Tell me that 『あのコの話』②
海報研部室。千籠の入部から数日が経ったある日。
二人が黙々とそれぞれのルーズリーフに向かっている。しかし時折千籠がテーブルを挟んで斜向かいに座った茉莉を、若干の冷汗を滲ませながら横目にきつく睨んでいる。
「(……やめろ……!)」
『海外情報研究部』についてこれまでに茉莉が解説したことの総ては、こうだった。
・壁一面のそれらは過去の海報研OBによる翻案である。
・茉莉の入部間もなくに個人的には翻訳の活動を再開させていたが、彼女が新たに部長となったこの四月から正式に活動方針として学校側へ申請した。
・過去の作品は壁のもの以外に残されていない為、自分の代で何かしらの形にまとめたい。この四月に一人で集計した限りでは――横2メートル・縦5メートル・高さ3メートルほどの小さな室内の、ドア・窓・黒板・ガラス戸棚・教室ロッカーを除いたすべての壁面に貼られた翻案は――全部で884曲にも上った。そこで自分たちであと116曲を加え
・いま現在茉莉の翻案は14曲。今月はどうも筆が乗らずに、まだ1曲ほどに留まっている。
・用語としては
――
――
――
――
などを用いている。
・では記念すべき偉業達成のため共に頑張ろう。(海報研部長・五峰茉莉)
「(……マジで、やめてくれ……!)」
茉莉を睨み付けたままで、千籠がなにやら自分の脇腹のあたりをさすっている。
――ううん。いいの
――無理強いなんて、したくないし
そう力無く呟く記憶の中の茉莉に薄々は罪悪感を感じていた彼だったが、その報いは意外な形で彼の日常を襲ってきた。千籠が今度はボタンの開いたシャツの首元から指をいれて、左の鎖骨の下あたりを触っている。どうにもそわそわとした様子だ。
「(……カッコつけやがって……!)」
ふと茉莉が筆を止めて何かを思い出したような表情をする。そしてゆっくり息を吸い込むと、何の気なしにため息を吐いた。
「……はぁ」
海報研の部室では彼女のこんな挙動があれ以来もうずっと繰り返されている。それこそ何度も何度も何度も、である。そんな茉莉のことをひどく危機感を持った表情で睨んでいる千籠。彼には小学校の高学年の頃から、心因性のとある
「(……
* *
夜。薄葉邸。千籠の自宅。
二階建てのごく一般的なモダンな戸建て住宅である。市街に隣接する田園地帯の端に作られた分譲地の一角、ささやかながらも芝生の庭と乗用車二台分のガレージ車庫がある。水色の国産軽自動車が停められたその脇にあるもう一台分のスペースには、千籠愛用の自転車が停められている。
夕食後だろうか、対面キッチンの向こうで洗い物をする母・さゆり。その環境音を背後に聞きながら、千籠は大型テレビに面したテーブルセットのソファーで、なにやら趣味の雑誌をチェックしている。
ふと、食器洗いと水道の音が止んだ。
「はぁ」
「ちょっお母さん!ため息!かゆいっ!」
さゆりが発した大きなため息にその身を
「……な、なにしてんのっ!?俺が『ため息』ダメなの知ってるよね!」
「あらあら、ごめんなさいね。ふふっ」
「……わざとかよ……!」
まったく悪びれる風のないさゆりの態度に、それが彼女流の会話の導入であったと悟る千籠。
「ねぇ、千籠」
妖しい笑みを浮かべるさゆり。
「……なに?」
「譲二さんから面白いメールが来たわよ」
そこまで聞くと、途端に再びさゆりに背を向ける千籠。いかにも興味なさげに、いよいよソファーに寝転んで雑誌の続きに目を通し始める。
「どうせいつものラブレターでしょ。しかもメールって」
「ねえ、聞きたい?」
「まさか。話したいんでしょ?どうぞ」
「コホン」
千籠の反応は織り込み済みといった風に、わざとらしく咳払いしたさゆり。彼女の正面、キッチンカウンターに置かれているバックスタンドを備えたタブレット型端末に触れて、その画面に表示された電子メールの文面を読み上げる。
「『相談したいことがあります。最近になって千籠がぱったり電話をくれません。もしや嫌われてしまったのではないかと心配です。さゆりさんからは、どのように見えますでしょうか。返信お待ちしております。譲二』」
「……『
思わず雑誌の綴じ目越しに突っ込む千籠。小さく吹き出すさゆり。可愛らしいオレンジのエプロンを外しリビングの壁にあるコートハンガーにかけてから、彼の近くに座った。
「お父さんのこと嫌いなの?」
一向に雑誌から目を逸らさない息子の横顔を穴が開く程に見つめるさゆり。ついに観念した千籠が起き上がると、目線は合わせないままに母の問いに答える。
「……好きも嫌いもないでしょうよ。だって家にいないんだからさ。てか、そもそも電話なんてこっちから掛けたことないからね。
そう言ってふて腐れたように立ち上がると、キッチン奥の冷蔵庫の方へ逃げる千籠。
「まぁ、「親父」ですって。そろそろ反抗期かしら」
「言ってなかったみたいだね。俺ってもう17歳なんだよ」
その手に大きなペットボトルの飲料を手にして、シンク脇の水きりトレーから手頃なコップを探る。からかうような母の言葉にも、特に過剰な反応を見せるわけでもなくやり過ごす。どうやらこの家では、母と彼の二人暮らしらしかった。
「ふふっ。じゃあ、お母さんは好き?」
胸の前で乙女のように掌を組んでみて、そんな即答には躊躇することを彼に問いかけたさゆり。
「……それって、お小遣いアップに繋がるの?」
「3秒前ー!さーん!にー」
「あっ、大好きですー」
さすがに少し照れたのか、嘘は吐かないまでもちょっといい加減な風にして叫ぶ千籠。
「あら嬉しい。じゃ、そんなお母さんから千籠にお願い」
「なあに?」
「お父さんに電話してあげて頂戴」
「うわぁ……なにこの茶番……」
堂々巡って結局それかい!とでも言いたげに、千籠がうんざりしてみせる。一方のさゆりはとても満足そうな表情をしていた。
「……そうねぇ。今度保険が満期になるから、どうすればいいか聞いておいて」
「そんなの自分で聞けばいいじゃん!」
年相応の少年らしく、ここはささやかに抵抗してみる千籠。
「わたし達にはわたし達の話題がたくさんあるから、ね?」
いまいちよく解らないさゆりの都合で返り討ちにされてしまった。こうなったら何を言っても聞かないのだと理解した様子で、話をさっさと切り上げる作戦に切り替える。
「……あーはいはい、了解。じゃあ、忘れなかったらしとくー」
「忘れるものかしら。怪しいわね」
まるでどこかの名探偵のように顎に手を宛てて、急に物分かりの良い彼を怪しむさゆり。
「……そういえばこの前のお小遣いって、来月分まであげたのよね?」
「いやっ、そんなに貰ってないから!しっかりしてよっ!」
* *
二階、千籠の自室。
パイプ作りのベッドに清潔感のある白いシーツ。その上に、電気も点けないままに千籠が大の字に横になっている。薄いレースカーテンのみ引かれた窓と、天井近くの高窓から微かに外灯と月の光が差し込んでいる。真っ白な壁紙の敷かれた天井に浮かび上がるシーリグライトの丸い輪郭を見つめ、頭の中にリフレインするそれを誤魔化す様に、何度も何度もなぞっている。
――ううん。いいの
「あーもう。どこがだよ。全然よくねーじゃんか」
――無理強いなんて、したくないし
「もはや暴力だろ。溜息ハラスメント。『タメハラ』」
部室での茉莉を思い出して、その理不尽な報復に不満を漏らす千籠。
ふと天井が白んだ。
サイレントモードにしておいたスマホの画面が点灯したらしい。その強烈なバックライトに瞳孔を慣らすこともしないままに、千籠はベッドに横たえた頭部の正面にスマホを据えた。その画面の中央には洗練されたフォントで『親父』とだけ表示されている。
右手の人差し指をそこへ持っていくまでにすこし時間を掛けて、しかしそれが画面に触れた後には迷いなく右にスワイプして通話画面をアンロックした。
「もしもし」
「……お、おお。千籠。元気か?」
およそ二か月ぶりだろうか。離れて暮らす父との久々の会話に臨む千籠。対する父・譲二は珍しく素直に受話した千籠に、喜びながらも若干動揺したようだった。
「おかげさまでね」
「……そうか。礼儀のいいことだな。さすがさゆりさんの」
「なにか用?」
「……いやーだからその、何だよ……ただ、元気かなーって……」
「ふうん」
何とか話題を拾いたい譲二の様子にも構わず、まるでノルマを消化するように淡々とその口数を重ねる千籠。 とうとう口篭もった譲二が観念したように詫びてしまう。
「……悪いな。お父さん、気の利いたこととか言えなくてな」
「悪いと思うならさ、「すぐ息子に謝るその癖」から、ホントにやめてくれって」
「……ああ、すまん……あ、いや」
気取られない程度に苛立ちながら、一切の容赦なく突き放す千籠。いささか情けなくも、懲りずに譲二が話題を変えてリベンジを試みる。
「……最近は音楽とか、どうだ?聞いてるか?またいくつか送ろうと思うんだが」
誰かに良いところを見せたいと思ったら自分の得意分野に相手を誘い込むことだろう。それが時に却って何よりも鬱陶しいアプローチとなってしまうこともあるけれど、譲二の場合それは『音楽』であった。
「いや、いいよ。もういらないって。ほんとに邪魔……」
――邪魔なんて!ひどい!
またしても脳裏に蘇る、茉莉の言葉。そのせいで二の句をすっかりと忘れて黙り込んだ彼だったが、電話の向こうの父はそんなことを知る由もなく、すでに半ばその言葉を重く受け止めようとしていた。
「……そうか……そうだよな。もうお前にはお前の」
「ねぇ、お父さん」
「……うん?」
突然、譲二の言葉を遮ってまで千籠の側から問いかけた。
「もしお母さんのお願いなら、『トマト』食べるの?」
「どうした、いきなり」
「いいから。お母さんのためなら苦手なことでもする?」
意味深な千籠の質問に少し考えるように唸ってから、どこか楽しげな雰囲気を言葉尻に乗せて答えた。
「むうん。そうだなあ。おまえが求めているところは測り兼ねるが。でも、さゆりさんはきっと、苦手なトマトを私に食べろなんて言わないだろうなあ、とは思うよ」
「……それ。反則だよ」
口ではむくれた様にそう言った千籠だったが、どこか得心したような表情を浮かべる。たしかに誰に何の強制などされてはいないけれど、それ故に困った状況に陥ってしまった現在の千籠。
「悪いな。この答えで足りるか?千籠」
「別に。大して期待してなかったし」
「そうか。なら、ちょっと考えておこうか」
さっきは「お母さんの為なら」と曖昧に問うたけれど、もし「お母さんが喜ぶなら」というより直接的な表現であれば父はどう答えたのだろうと、(追加の質問を父に投げることは癪な気がして)勝手に空想する千籠。父ならその時どうするのか。自分ならどうするのだろう。
「……食わず嫌いとか、いい歳してみっともないよね」
「うん?ちゃんと一度は食べてみたんだぞ。それにお前だって」
「ねえ」
再び譲二の言葉を遮って、若干の慎重な声色で千籠が尋ねる。
「『ポピュラー・コーラス』って、難しいの?」
「うん?『ポピュラー』?」
唐突に具体的な音楽ワードを口にした千籠に、つい色めき立つ譲二。
「最初からいきなりハモりたいとか、やっぱり舐めてるかな」
「なんだ興味あるのか!何の難しいことも悪いこともあるもんか!ひょっとして、ここらで部活にでも入るのか!?だったら父さんいくらでも」
「……そんな一辺に話されても困るよ」
一気に捲し立てる譲二をあくまで冷静に宥める千籠。
「ああ、そうか。ちょっと嬉しくなって、ついな」
「嬉しい……?」
「まあ、何もしてやれないんだが。せめて趣味ぐらいは手伝えるのかと思ってさ。はは」
「……ふーん……そういう、もんかな」
父の胸のうちなど理解しないまでも、満更でもなさそうに納得してみせる千籠。そんな彼を置き去りにまたしても譲二はひとりで盛り上がっている。
「そうか、ポピュラーか!いいなあ。おまえに送ったCDの中なら、えー。あれだ。「クーラ」があるだろう。やっぱりまずはクーランシーからだな!友人か誰かにでも誘われたのか?もし曲が決まってるなら余計なことだが教科書的というならば断然」
「ちょ、ちょっと!ねえ!」
「うんっ!?」
たまらず千籠が制止する。キョトンとする譲二。
「とりあえず最後まで聞いてくれる?」
こういうところが年頃の子供には煙たがられそうなのだけれど、当の息子の機嫌は幸いにもそこまで険しくないらしい今夜だった。
「おお、すまんすまん。……あ、いや。はははっ」
「……はは」
* *
夜半。薄葉邸の二階の廊下が何やら騒がしい。
マキシ丈ワンピースのナイトウェアを着たさゆりが千籠の部屋へと向かいながら、その手にスマホを握りしめて大騒ぎしている。今にも泣きそうな表情である。
「ちかごちかごちかごっ!」
とうとう息子の部屋の前で飛び跳ねながら騒ぐさゆり。
「今夜に限って譲二さんから電話が来ないの!こっちから掛けても通話中で繋がらないし!どうしましょう!もしかして事件か何かに…はあああっ、まさか浮気……!?」
まったく反応を返さない千籠に不満の表情を浮かべるさゆり。
「ねぇっ!ちょっと起きてよっ!千籠っ!」
既に
――ガチャ
「……上のさ、普通のコーラスのパートでいいじゃんか。どれでもいいって言ってたし……」
真っ暗な部屋の中で、真剣な表情を浮かべた息子の横顔をスマートフォンのバックライトが照らしている。その光景に、彼女はついに譲二の犯した不義の真相を知った。彼は今の今までずっと、息子とのコミュニケーションにその電話回線を占用していたのだ。
「……そうなの?でもやっぱちょっとダサくない?これほんとにカッコいいの?恥ずかしいんだけど」
千籠にはその存在を気付かれないままに、部屋の前の廊下に腰を下ろしてしばしそれに耳を傾けるさゆり。千籠は電話の向こうの相手と何やら熱心に練習していた。どちらかと云えば線が細く角の丸い男子だった彼が、今まで聞いたことが無いほどにその喉仏を酷使して唸っている。
「……はぁ!?ダサいのに「子供」とか「大人」とか関係ないよね!?お父さんのそういう所、嫌なんだよ」
息子がこんなにも低い声が出せたのだと驚いて、何時の間にやら自分が認識していたよりも一人の男性として成長を遂げていたことを知る。そしてすこし反省した。
ドアの向こうで続く秘密のレッスンは、まるで父親ライオンがその子供に、
未だたどたどしくて若干照れながらのそれは、やはりちょっとだけ滑稽で、ベテランのヴォーカル・グループならば例外なく備えている(あまりに露骨な
「……もういいや。切るね」
さゆりは、恋の季節の到来を察した。うっかり閉め忘れた何処かの窓の外では今も夜の静寂を密かに埋めて、名も知らない虫たちが鳴いている。きっと世界最古の歌はきっと
「……分かったよ。じゃあ、次のとこなんだけど。ちゃんと聞いててよ?」
どうやら年頃を迎えた息子の部屋のドアをノックする時は「2回」がいいか「3回」がいいか。そんなことを考えながらようやく腰を上げるさゆり。朝になったら、残酷にも寝不足の彼を叩き起こして学校へと送り出す人間が必要だ。物音で彼らの集中を邪魔することを、あるいは彼の自尊心を傷付けることを嫌って、開いたドアはそのままにさゆりは寝室へと戻った。
* *
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