ロスト・イン・ミスト

闇世ケルネ

第1話


 深く白い霧の中を、一台のタクシーが走る。車体の色は黄。ルーフに乗った看板や、後部座席のドアにはひどかすれたタクシー会社のロゴマーク。運転席では、紺色の制服を着た初老の男が、険しい顔で行く先をにらんでいた。白手袋の手でハンドルを握った男は、少し間を置いて言った。

「銀の髪ねぇ……知らねえな」

「知らない?」

「ああ、知らないね。そんなお嬢ちゃん、見たら二度と忘れねえよ」

 返しながら、男はバックミラーを見た。後部座席に、青いレインコートを着た少年。長めの髪で、相貌は幼い。少年は、寂しげに目を伏せた。運転手の男は続ける。

「俺もこんなことして長いがね。坊やみたいに、はっきりした客なんて早々いなかった。……どうする? 降りるかい? 探してる女の子と、丸っきり逆の方向行ってるかもしれないぜ?」

 少年は少し顔を上げ、首を振った。

「ううん、このままでいい。なんだか、近づいてる気がするんだ」

「……そうかい」

「ねえ、おじさん。他のお客さんのこと、聞いてもいい?」

「あァン?」

 運転手は眉を顰ひそめ、鏡の中の少年を見た。彼は、鏡越しに運転手を見返している。運転手はフロントガラスに向き直る。

「客っつってもな……大概、白い煙みてえな、ボヤボヤした連中ばっかなんだよ。坊や、見たことねえのかい」

「見たこと? ……ないかな。いるの? 煙みたいな人」

「いるぜ。俺はそんな連中と、腐るほどドライブしたんだ」

「じゃあ、はっきりした人って言うのは?」

 運転手は少し黙った。難しい顔で首を傾げ、うなる。

「あー、なんていうかな。坊やは今、煙みたいじゃねえ。それはわかるな?」

「うん」

「そういう奴が、他にー……あー、十人とか、そんぐらい居たんだよ。そいつらのことは覚えてる」

「その中に、銀の髪の女の子は……」

「いなかった。まず間違いねえ」

 少年が、少し身を乗り出して問う。

「……じゃあ、誰がいたの?」

「誰が、か? 色々いたぜ。クマのぬいぐるみ抱えた嬢ちゃんだろお、変な服の嬢ちゃんに、物騒なナリした兄ちゃん、目つき悪いガキに……」

 運転席背もたれの肩部分がつかまれる。少年は運転席に顔を寄せてきた。

「聞かせて」

「わかったわかった。ほれ、座ってシートベルトつけな。この霧ン中だ、何があるかわかったもんじゃねえ」

 少年が腰を下ろし、シートベルトを着ける。カチッと音が鳴った。運転手は話し始める。

「まずな、坊やより少ーし年上ぐらいの嬢ちゃんが来た。海まで連れてって、ってな」

「海、あるの?」

「さあな。見たことねえ。あるのかすら知らねえ」

「じゃあ、その子はどうしたの?」

「どうもしねえよ。適当に走らせて、どんぐらいか経ったら消えてた。他の連中も似たようなもんだ。やれ病院だ、やれ適当に走れだ……ああ、目つきの悪いガキに至っちゃ、今日からこれはオレの船だ! なんて言いやがってよお」

 少年がくすくす笑った。運転手は笑みを浮かべた。

「で、俺はその海に行きたい嬢ちゃんに聞いたんだ。なんで海なんぞにってな」

「その子は、なんて?」

「宝物を取りに行くんだってよ。何かは知らないが、偉い王様が入ってるらしい」

「王様? 王様って、あの王様?」

「どの王様か知らねえが、まあその王様なんだろうさ。とにかく、偉いんだってよ。海がどっちにあるかなんてサッパリだったが、はっきりした客は久しぶりだった。以来、ごくごくたまーに、はっきりした奴が来るようになった。……色々あったぜ」

 運転手は、懐かしむように目を細める。

「昔はな、こんな霧はなかったし、ボヤボヤした奴らもいなかった。その時はそれこそ、色んな奴を乗せてきた。今思えば、あれがどんなに幸せだったのか……」

「今は、違うの?」

「違うね。ったく、バカみたいだよなぁ。全部失くして、初めて気づいちまった」

 運転手は溜め息を吐いた。

「……なのに、なんでかね。はっきりした姿の連中は、幸せそうだった。どいつもこいつも満足したって顔してて、あとひとつあれば完璧って感じで」

「おじさんの車に乗れたからじゃない?」

「んなわけあるか。こちとらただの老いぼれだぞ?」

「でも、優しいよ。僕を乗せてくれたもの」

「そりゃあお前……」

 運転手は言葉を切った。少年が真っ直ぐ、優しい眼差しで運転手を見ていた。運転手は帽子を目深に下げて目を逸らす。

「……乗せてくれって、お前が言ったからだよ」

「そうなの? じゃあ他の人は? その、ぼやぼやしたひとたち、とか」

「あいつらは勝手に乗り込んで来んだ。俺が乗せたわけじゃねえ」

 運転手が肩を竦める。

「その人達は、どこかに連れてってとか言わないの?」

「言わないな。なに聞いたって、ウンともスンとも言いやしねえ。ありがとうも無しだ。張り合いなくってよぉ……」

 ふと、運転手の目に悲しげな影が過ぎった。

「なあ坊や。本当に、俺でいいのか? こんな俺の車でよ」

「なんで?」

「なんでって。他にもいなかったのか? タクシー」

「おじさんが初めてだよ。それにタクシー乗るの、ちょっと夢だったんだ」

「へえ。乗ったことねえのかい」

「うん。……ずっと、独りだったから」

 それっきり、会話が止まった。車のエンジン音だけが響く。霧はまだ晴れない。

「ねえおじさん。僕達さ、一人じゃないよね」

「あン?」

 聞き返すが、少年は答えない。運転手は、窓の外を見る少年を鏡越しにしばらく見つめた。

「いや、俺は一人だね。坊やは違うが」

「……そうかな」

「会いたい人がいるんだろ。じゃあ、一人じゃねえ。俺は、会いたい奴なんていねえ。みんな、いなくなっちまった」

「………………」

 少年が悲しそうな顔で運転手を見る。振り返らず、運転手は言った。

「大事にしろよ。んで、必ず見つけ出せ。こんなタクシー乗ってねえで、足使って探せ。そろそろ……」

「あっ! おじさん、止めて!」

「うおっ!?」

 驚き、運転手がつんのめる。キッと音を立てて車が止まった。少年は窓ガラスにへばりつき、食い入るように外を見ている。運転手は悟った。

「見つけたのかい」

「うん! あ、えーと……」

 少年が腰裏のバッグを前に出し、中身を漁る。運転手は扉を開いた。

「いらねえいらねえ。早く行け。逃しちまうぞ」

「え、でも……」

「行きな」

 振り向いた運転手の目は、真摯しんしであった。

「大事な人なんだろ」

 少年は、じっと運転手を見る。しばらく向き合ったのち、彼はシートベルトを外した。

「おじさん、ありがとう」

「ああ」

 扉が開き、少年が飛び出した。すぐに濃霧へ消える彼の背中を見送り、運転手は扉を閉じる。背もたれを後ろに倒して寝転がり、少年がくっついていた窓ガラスを見るが、霧は晴れない。運転手は寂し気に笑い、目をつぶった。

「……なんだよ。なーんにも、見えねえじゃねえか」

 霧の中で、タクシーのライトが消えた。

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