第13話 キスマークと黒歴史

 次の朝、いつも通り夏希はお見送りの儀式( ハグ&キス )をし、睦月を見送った。ただいつもと違ったのは、行ってきますと言った睦月が、夏希の首筋を指でなぞり、腰をかがめて夏希の首筋にキスをしたこと。


 夏希がヒャーッ! と叫ぶと、睦月はクスクス笑って出掛けて行った。


 あれは嫌がらせかな?


 昨日の後片付けをし、掃除機をかけ、家中拭き掃除をする。汗をかいたから、風呂掃除も兼ねてシャワーを浴びることにした。


 まず風呂掃除をし、頭を洗い、身体を洗い、最後に風呂場を拭きあげる。水滴一滴残さずピカピカにすると、頭にタオルを巻いたまま、脱衣所の掃除にうつる。

 鏡を拭いていた時、夏希の手が止まった。


「なんじゃこれ?! 」


 髪の毛で隠れていてわからなかったが、髪を上げた状態だと、首筋にくっきり残る赤い痣が……。


 夏希は、真っ赤になり、首筋を押さえた。

 さっき睦月が指でなぞりキスした場所だ。

 そういえば、昨日強く吸われた気がする。


「もう! 睦月さんってば! 」


 こんな目立つ場所にキスマークをつけて! 買い物にだって行かないといけないのに!


 いつもは一つに結んでしまうのだが、夏希は髪を乾かして髪を下ろしたままにする。なんとか、隠れそうだ。

 ハイネックのシャツは持っていない。元から、マフラーとか首を覆う物が大嫌いだったから、首を隠せるようなグッズもない。


「大丈夫……かな? 」


 そのキスマークを見ると、昨晩のことを思い出す。


 嫌……じゃなかった。


 夏希いわくべちゃべちゃしたキスもしたが、今までの気色悪い物とは全く違っていた。それどころか、甘くとろけてしまいそうな、もっと深くからめていたいような……。


 あの感覚は何なんだろう?


 焦らされているようで、もっとして欲しくて、思わず、自分から舌をからめてしまった。まさか、そんなことを自分がするとは、思ってもいなかった。


 睦月が首筋にキスした時、反射的に身体が強張ってしまったが、決して嫌じゃなかった。ただ、ビックリしただけだった。

 睦月は、そんな夏希の反応にちゃんと対応してくれた。男の人が、あの状態で途中で止めるのは、かなりしんどかったに違いない。


 次はできるかもしれない……。


 夏希を思ってくれる睦月の気持ちが嬉しかった。睦月を満足させたいとも思った。


 でも、セックスができたとして、初めての夏希に睦月を満足させてあげられるのだろうか? 睦月は経験豊富なようだし、そんな睦月を幻滅させてしまうのではないか……そんな不安さえ覚えた。もちろん、杞憂中の杞憂なんだが。


 夏希に新しい課題が生まれた。


 夏希は、家で軽い昼食を取り、夕飯の買い出しに行くことにした。コートの襟をなるべくたて、首を隠すように歩く。

 いつも買い物するスーパーへ向かった。この辺りは、以前の夏希の家からも近く、行き馴れたスーパーで、顔見知りのおばちゃんもいる。


「夏希ちゃん、今日は魚が特売だよ! 」


 一応買う物は決めてきたが、特売と言われると、心が動く。結局キンキの煮付けをメインにすることにし、買い物のリストを変更した。

 他にトイレットペーパーに、流し用洗剤を買うと、両手いっぱいになってしまう。


 睦月のビールも買っているから、かなり荷物は重かった。途中、休憩するために、公園に寄った。

 寒いからか、公園で遊んでいる子供はいない。


 夏希は、ホットココアを買うと、ベンチで飲み始めた。ちょっとした贅沢である。


「夏希? 」


 いきなり声をかけられ、顔を上げると、見知った顔が目の前に立っていた。


「け……いご? 」


 一ヶ月前に別れた彼氏、圭吾けいごだった。


「なんだよ、生きてんじゃん。いきなり連絡取れなくなって、アパートも引き払ってるから、心配してたんだぞ」


 馴れ馴れしく夏希の肩を叩き、隣りに座る。


 夏希は、荷物を間に置き、スペースを保った。


「仕事場にも電話したんだぜ。辞めてたけど。」

「なんで? 」

「なんでって、おまえ、俺の冗談真に受けて、別れたつもりでいるみたいだったからよ」


 夏希は、ちらっと圭吾を見る。


 たぶん嘘だ。


 あのとき、圭吾は夏希がやらせないからって他の女とセックスした。その女と付き合うから別れると言っていたのだ。

 実際にやっている写メを見せられたし、これは浮気じゃなくて、させないおまえが悪いんだとかほざいてたっけ。

 女にしたら、遊びで圭吾と寝ただけで、付き合う気は更々なかったに違いない。で、振られた圭吾は夏希とよりを戻そうとした……きっと、こんなとこだろう。


 夏希の黒歴史の一つになっていた。


「悪いけど、圭吾とよりを戻すつもりはないから」

「よりを戻すも、別れてないし。あんなのギャグだし」


 圭吾は、間の荷物を地面に置くと、夏希ににじり寄ってきた。


「じゃあ、ちゃんと別れよう! 」


 夏希は、圭吾に向き合った。


「なんでだよ? 」

「私、今好きな人がいるから」


 圭吾は驚いたように夏希を見つめ、その視線が夏希の首筋で止まる。


「ふーん……。なんだよ、人にはもったいぶってやらせなかったくせに、違う男には足開くのか? 」

「な……っ?! 」


 こんな男と話していてもしょうがないと思い、夏希はいっきにココアを飲みきると、立ち上がって帰ろうとした。


「待てよ! 」


 圭吾が荷物を持った夏希の腕をつかみ、そのまま自分の方へ引っ張る。


「やだ! 」


 圭吾に抱きしめられ、無理やりキスされそうになる。

 荷物でブロックしていると、今度は手が夏希の胸に伸び、わしづかみにする。


「止めて!! 」

「何だよ! 他の男がよくて、俺がダメっておかしいだろ? 」


 シャツの中に手を入れてきた。


「やだってば! 」


 背中がゾワゾワして、全身に鳥肌がたつ。


「一回やらせろよ。そうしたら別れてやるよ」

「最低! 離して! 」


 荷物を放り出し、なんとか手でブロックしようとするが、洋服の中に入れられた手をどうすることもできない。胸をまさぐられ、吐き気がしてくる。


「やべ、元気になっちまった。トイレでやるか? 」

「やだってば! 」


 無理やり腕を引っ張られ、トイレの方へ引きずられて行く。


「チッ! 多目的ないのかよ。使えねえな。しゃあないな、家行こうぜ」


 圭吾は夏希の肩を抱き、腕を引っ張ったまま公園から出ようとする。


 このままじゃ、本当に家に連れて行かれ、やられちゃう!


 夏希は、大声を出そうとした。


「助け……」

「何してんだ? 」


 公園を出て少しのところで、後ろからやってきた車が止まり、窓が開いた。


「すっげ!ポルシェだよ! 」


 圭吾は、車に見惚れて夏希を掴んでいた手が弛む。


「睦月さん! 助けて! 」


 車から睦月が下りてくる。

 睦月は、夏希を圭吾から引き離すと、背中に隠すように立った。


 ポルシェに乗った厳つい髭面の男、サングラスなんかもかけているもんだから、圭吾には見るからに危ない職業の人間に見えたようだ。

 上から見下ろされるように睨まれ、圭吾はすっかり腰がひけていた。


「こいつに何の用だ? 」

「いや……、こいつは俺の彼女で……」

「はあ? 」


 睦月はサングラスを外し、厳しい視線を圭吾に向ける。


「いや、だから……」

「前の彼氏なの」

「ああ、ハメ撮りの」


 そんなことまで話したっけ?


 夏希の記憶にはなかったが、酔っ払ったときに全部話していた。


「な……ッ! おまえ誰だよ! 」

「夏希の今彼。こいつは、今は全部俺のだから。おまえが入る隙間はねえよ。消えろ! 」


 完全に迫力負けである。


 睦月の一喝で、圭吾は走って逃げ出した。


「車、乗れるか? 」

「に……荷物が、公園に。買い物した……」


 睦月は、夏希を助手席に乗せると、公園に夏希の買い物をした荷物を取りに行く。


 夏希は、睦月を待っている間、今更ながら恐怖が湧いてきて、顔面蒼白になりながら身体の震えが止まらなかった。


 もし、睦月がこなかったら……。


 そう思うと、涙まででてきた。


「これだけか? って、泣いてるのか?! あいつに酷いことされたのか? 」

「ごめんなさい。ごめんなさい」


 今は睦月の彼女なのに、あんな最低野郎に好き勝手触られてしまった。


 汚された気がした。


「せっかく睦月さんが大事にしてくれているのに、あんな奴に触られてごめんなさい」

「抵抗したんだろ? 」


 夏希は何回も首を縦に振る。


 睦月は、優しく夏希の頭を撫で、そっと抱きしめた。

 夏希は一瞬硬直したように身体を硬くし、息をゆっくり吐いて力を抜くと、睦月の肩に顔を埋めた。


「家、帰ろうな」


 睦月は、夏希の瞼にキスをすると、片手は夏希の手を握りながら、片手で車を運転して家に向かった。

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