第5話 契約成立

 頭がガンガンして、起き上がるのが難しいくらい気持ちが悪い。

 とにかく寝ていたい。

 一ミリも動けない……。


 夏希は、今まで経験したことのないくらいの二日酔いの真っ只中にいた。


 それにしても、掛け布団が軽い。いつもなら、起きたら腰が痛くなっているのに、今日は全く痛くなかった。気持ちが悪すぎて、腰痛まで気が回らないのだろうか?


 夏希は、とりあえず目だけ開ける。二日酔いであろうと仕事に行かなくてはならない。無断欠勤は即解雇であったから。

 視界がボンヤリして、最初は焦点が合わない。次第にクリアになっていくと、そこは自分の家ではない。

 夏希は慌てて起き上がり、あまりの気持ち悪さにまた布団に崩れ落ちた。


 ここは、私の仕事場だ。

 もしかして、仕事に来て、寝てしまったんだろうか?

 いや、そんなことは絶対しない。


 いつも自分がベッドメイクしているベッドに、なぜか寝ている。全く記憶がなかった。


 昨日は、彼氏に一方的に振られ、やけ酒飲んで……睦月さんに拾われたんだ!確か、専属契約しようって言われて、お酒を飲んで……。

 途中までは思い出せるが、なぜ自分がベッドにいるのかわからない。


「起きたか? 」


 寝室のドアが開き、スーツ姿の睦月が顔を覗かせた。


「はい! 」


 夏希は、気力を振り絞って起き上がる。


「これ、昨日言っていた契約書。二通あるから、サイン書け」


 夏希は、契約書を読むこともなく、言われるままにサインする。


「おまえな、一応契約書なんだから読んだほうがいいぞ」


 睦月は呆れたように契約書を受けとると、胸ポケットにしまった。


「コピーしたら、渡すから。あと、夏希の会社には退職の届けを出しておいた。それから、部屋も引き払って、ここに引っ越す手続きもしておく。夕方には、荷物が届くだろう」


 睦月は、喋りながらキッチンへ向かうと、ミネラルウォーターを持ってきた。


「ほら、飲め。今日は休め。仕事は明日からだ。今日は早く帰ってくる。細かい打ち合わせはその時だ。鍵のスペアをリビングに置いとく。夏希のだから」


 ミネラルウォーターを夏希に渡すと、睦月は夏希の頭をポンポンと撫で、目を細めた。


「寝てろよ。じゃあ、行ってくる」

「行って……らっしゃい」


 顔に似合わない優しい態度と口調に、夏希はドキドキしてしまう。


 三ヶ月前、初めてこのマンションに来たときの睦月の第一印象は、ヤクザ関係の人だと思った。あの若さで、5LDKのマンションに一人住まい、武道系ながっしりした体格に髭面。多分、髭を剃ればかっこいいのかもしれないけど、目付きが鋭いというか凄く怖い。

 睨まれたわけじゃないけど、ただ見られただけで、びくびくしてしまっていた。

 もとから仕事はしっかりこなすタイプだが、睦月の家は特に念入りに掃除した。


 そのおかげで、睦月の専属の家政婦になれ、給料が倍以上になった。

 思っていたよりも怖い人ではないようだし、なんとかうまくやっていけるかもしれない。


 夏希は、フカフカのベッドに丸くなりながら、さっきの睦月の様子を思い返していた。


 それにしても、睦月もかなり酒を飲んだはずだが、二日酔いな様子は全くなかった。覚えている限り、夏希が一杯飲む間に、三杯くらい飲んでいたと思うのだが。


 夏希は、昼少し前まで寝ていたら、かなり復活してきた。


 ベッドから起き上がると、シーツなどをひっぺがす。クルクル丸めて、風呂場へ向かう。洗濯機の中に入っていた、昨日洗濯した自分の衣服と、睦月の衣服を取り出した。かなりシワシワだが、自分のはそのまま着てしまう。

 洗濯物を洗濯機に入れると、睦月の洗い終わったワイシャツなどを持ってリビングへ向かった。

 アイロンをかけ、綺麗にたたむと、所定の場所にしまう。


 次はキッチンへ向かう。台所は洗い物などはなく、それなりに整っていた。睦月がやるとは思えなかったので、昨日自分が片付けたんだろう。その記憶はないが。


 リビングのソファーは乱れており、毛布が置きっぱなしになっていた。睦月は、夏希にベッドを提供し、自分はソファーに寝たみたいだ。

 そんな睦月の紳士的な態度からも、睦月に対して信頼感が生まれてくる。

 毛布をたたんで抱えると、かすかに男の匂いがした。


 なんだろう? 嫌な匂いじゃなく、どちらかというと……好きな匂いかも。


 夏希は、毛布に顔を埋めて匂いを吸い込み、少し赤くなる。

 冷静に考えると、変態な行為な気がしたからだ。


 毛布を寝室に運び、新しいシーツ類を出してベッドメイクする。

 洗濯物が終わり、広いベランダに洗濯物を干した。天気もいいし、風もある。きっと、すぐに乾くだろう。

 家中に掃除機をかけ、拭き掃除をした。


 夕方頃、インターフォンが鳴った。インターフォンを見ると、どうやら引っ越し業者のようだ。

 睦月が、夏希の荷物を運ばせると言っていたからそれなんだろうけど、本人がいないのに、引っ越しの手続きができてしまうことに驚いてしまう。しかも当日にだ。


 夏希がドアを開けると、荷物が運ばれてきた。といっても、たいした荷物はなく、布団一組と洋服類の入った段ボールが一つ、食器や調味料が入った段ボールが一つ、その他洗剤や細々した物が入った段ボールが二つ。たったこれだけだ。大物は冷蔵庫くらいだろうか。( 洗濯機はなく、コインランドリー派だった )

 とりあえず、空いている一番小さな部屋に運んでもらった。


「あの、鍵とかどうしたんですか? 」


 一人女性の引っ越し業者の人がいて、その人に聞いてみた。


「M&Kの秘書さんが大家さんに事前に連絡いれて、開けてもらったんですよ。荷詰めは、大家さん立ち会いのもと、私と秘書の方二人で行いました。男性職員はノータッチですのでご安心ください」

「それはどうも……」


 確かに、下着とかを男性に見られるのは嫌だ。荷詰めで触られたりなんかしたら、もっと嫌だ。


 それにしても、本人の依頼じゃないのに鍵を開けてしまう大家さん、どうなんだろう?


「それと、引っ越し後の掃除は秘書の方が残られてやられたようです。鍵だけは、後で大家さんのところへ返してほしいと言付かりました」

「わかりました。ありがとうございます」


 引っ越し業者の人は、荷物を運び終わると、ありがとうございました!とお辞儀をして出ていった。


 いや、荷詰めまでしてもらって、こちらこそありがとうなんですが……。


 夏希は、引っ越し業者が出ていった玄関に頭を下げると、再度掃除機をかけ始める。

 掃除も一段落つくと、夏希はクリーニングに出すものを袋に詰めると、買い出しに出ることにした。


 さて、夕飯は何にしよう?

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