第6話 住み込み開始
夜七時、インターフォンが鳴る。
夏希がインターフォンを見ると、睦月が立っていた。その表情は、なんだか照れくさそうだ。
夏希が鍵を開けると、睦月が花束を差し出した。
「綺麗ですね。リビングに飾りますか? 」
「夏希にだ」
怒っているように見えるが、かすかに頬が赤いから、照れているんだろう。
「あ……りがとうございます。お花なんてもらったの初めてです」
夏希は、花束の匂いを嗅ぎ、嬉しそうに笑った。
「引っ越しの荷物は届いたか? 」
「はい。凄いです、今日の今日で引っ越しなんてできるんですね」
「ああ、会社で契約している引っ越し業者だから、融通がきくんだ」
睦月がスーツを脱ぐと、夏希が受けとる。
「昨日のスーツ、クリーニングに出しときました」
睦月はスーツを毎回クリーニングに出す。クリーニングはマンションのコンシェルジュに渡すだけだ。コンシェルジュがクリーニングに出してくれる。年間契約をしているため、代金はまとめて引き落とされ、お金を支払う必要はなかった。
「ありがとう。……掃除したのか? 」
睦月は、部屋が朝より綺麗になっていることに気がつく。
「はい。……暇だったもので」
睦月は、夏希の頭をクシャッと撫でた。
「寝てろって言ったろ」
この人は、こんな怖い顔で、なんでこんなに優しく触れるんだろう……。
「いい匂いがするな……。飯か? 」
「はい、たいした物買えなかったので、簡単な食事なんですけど。後少しなんで、先にお風呂お願いします。すぐに沸かしますから」
「ああ、金を渡してなかったな。悪かった」
睦月は、財布の中からカードを取り出して夏希に渡した。
「これ、生活費な。暗証番号は9988。足りなくなったら入れるから言ってくれ。給料は別に渡す」
夏希は、カードをエプロンのポケットにしまい、風呂場へ小走りに向かった。
外から自分の部屋を見上げた時にも思ったのだが、人がいる部屋に帰るというのは新鮮だった。部屋に電気がついていて、チャイムを鳴らすと鍵が開く。ドアを開けると、暖かい空気が流れてきて、夕食のいい香りがする。
今までの自分の部屋からは、信じられない。
「お風呂どうぞ」
「ああ」
夏希は、なぜかにやけている睦月を不思議そうに見上げた。ネクタイをとってやり、背中を押した。
「ごゆっくり」
風呂場へ入った睦月を見送ると、夏希は夕飯の支度を続けるためにキッチンへ向かう。
今日の夕飯は、肉じゃがとワカメとキュウリの酢の物、ぶりの照り焼き、味噌汁は玉ねぎと豆腐だ。お米は夏希の部屋から持ってきた物を使った。
米を買うお金がなかったからだ。
ほぼ料理が出来上がった頃、睦月が風呂から上がってでてきた。
「もうすぐですからね」
夏希は、キッチンの中から睦月に声をかけた。
タオルを頭からかぶり、夏希の用意した部屋着に着替えた睦月に、男の色気を感じ、夏希は睦月から視線を反らした。
睦月は、ソファーに身体を投げ出すように座ると、キッチンに立つ夏希を眺める。
エプロン姿の夏希は、なんとも魅力的だった。水着姿のミスユニバースと、エプロン姿の夏希だったら、絶対に夏希に一票入れるな……などと、バカなことを考えていた。
「用意できました。どうぞ」
食事をとったことはないが、とりあえず置いてあったダイニングテーブルに、一人分の夕食が並べられていた。
「おまえは食ったのか? 」
「いえ、一緒ってわけには……。キッチンででもいただきますから」
家政婦と雇い主が一緒に夕飯ってのもおかしいだろう。
「ダメだ! 一緒に食うぞ」
睦月はキッチンに入ってくると、夏希用に置いておいた食事をダイニングテーブルに運んだ。
「俺が遅くなるとき以外、一緒に食うんだ。わかったな」
「はあ……」
夏希は、自分のお箸を持ってくると、睦月のご飯の横に置かれた自分のご飯の前に置く。
しかし、なんで対面ではなくて、横なんだろう?テレビを見るためだろうか?
並んで食事をとると、睦月はひたすら上手い上手いと箸をすすめた。
「ビール出しますか? 」
「ああ、おまえも飲め」
夏希はビールを持ってくると、ビールグラスに注いだ。自分のは少しにする。
「なんだ、まだ二日酔いか? 」
睦月がニヤッと笑って言う。
「いえ、これから片付けしないとだし、あまり飲んだらまずいかなって」
睦月は、グラスのビールをいっきにあおると、手酌でビールをついだ。そのついでに、夏希のグラスにもなみなみ注ぐ。
「大丈夫だ! おまえは泥酔状態でも完璧に片付けしていたからな。寝てたのに、いきなり起き上がって片付け始めたぞ」
「私、寝てました? 」
睦月の前で、そんな醜態をさらしたのかと一瞬慌てたが、醜態と言えば、睦月にゲロぶちまけているんだから、寝てしまうくらいたいしたことではないのか? とも思った。
「寝てたな。俺の膝枕でな」
夏希は真っ赤になって頭を下げる。
「すみません、すみません、すみません! 」
まさか、膝枕とは……。
どんなに図々しい女だと思われたことだろう。
「謝るな。俺は役得だった」
目尻を下げて微笑む睦月に、思わずドキドキして、夏希は視線を食事に落として、とにかく食事を口に運んだ。
この人いつもは厳つくて、たまに見せる優しい顔とのギャップが激しい。なんだろ? ドキドキする。
夕飯を食べ終わった頃、睦月がポケットから折り畳んだ紙を出して夏希に渡した。
「そうだ、これ、契約書な。読まないでサインしたろ? ちゃんと読め」
コピーした契約書だった。
月収三十万。二十日締、二十五日払い。
週休一日で、基本は日曜日休み。
有給はないが、休みは応相談。
朝七時から夜九時まで。残業なし。休み時間は適宜。
仕事内容は家事全般。
社会保障あり、保険は社保。( M&Kの社員と同等 )
「ちょっと拘束時間が長いが、もちろん休憩は好きにとってくれ。例えば、三時に終わったら、俺が帰るまでグダグダしてもらってかまわないし、映画見に行ったり、自分の買い物をしてもかまわない。俺の夕飯の時間までに帰ってくればいい」
「そんなユルユルでいいんですか? 」
「かまわない。有給はないが、休みは好きにとってくれ。あまり休みまくられたらまずいが、多少なら給料には影響しない」
すごい好条件だった。
別に趣味があるわけでも、遊びたい友達がいるわけでもない。彼氏とも別れたばかりで、会わなければならない人間もいない。日曜日がなくてもいいくらいだ。
「今なら、内容も変更してやる。なにか不満はあるか? 」
「ないです。これでお願いします」
夏希は、改めてお辞儀をした。
「そうか、じゃあ、契約成立だな。そろそろ九時だし、おまえの拘束時間は終わるな」
睦月は、九時になったのを確認すると、ソファーの方へ移動して、夏希を手招きした。
夏希が近寄ると、夏希の腕を引っ張って、夏希を抱き寄せる。
夏希は、声も出せず硬直した。
「あ……あの……?」
「動くな」
夏希は、何が何だかわからず、でも動くなと言われて動くこともできず、ただ抱きしめられるまま、突っ立っていた。
五分ほど、そうしていただろうか?
特に睦月が何かしようというふうでもなかったので、次第に夏希の身体の緊張がほどけてきた。
温かくて、男物の香水の香りだろうか? いい香りがする。
背中に添えられた手は、夏希を落ち着かせるためか、赤ん坊をあやすようにトントンとリズミカルに叩いている。
「あの? 」
「どうだ? 嫌な気持ちになるか? 気持ち悪いか? 」
耳元で低く響く睦月の声にドキドキする。
「いや……嫌ってわけじゃないですけど、なんで? 」
睦月は、夏希から離れると、もう一枚契約書を取り出した。
「これ? 」
甲( 上條睦月 )が乙( 如月夏希 )の恋愛恐怖症を改善するための契約書
ざっと目を通して、夏希は契約書と睦月を交互に見る。
「意味が分からないんですけど? 」
「昨日、おまえが言ったんだぞ。男とセックスできないって。気持ち悪いんだってな。だから、その恐怖症を、俺が治してやるって契約書だ。これは、もうおまえのサイン済みだからな。今さらチャラにはできないぞ」
それって……それって、私の恐怖症が治るってことは、私と睦月さんがセックスするってこと?!
夏希は、ただ唖然として、口をポカーンと開ける。
「いや、あの、いくら恐怖症を治すためとはいえ、恋人でもない人と……」
「何言ってんだ? 俺とおまえ、昨日から付き合ってるぞ」
「はい? 」
夏希にそんな記憶はない。
酔っ払っていたからではなく、寝ていたからなんだが……。
「俺はおまえに付き合うかって聞いて、おまえは嫌だとは言わなかったからな」
何度も言うが、寝ていたからだ。
「嫌なのか? 」
睦月の鋭い眼光の前に、夏希はすくんでしまい、ブンブンと首を横に振る。
「なら、問題ないな」
あ……、目付きが優しくなった。
睦月は、夏希の腕を引っ張り、ソファーに座らせた。
「あの、私、昨日彼氏と別れたばかりで……」
「ああ、それがどうした? 俺も昨日婚約破棄したぞ」
「振られたのは、私が最後までできなかったからで……」
「昨日聞いた。そんな自分勝手な男はほっとけ」
睦月が、優しく夏希の手を包む。
「俺はな、なるだけおまえの意見を尊重する。あの契約書に書いたように、嫌なことは我慢するな、すぐに言え。絶対に無理強いはしないから」
本当に本当だろうか?
あまり気が長いようには見えないし、どちらかというと俺様なワンマンタイプに見える。
「なんだ? 疑っているのか? 」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ、契約を一つ追加してやる。もし万一、俺が夏希の意に添わないことをしたら、このマンションをくれてやるよ」
「はあ? 」
どこまで太っ腹、いや、無理強いされたら嫌過ぎるから、マンションなんてもらわないほうがいいんだけど……。
「まあ、もう契約書にはサイン済みだからな。おまえは、いずれ俺とセックスするんだ」
睦月は、夏希の頭を撫でつつ言う。
そんな強引なことを口にする睦月の視線は優しく、夏希の頭に置かれた手は温かかった。
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