Monochrome 『モノローグ』③


【 海外情報研究部 】


 『南廊』は静まり返っていた。多少距離はあっても、教室棟側には2年生の教室が、管理棟側には物理室があるはずなのだけれど、何か見えざるものによる嫌がらせかと思えるほどに、誰もこちらへは歩いて来ない。間の悪い位置にたった2つ程開けられた窓から入る、申し訳程度の太陽の光では、ナーバスな今の僕にとってはやや頼りなかった。

 そんな静けさのせいか、あるいは極度の緊張のせいか、目の前の部屋からは微かだが、たしかに人の気配を感じ取ることが出来た。カリカリ、カリカリと、紙に、鉛筆ではない何かのペンで、文字を書いているような音だ。

 ここにはたしかに、例の部員がいるらしい。


 木製に灰色塗りのドアには、そこに薄黒く汚れた、それでも摩耗して光沢のある銀色の丸いノブがある。入らなきゃ。ここに突っ立っていたって仕方がないんだ。呼吸を整えて、勇気を振り絞って、古びたドアをノックする。


 ――コンコン


 しかし、反応がない。もう一度叩いてみるが、どういうわけかいくら待ってみても、室内の誰かは一向に反応を示さない。まさかとは思うが、万が一を考えて、今度はマナーよろしく3回ノックしてみる。


 ――コンコンコン


 案の定というか、やはりそういう問題でもないらしく、とうとう僕の呼びかけに対して入室の許可は返ってこなかった。いったい何をしているんだろう僕は。


 それもこれも、きっと林田鞠哉というお節介な男のせいなのだ。

 彼の話していた内容から、ドア一枚挟んだ向こう側には、単に「女子生徒」がいることがほぼ確定している。そこに加えて職員室からここまでの短い道中で、すでに僕の頭の中では、彼女がきっと自分好みの美少女なのだろうというプロフィールや、僕が彼女にあまりにあっけなく一目惚れをしてしまうのだろうといったシナリオまでもが、猛スピードで書上げられてしまっていたのだ。

 今の僕は、多少なりとも気負った上に気取ってしまっている。まだ見ぬ未来の放課後メイトへ、ただ出来る限りのスマートな第一印象を与えたいが為に。


 馬鹿馬鹿しい。ドアくらい開けてやるさ。


 耳を澄ませば、いつの間にか先程までの筆記音は聞こえなくなっている。きっと室内の彼女は、なるほど音楽でも聞いているか、あるいは居眠りを始めたのかもしれない。僕はそう推理した。あれこれ考えるのは止めよう。まずはこのドアを開けてしまって、それからだ。


 力を込めて、ドアを拳で2回小突く。


「……し、失礼します!」


 すこし上ずりながらも努めて元気な声をだした。滑りの悪いノブとは対照的に立て付けの緩いドアは、思いがけない程の勢いで、若干の風圧と共に僕の側に引き寄せられた。


  *


 手前に引いたドアの先に細長い視界が開けると、廊下の日差しに比べて圧倒的な太陽光のその中に、すらっと伸びたその後ろ姿で、ひとりの少女が立っていた。


 手狭な室内に不釣り合いな大きなテーブルの向こう側、また不釣り合いな大きな窓枠の、その手前で振り向いた少女の肌は、その風に舞う黒髪とぐず濡れた瞳は、およそ理解の追い付かない速度で僕に迫って、眩しいほどに春の色を見せつけた。



――Monochromeモノローグ――



 はたして僕のは的中した。


 彼女は決して眠ってはいなかったが、どうやら、その耳にイヤホンを装着している。道理でなんどノックしても一向に返事がない訳だ。どうやらそれを待たずにドアを開けたことは正解だったらしい。

 でも一方で、僕にこの泣き顔を目撃する権利があったんだろうか。もし彼女が、単に重度の花粉症などではなかった場合、ひょっとしたらこの、まだ名前も知らない少女のプライバシーを、僕は無神経にも侵してしまったのではないか。


「…………」


 キラキラとした瞳に若干の戸惑いを含んだまま僕を見つめる彼女の手に、スマートフォンと共にしっかりと握られたタオル地のハンカチは、そのピンク色がすこし暗くなる程度には湿っているように見えた。

 地毛なのか少し黒の抜けた、それでもしっとりと光沢のある髪に隠れた左の耳から、ゆっくりとイヤホンを外す。そして首元に映える、3年生の僕には見慣れたブルーのリボンのやや下あたりで、所在無げにその手を静止させた。高級感のある艶消しの白く細いイヤホンケーブルの先に、メタリックブラックのユニットを備えたそれは、右手の女の子らしい趣味とはギャップを感じさせる。その延長は紺色のブレザーの装飾ラインに紛れながら左ポケットに潜り込んでいて、そこに専用の音楽プレーヤーがあることを示していた。

 やがて彼女は、左手ひとつで器用にケーブルを畳むと、たっぷりと時間をかけてすべてをひとつのポケットに収めた。


「えっと」


 どうする、なんて声を掛ければいい。そもそも、彼女は僕がここに来ることを知っていたのだろうか。林田の入部勧告は、その場の思い付きのようにも思えたけれど、実際のところはどうなのだろう。


「驚かせてごめん」

「…………」

「いちおう、何度かノックしたんだけど、聞こえなかったみたいだ」

「……え……ごめんなさい。気付かなかった……」

「結局はこうして入って来てるから、意味ないんだけど」


「……うん、いいよ。まさか誰か来るなんて。もうずっと一人だし……」


なにか抗議するような言い方になってしまったが、まあこんなものだろう。彼女の方も、多少卑屈な物言いに聞こえたが、どうやら常識人であるらしい。こんな寂しい場所で、何を儚んでかひとり涙を流していた割に、もう半ばけろっとしている。


「はじめまして。薄葉っていいます」

「……薄葉、くん?」

「そう。林田先生から紹介されて、その、部活のに来たんだけど。やっぱりというか、知らされてなかったみたいだ」


「見学?ここに?」

「うん。まあ、色々あって。迷惑だったかな?」

「そんなことないよっ。そっかあ」


 正確には見学ではないのだけれど、すこし様子を見たかった。よくよく考えれば彼女だって、それがいつからなのかは知らないが、この静かな部室を独り占めに、案外愉快に過ごしているのかも知れないのだから、突然押しかけてこられてもそれは迷惑かもしれない。


「そうなんだ、林田先生が……不思議。ごめんね、全然知らなかった」

「あの人も勝手だよな。まさかとは思ってたけど、要するにぜんぶその場の思い付きだったんじゃないか!」

「うん。きっとそうだよ。大変だったねっ」


 そう言って、会ったばかりの僕を労うように言った。

 自分と同い年とは思えないほど、大人びた表情をする。小学生の頃か、クラスの女の子に身長を追い抜かれたことがあったけれど、そんなことを思い出す。いったいどこでこんな技術を覚えてくるのか、機会があれば是非とも聞いてみたい。少なくとも僕の人生においては、この手のカリキュラムにはまだめぐり合っていない。


 僕はもう新しい環境に安堵してもいいのだろうか、なんて思い始めたけれど、これもまた大人びた彼女の気遣いかもしれないのだから、もう少しだけ脚は崩さずにいてみようと思った。


「じゃあ、改めまして。ようこそ薄葉くん。私と同じで3年生だね。薄葉、ナニくんかな?」


「……千籠だよ」


「うん?」

「……ちぃかーご」


「ちかご、くん? へえ、珍しいね」

「……そ、そうかな」


「うん。だって……――」


 ***今から17年ほど前。まだほんの少しだけ空気が冷たい頃、臨月を迎えたどこぞのカップルが、共に過ごす貴重な寸暇を惜しんで、どこぞのテーマパークへ出掛けたそうな。無論、身重で過激なアトラクションなど搭乗できるはずもないのだけれど、きっとそこは二人の思い出の場所だったのだろう。二人は、いまの二人が唯一楽しめる限られたその遊具に乗り込んで、問題は、夢心地のその後だった。

 天空の密室で突然苦しみ出す女と、慌てふためく役立たず。どんなに祈ってみたところで、地上への帰還は早まらない。そこから先はてんやわんやの大騒ぎである。

 タイミングが良いのか、悪いのか。折に触れては振り返るのだろうそのエピソードを、二人は産まれてきた我が子に語り聞かせた***



「――……ふふっ。女の子みたい」


「はぁ。そうだね……よく言われるよぉ……」

「あははっ!やっぱり気にしてた?ごめんごめん」


 落ち込む僕をからかう様に詫びる弾んだその声に、およそ小学校入学以来の不満を、すこしだけ名付け親を許せるような気がした。彼女から最初の笑顔を引き出すきっかけに出来たのなら、それこそどんな奇天烈な名前でも構わなかったのかも知れない。彼女の瞳に、すでに涙はないけれど、それでもさっきよりずっと輝いて見えたからだ。


「……そ、そういうあんたの方は、なんてんだい?」


「えっ?あ、そっか!じゃあ、私も自己紹介するね!はじめまして。五峰茉莉ごほうまつりです。よろしくっ」


 彼女は、きちんと僕に正対し直してから、ちょこんと会釈した。


「うわあ!変わったヘンな名前っ!どっかの『伝統行事』みたい!」

「あー!!!言ったね!ひどい!!」


 「待ってました」と言わんばかりの、人懐っこい批難の声。彼女にしても、こんな「慣れっこなお約束」を、下手に遠慮されては却って調子が狂うのだろう。

 もちろんそんな名前のなど、僕らの住む街にありはしないのだけれど、今の僕をこんなにも惹きつけてしまう彼女の名前にだって、きっととんでもない秘密や、はたはた迷惑な逸話が、たくさん詰まっているに違いないと思った。


「……ははは!冗談だよ!よろしくな、五峰」


「ふふっ。こちらこそ!でもほんとに、『千籠くん』なんて素敵な名前」


 僕のことを下の名前で『千籠』と呼ぶ人間がこの世に何人いるのだろうと、頭のなかで数えてみた。家族や親戚を除けば、両の手で余るほどしかいない。そんな選り抜きのメンバーに今日彼女が、五峰が加わることを思ったら、それが素直に嬉しくて心が躍った。


「『チカゴ』でいいよ!」


 何の気なくそんなことを口走ってしまった。


「えっ」

「……え?ああ、いやもちろん、良ければだけど……」

「う、うん」


 五峰は明らかに当惑した様子だ――


 ――ふと視線を逃がした先のテーブルの上には、数枚のルーズリーフと何かの機械、電子辞書だろうか。飾り気のないシアンブルーの布製のペンケース近くに転がった何本かのカラーペンで、なにか文章が書きこまれている。一瞥いちべつしてうまく判別が付かないことからおそらくアルファベットだろうと思われるそれに、あまり漢字を含まない平易な日本語の文章が添えられている。ただ、やたら余白が目立つ贅沢な紙面の使い方が、何かの学習というよりは詩歌しいかの雰囲気を伝えている――


 ――僕もひどく狼狽してしまった。


「……オレ的には、『薄葉くん』以外なら、まあなんでもいいかなあって……」


 ありふれた自分の姓に、実際のところなんの不都合も恨みもないのだけれど、まるでそこに何かでもあるかのように、苦し紛れにそう取り繕ってみると、彼女が小さく吹き出した。そして、ほのかに頬を紅潮させて言った。


「じゃあ、お言葉に甘えて」

「……うん?」


「来てくれてありがとう。よろしくね。千籠」


 ――って、今日は見学なんだっけ!


 彼女ともっと仲良くなりたい。だって五峰もおよそ、そんな表情をしている。もしこれが僕の勘違いなら、いっそ世界なんて滅びてしまって構わない。見学に来ただけ、なんてつまらない予防線を張ったことにすこしだけ後悔をしながら、この他愛たわいもないやりとりがずっと続けばいいと思った。

 開けっ放したドアの外からは、相変わらず何の音も聞こえてはこなかったけれど、春の爽やかな風が流れ込む大きな窓を、きっと僕だけが恨めしく思っていた。五峰と初めて交わすいくつもの言葉たちを、出来ることならこの小さな部屋に閉じ込めて、万が一にも眼下を通り過ぎる他の誰にだって聞かせたくはなかったからだ。



(Monochrome (モノローグ) おわり)


(Millionaire of Love 『君のためなら』 抜粋 Written all just for this)


©城野亜須香

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