黙示のメディカル・レコーズ(5)

 翌朝。聖叡智ソフィア病院、放射線治療計画室。多数のパソコンが並ぶこの部屋は、放射線の当て方をシミュレーションする作戦会議室ブリーフィング・ルームだ。放射線治療部門の朝の日課、全体カンファレンスでは、正式には始業開始前だというのにスタッフ全員がずらりと集まっている。始業前だというのに時間外手当はまさかのプライスレスボランティア。やれやれと椅子の背もたれに体を預ければ上質なリクライニング機構が適度に押し返しつつ俺の体を受け止める。いやはや、良い椅子だ。椅子にかける金があるならきちんと時間外手当を出してやって欲しいもんだ。


 このミーティングでは前日に診察した新規の患者の治療方針や、現場で起きたヒヤリハットちょっとしたミスの情報共有を目的としている。とても重要なミーティングなのだがボランティアである。さらには夕方には治療計画のレビューやら他科とのカンファレンスもあるのだから、我々医師の生活も多忙と言って差し支えないだろう。天から降ってきた働き方改革とやらにどう対処したものかと、病院上層部は戦々恐々としているようだ。ざまぁみろ。


「OOOOAAARRGGHH……」


あくびをかみ殺すと喉の奥からにじみだすのは洋画ゾンビのうめき声のごとき音。昨日は少々飲みすぎた。


 高杉は今回の調査への協力に難色を示したものの、結果的に奴を狩り出す交渉は成功した。バイト代という名義の調査報酬(3日分で10万円)、勤務日の昼食・夕食(酒付き)、まぁ悪くない待遇だろう。最後までブツブツと文句を言っていたが、タダ働きというわけではない。言わばwin-winの関係だ。むしろ俺には何の得もないわけだからボランティアと言えるだろう。徳を積み過ぎて成仏しちまわないか心配だ。


 眠気をどうにかしようと、ぐるーりと首をゆっくり回すと……ずいぶんと不機嫌を顔に滲ませた相馬と目が合った。セロトニン不足だろうか。環境活動に熱心な受付の若い女性スタッフに影響されて肉食を控えていると風の噂で聞いたが……。肉に含まれるアミノ酸であるトリプトファンはセロトニン幸福ホルモンの合成原料になってイライラや鬱を予防する。だが一方でたんぱく質の過剰摂取は痛風を引き起こす。つまりステーキは人を幸せにも不幸にもする。ままならない。食事も人生もバランスが大事なのだ。そもそも肉食忌避は反芻動物がメタン出すから温暖化を進めるって理由だっけか、てめぇの屁の方がよっぽど害悪だぜ。


「荒木先生、聞いていましたか?」


「ご本人も緩和ケアを希望されているんですし、無理に根治治療を勧めなくてもいいんじゃないでしょーかぁ?」


 俺が間髪入れずに忌憚のない意見を返してやれば、相馬は数瞬きょとんとした後、さらに不機嫌に顔を歪めた。この真面目な俺がカンファレンスで話を聞いてないように見えたのだろうか?どれだけコンディションが悪かろうと給料分の仕事はこなす、それがプロというものだ。だというのにこの上司はさらに苛立ったようすを見せるのである。全くもって意味がわからない。


「たしかに患者さん本人の意向も大事ですが、ご家族は根治治療を望まれている、それゆえの治療方針です。無理に勧めているわけではない。発言には気を付けて頂きたい。」


語気を荒げてそう言う相馬に、そうですか、ご自由に、という意味合いを込めて肩を竦めてジェスチャーで返答する。はいはぁーい、すんませんでしたぁ。じゃあ最初ハナっから俺に話を振るんじゃねえよ。全く何だろうね、反対意見が嫌なら聞かなきゃ良いんだ。黙ってセロリでも齧ってやがれ。


 それにしても。野菜馬鹿を相手にイライラしても何の得にもなりはしないと頭を切り替え、カチリカチリと手元の電子カルテを操作、件の患者のCTを表示させる。確認すれば癌の他にも、粗い網の目のような、蜂の巣のような影が肺全体に張り巡らされている。COPD間質性肺炎だ。カルテの情報によれば抗がん剤としてイレッサゲフィチニブを処方されている。薬害訴訟で有名になった薬。だが、抗がん剤としちゃ副作用は小さい方だ。がん組織の発現遺伝子次第によっちゃ効きにくかったってだけの話で、一時的とはいえ薬そのものが忌避されたのは残念なことだ。まぁ副作用が小さくてもこの患者の場合は50年、一日一箱タバコ吸ってたみてぇだから、合わせ技での間質性肺炎てとこか。


 問題は、だ。こんな病状だというのに、なぜここまで根治治療病気を完全に治すことにこだわらなければいけないのだろうか。病気を治したところで、こんな肺になってしまってはその後の生活は辛かろう。SpO2酸素飽和度の数値からも肺の換気機能が低下していることが示されている。相当息苦しいはずだ。


 人はいずれ死ぬ。現在の科学では、それは絶対的事実だ。死をタブーとみなすのは、いつから始まったのだろう?死を容認して緩和治療苦痛を減らすことに方針を切り替えれば、患者の人生はより豊かなものになるだろう。それを家族や親族、あるいは医師がねじ曲げることが正しいのだろうか?生きてさえいればそれでいい?アンパンマンのマーチですら生きる意味を問うているのに。


 つーかそれ以前に相馬センセーよぉ、こんなカピカピの肺に根治目的の量で放射線照射したら死んじまうぞ?ああそうか、副作用で合法的にさっさとあの世に送ってやろうってことか。優しいなァ、おい!


 お、ちょっと目が覚めた。


 だが一方で、相馬みたいな医者をありがたがる患者は実に多い。リスクはありますが、やれるだけのことはやってみましょう、というようなことを言う医者だ。藁にも縋るっていうような気持ちは分からなくはない。けど藁なんですよ、それ。


 かと言って、俺のような医者が正しいとも言い切れない。きっと正解なんざ無いんだろう。希望を持って前向きに、と言っても、どっちが前だか決めるのは、患者自身なのだ。その道がどこに続いているのか、理解した上での結論であって欲しいと思う。


 まぁ俺が何を言ったって聞きやしねぇし、このくだらねぇカンファレンスが長引くだけだ。反論は空っぽの胃の中で反響・減衰させることにしよう。それにしてもこの治療、レセプト医療報酬算定通るのかなぁ。通っちゃうんだろうなぁ……。


 さて、午前中の診察は8件か。初診の患者もいない。高杉が来るのは10時過ぎだと言っていたので、この8人の診察が終わった頃になるだろう。毎週水曜は研究や雑務をこなすために診察数を減らしている。多少は高杉の相手をする時間も作れそうだ。

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リニアックの凶刃―放射線治療殺人事件― ヱビス琥珀 @mitsukatohe

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