二十年前のプレゼント

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二十年前のプレゼント

 デパートの一角に落ちている、海水パンツ。でもその海水パンツが落ちている場所が2階のスポーツ用品売り場でなく、4階紳士服売り場と5階おもちゃ売り場の間の階段の踊り場であった時点で、それが生半な存在でない事は明白である。ましてやそれが、びしょびしょであったとあらば。

 5階の方に頭側を向けているその海水パンツは、消火器や手すりを追い越してその場の頂点に立っていた。無論、それを回収しようとした人間がいなかった訳ではない。だがいくら回収しても、クリスマスになるとまた戻って来る。どんなに絞っても、きれいに洗っても、また戻って来る。二十年もの間、ずっと続いて。いたずらを疑うには監視カメラに誰も何も映らないで、ちょっとでも目を離すとすぐに現れる。いくら回収して保管していても、紛失される事なくまた現れる。二十年間で、同じ形の海水パンツが二十枚回収された。それで水気に足を取られて階段で転倒するケースも発生し、現在ではクリスマスの時期はこの階段は使用不可になっていた。


 そんな事など露知らぬ一人の主婦が、生ゴミをゴミ捨て場においていると一人の女性に声をかけられた。

「おはようございます」

「おはようございます」

 そう頭を下げられた彼女の年齢は、いったい何歳だろうか。目尻にしわが目立つが肌はそれほど弾力を失っておらず、髪の毛もやや量こそ減ったが十分に太くて黒い。そして腹もそれなりに出ているがあくまでもそれなりである。結論から言えば、若いわけではないが老けてもいない。だいたい年相応。それが、おおむねの評価だろう――――彼女を五十代前半と思っているのであれば。

 しかし彼女は、三十四歳である。その事に疑問を差し挟む人間は、もう誰もいない。彼女はもう二十年間、三十四歳なのだ。

 彼女には夫がいる。子どもはいない。そのためか、ちっぽけな物とは言え持ち家を持つ事が出来ていた。その原動力は彼女の質素倹約節制に満ちた暮らしであるが、その事をほめる人間はほとんどいない。

 彼女の朝は、夫を送り出す事から始まる。朝食が終わると食器を片し、晴れていれば洗濯降っていれば掃除。昼食を適当に済ませると買い物に向かい、そしてその日○割引になっている物を買い漁る。夫が夕食時までに帰って来る時はともかく来ない時は実に適当であり、コスト第一バランス第二の粗食だった。粗食の上に粗衣であり、上から下まで下着込みで福沢諭吉どころか樋口一葉ひとりでおつりは来る格好でも平気だった。中には五万円相当の服で出てくる事もあるが、今のその有様を見て在りし日に五万円のそれが付いた物である事を見極めるのは非常に難しい。

「寒いですね」

「そうですね」

 近所の主婦から声をかけられると、そうやって反応する事はできる。でも、それ以上のことは起きない。ただただ漫然と、日常を過ごすばかり。十年前まではそれでも良かったかもしれない、家のローンが残っていたのだから。でも出費が減りすぎてローンの前倒しによる完済に成功した彼女は、もう十分に自由の身だったはずだ。だが彼女はそんな現実になど目を向ける事はなく、ただただ三十四歳の日々を過ごすばかりである。




 彼女が本当に・・・三十四歳だった頃、彼女にはひとりの男の子がいた。その子は、幼稚園児の時から運動神経抜群で、何をやらせても一番だった。彼女は息子に様々なスポーツをやらせたが、その中で一番興味を持ったのが水泳だった。彼女はこれ幸いとばかりに、息子を3年生になるやすぐ水泳教室に入れた。もしその時、あの頼れるお兄ちゃんに出会っていなければ。そんな繰り言をいつまで抜かしてもどうにもならないのだが、彼女としては抜かしたかった。時あたかも小学校3年生、まだまだ遊びたい盛りだった。

「お兄ちゃんいっしょに泳ごうよ」

「おう」

 彼女の息子が仲良くなったのは、小学校5年生の男の子だった。がっちりとした体躯のさわやかな男の子で、すぐに彼女の息子は彼になついた。一人っ子と言う事もあり、たちまち兄のように慕い出した。家が徒歩二十分だった事もあり、お互いがお互いの家を訪問した事もあった。

 その友好関係にひびが入ったのは、夏休みだった。いつものように練習を終えて、いつものように彼の家に上がった彼女と息子が見た物。それは、リビングで寝そべりながらゲーム機を持つ男の子の姿だった。

「何やってるんだよこんな所で、自分の部屋でやれよ」

「たまにはいいじゃない」

 その男の子、彼女の息子と同じ年齢の男の子が持っているゲーム機。そこから流れて来る音声は、彼女の息子にとっては刺激的な音声だった。意図的に遠ざけて来たつもりはなかった。しかし――――

「欲しい」

 その三文字を聞かされた途端、彼女の心は一挙に逆立った。だらけ切ったその男の子の姿、兄と慕う男の子の弟である少年の姿を見て感じた嫌悪感に対する、ほぼ真逆の反応。目の前の生活習慣病予備軍の少年の持ち物に心を奪われた―——その事が、何よりも悔しかったし、許せなかった。


「みんな持ってるし」

 小学生の最高の切り札だ。よそはよそうちはうちを言い出すには、そのゲーム機が力を持ちすぎている事を彼女は知っていた。でも、自分の息子があんな風になってしまっては――――そう思うと、彼女の財布の紐と手は動かなかった。

「無茶ぶりですよ」

「そうですかね」

 彼女は、クリスマスまでに一定のタイムを突破したら買ってあげるという約束を息子に取り付けた。ところがそれは中学生レベルのタイムであり、実質上ノーと言っているのに等しかった。コーチからもその事を指摘されたが、彼女は空とぼけた。

「妥協できませんかね」

「コーチさんは私に約束を破れと言うんですか」

 実際、息子はそれ以来ずいぶんとタイムを上げていた。クリスマスには叶わないにせよ、タイムに到達したら何かしてやると言うぐらいのつもりでいた。

「お母さんきつすぎやしないか」

「でもぼくは負けませんから」

 最初は半ば嫌々で、お兄ちゃんと出会ってからはそれなりだったはずの息子が、ちょっと餌をぶら下げた途端に急に熱心になる。それは子供の欲望か、それともあまりにも早すぎた第二次反抗期なのか。この時の彼女は、後者だと信じて疑わなかった。

「まだランニングしてるのか」

「そうみたいね」

「もういいんじゃないか、あきらめてもさ」

「親が簡単に約束を破ると子どもはそれを覚えちゃうから」

「こっちは破ってもいいと思ってるんだぞ。真面目を通り越して痛々しい感じで」

「あなたも気が弱いんだから」

 親として、子どもに気を配っているつもりだった。それでも弱音ひとつ吐かずにトレーニングに勤しむその姿に、自分としてはものすごく満足していたつもりだった。

 ————そしてその日、十一月半ばのある日。彼女の息子は、いつものように50メートルクロールに挑戦した。スタートからこれまでの全速力で腕を回し、足を動かす。隣を泳ぐお兄ちゃんよりずっと速いスピードで泳いでいた。だが勢いが鈍ると共に、息子の目が一挙に濁った。そしてゴールまであと15メートルの所でいきなり彼は水に潜り、そしてその目がプールの水と別の液体で濡れ始めた。

「オイッ!」

 異変を感じたコーチがすぐにプールに飛び込んで彼を引き上げたが、十秒程度の潜水だったのにも関わらず彼は多量の水を飲み込んでいた。いつの間にか海水パンツが脱げて「お兄ちゃん」の方に向けてゆっくりと漂っていたが、そんな事を気にする人間はもう誰もいなかった。


 それ以来、彼女の息子は一言もしゃべっていない。最愛の息子に倣うかのように、彼女もしゃべらなくなった。三十五歳の誕生日の一日前から、ずっと一言もしゃべらない息子に合わせるかのように。

「デパートにでも行くか」

「行って何をするの」

「買い物だよ、さあ行くぞ」

 クリスマス間近の日に夫からそう話を振られても、決して能動的に動こうとはしない。必死になって身を粉にしてお金を稼いでくれたこの人間には、せめていい思いをさせたい。それが今の彼女をかろうじて支えている蜘蛛の糸であり、夫が亭主関白を気取っているのはある意味で妻のためでもあった。

「デパートか、考えればお前もうどれぐらい行ってなかったんだっけ」

「忘れた」

「じゃあまるっきり別物だろうな、これはこれで楽しみだな」

 食材や日用品はスーパーで済ませ、靴や衣服はデパートからやや遠い所にあるファストファッションの店で済ませる。それだけで事足りていた生活。電化製品や高い服などはほぼ夫任せ。そんな生活を送って来た彼女に取り、デパートは本当に遠い遠い場所だった。

「えっと、カバンとか、化粧品とか」

「あなた化粧品使うの」

「ギャグはほどほどにしてくれよ」

 すっぴんと言えば体裁はいいが、要はまったくの無気力。化粧品などまともに買う事もなく、100均の口紅ぐらいしか家にはない。その事を最初の五年間ほど追及され、それから先はもうみんなあきらめていた。

「エレベーター混んでるな、エスカレーターは」

「故障中だって、だからエレベーターが混むんでしょ」

「しょうがない、階段で行くか。3階までぐらいなら何とかなるだろ」

 3階が婦人服・化粧品売り場である。もっとも、そんなところを通った所で彼女が欲しい物はどこにもない。三十四歳の主婦は、三十四歳にふさわしく階段の真ん中を堂々と登って行く。夫を置き去りにできるほどの体力で、夫の一歩後ろを歩く。

「さて3階だが」

「…………」

 彼女は夫の婦人服売り場に着いたぞと言う言葉など無視してずかずか上り続ける。まるで関心などないと言わんばかりに、登らなければならないと言う風に。そして4階に着くと足をぴたりと止め、夫を待った。

「お前は、いいのか」

「いらない、好きなだけ買って来て」

「一緒に来いよ」

「もうローンも返し終わった身でしょ、好きにして。ここで待ってるから」

 彼女は踊り場に立ちながら、夫を見送った。階段はここで封鎖されており、あとはエスカレーターかエレベーターしかない。店内の無許可での撮影は固く禁じますと言うピント外れな看板と共に、ロープで封じられた階段。

 何があったのかはわからないが、このデパートはクリスマスの割には空いている。買い物がしやすいとも言うが、どこか寂しくもある。その寂れ方の原因が、ここの階段にあると言う事を彼女はなんとなく知っていた。

 毎年毎年、この時期になると現れるびしょびしょの海水パンツ。文字通りふっと現れ、そしていくら回収されてもやって来る。一体何を求めているのだろうか。バラエティ番組で十年目には一年目よりずっと5階に近づいていると言う話をしていたが、では一体何のために5階に向かおうとしているのか。

「おっ!」

 彼女がそんなくだらないバラエティ番組を思い出しながら突っ立っていると、上から声が飛んで来た。興奮を抑えきれないような、男性の声。その声に反応するかのように、彼女はロープを乗り越えて階段を走った。

「困りますよお客さん、撮影はお断りです!」

 係員の声に応ずることもなく、彼女は走った。するとびしょびしょの海水パンツが、踊り場の階段の一番下の段に引っかかっているのがはっきりと見えた。

 ついに階段まで来た、数年後には5階まで来るんじゃないか、これが噂の海パンなんだとか言う大騒ぎの声とスマホの撮影音やツイッターの起動音が鳴り響く中、彼女は息子のそれとそっくりそのまま同じ形の海パンを見ながら、泣いた。およそ二十年ぶりに、泣いた。


 あの水泳教室は、このデパートの真南にある。そしてあのプールは、東から西へ泳ぐ仕様になっていた。3コースを泳いでいたのはあのお兄ちゃんで、5コースを泳いでいたのは彼女の息子だった。

 絶望と、その先に待つ孤独。その2つを感じ取った息子は、自ら永遠に口を閉じる事を選んだ。あまりにももろいと言えばそれまでだが、そのブームがインフルエンザなど生易しいレベルの感染ぶりであり、運動が得意で好きだからと言う理由であまりにも軽視し過ぎていた。どんなに元気に振る舞っていても、その集団圧力と不安に負けてしまったのだ。

 母親である自分は約束を破りたくないなどと言うもっともらしい理屈を振りかざして逃げ回り、そしてその結果確かに息子をその誘惑から逃がす事には成功した。その結果が、あの時に見せられたそれと、まったく同じ形のびしょびしょの海水パンツだった。

 それは5階のおもちゃ売り場にあるそれを手に入れられなければどうなるか、その事を雄弁に物語っていた。ある意味での逃避先であった、水泳教室にすら侵入して来たそれを見ての最後のお願い。彼が最後に身に着けていたたったひとつの物体が、こうしてもし限りなく高いハードルを飛べていれば来ていたであろう場所に、こうして来ている。

「あっちょっとお客さん、ここは立ち入り禁止ですよ!」

「…………」

「もしもし!」

 プールの水とは違うにおい、少し塩気の混じった水で包まれた海パン。その海パンに新たな塩分を染み込ませた彼女は警備員に平謝りをしながら5階へ上り、およそ二十年ぶりに財布を大きく開けた。そして二十年前に息子が笑いながら買うべきだった物を、泣きながら買った。

「どうしたんだよお前」

「あの子の代わりをやってあげなきゃと思ってね」

 やがてどこにいるのかわからず戸惑った夫の下に駆け付けた彼女は1階の食品売り場で大きなケーキを買うと、泣いたり笑ったりしながら電車へと乗り込んだ。三十四歳から五十五歳になった彼女が、二十年ぶりに向き合った現実にどれだけ耐えられるのかはわからない。それでもせめてあの海パンがなくなるまでは――――そう決意を新たにしたこのすがすがしい敗者を笑うには、日本の都会の空は温かすぎた。その温かい空の下を歩いて家に帰った彼女は、二十年前に永遠の沈黙を選択した息子の名前を主人公に付ける事を誓いながら、これまで一度も触れた事のないそれのパッケージを開けた。夢と希望の冒険を、息子の代わりに始めるために。

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