抱きしめた。


「そろそろくると思った」


 夏希は抱きしめられ、違和感を感じて眉を寄せた。


 なんだろう?


 ほんのわずかなんだけど、いつもの睦月と違う匂いがした。


「なんか匂う? 」

「臭いか? 昨日、シャワー浴びれなかったんだよな」

「いや、臭くは……」


 臭いんじゃなくて、フローラル系の匂いなんだけど……。

 女の人のつける香水の香り。

 まさか、缶詰め状態で浮気なんてね……?

 第一、私とHするために、仕事頑張っているわけだし。


 夏希は、頭の中に生まれた疑惑を振り払うように頭を振ると、気をとりなおしてお弁当を広げた。今日はサンドイッチだ。一緒に食べようと、自分の分も持ってきた。


「ここにキッチンがあれば、作りたて食べさせてあげればるのに」

「それいいな」


 職場に癒しを……。


 深刻に癒しを求めている睦月だった。

 もし、一日二回、夏希がお弁当を運んでこなかったら、忙しさのあまり、発狂していたかもしれない。


「そうだ、今日も美月君遊びにきたよ。今、家でゲームしてる」

「今日も? 」


 美月は、毎日昼前には家にきて、夕方夏希が弁当を運ぶときに一緒に家を出て帰っていく。

 一応、圭吾のこともあったし、偶然ばったり会うのも嫌だから、行き帰りはタクシーを使っているのだが、美月はそれでも心配だからと、毎日家にきていた。


「なんか、一人で家にいるから心配なんだって。過保護なお父さんみたいね」


 夏希は、クスクス笑いながら言った。


「あいつがいるほうが心配……。いや、ウウン」


 睦月は、自分よりも長い時間夏希と過ごしている美月に対し、不安よりも怒りが沸々とわいていた。

 しかし、夏希の前では余裕のある大人の男性を装いたい睦月は、やきもちを隠して咳払いをする。


 サンドイッチを仲良く頬張っていたとき、社長室のドアがノックされた。


「入っていいぞ」

「失礼いたします」


 秘書の一人が、一礼して入ってきた。


「社長、取り急ぎサインをいただきたい書類があります」


 秘書は、睦月のところまで書類を持ってくると、睦月の横に腰を下ろす。一枚づつ説明をしながら、睦月にサインをもらっているのだが、その距離が微妙に近い気がした。膝が当たるくらいの距離だ。


 秘書がチラッと夏希を見て笑った。挨拶の笑みとも違うような……。


 夏希は、モヤモヤする物を感じた。

 睦月がサインし終わると、秘書は立ち上がって夏希の前にきた。


「お茶、新しいのお持ちいたしますね」


 夏希の前にあった湯飲みを片付けようとしゃがんだとき、あの香りが……。


 夏希が眉を少し寄せると、今度はあからさまに馬鹿にしたような笑みを浮かべた。


 あんた、何も知らないでしょうけど……そんな声が聞こえた気がした。


 秘書が部屋を出た後、夏希は睦月の袖を引いた。


「どうした? 」

「今の人、誰? 」

「今の? 誰だったかな? 秘書は沢山いるからな、全員の名前は覚えてない」

「そう……」


 夏希は睦月の表情を読み取ろうとしたが、特に何か隠している感じでもなく……。


 気のせいだったのかな?


 あの目つき、あの笑い、素通りできない何かを感じていた。

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