第4話


 部屋の灯りが窓ガラスで反射しないようにカーテンを細く引き、その隙間から外を窺うと夜を圧して消し去らんばかりに煌々と灯された灯りが眼下に瞬いていた。窓際に置かれた椅子に座ってその眺めを見下ろしていると、ようやくのことで自分が故郷に帰ってきたのだという実感がわいてくる。基底世界では決してこんな景色は眺められない。基底世界は確かにいろんな世界から技術を導入してそれと同じものを作り上げることはできているが、それをこうやって、高層ビルの上層階から見渡せる範囲全てに行き渡らせるまでには至っていない。だからこそ、こういう景色はC群第十三号世界線、故郷らしい景色と言えるだろう。

 室内に目を転じると、二つあるベッドのうち片方でウィンディーネが寝息を立てていた。自分もウィンディーネも偽造の身分証の旅行だったから、夫婦ということにして取る部屋を一つで済ませたためだ。まだ資料リストは半分ほど残っている。明日一日あればリストの残りも消化できるはずだ。時計を見上げるともう真夜中をまわっていた。今日は一日中あちこち歩き回り、どんどんと荷物が膨らんでいったからそうとう疲れたのだろう。寝顔を覗き込んでみると、周りなど全く気にもしていない様にぐっすりと寝入っていた。自分が異性だと見られていないということなのかもしれない。もっとも、実のところこういう時変なことをしない人間だと信頼されている証なのだと分かっている。ウィンディーネとは自分が基底世界線で目覚めたばかりの頃から、もう十年以上の付き合いだからどういう人間かはお互いよく知っていた。自分と同じ頃に〈大書庫〉の司書に就職する前は〈天像儀台〉、一般には「世界線観測台」と呼ばれる異世界のことを観測する組織の技術者をしていたことも知っていたし、ウィンディーネは抜け目のない、たとえくたくたに疲れていても周りへの警戒に手を抜かない女性だが、信頼のおける人間の前でだけこうやって無防備さを見せることも知っていた。たとえ歯牙にかけないような相手であっても信頼がおけなければけしてこうはしないから、まあ信頼されているとみなしていいのだろう。基底世界の宿屋には「 実 家 の よ う な 安 心 感 」という宣伝文句を掲げているところがあったが、彼女にとっては今このホテルの一室はまさしくそういう気分なのだろう。

 そういえば、自分の実家もここからさほど遠くない場所にあったはずだ。東京湾の埋め立て地に開発された住宅地の一角に建つマンションの二五〇一号室。第十三号世界線に来るとき、かつての顔見知りとの接触は避けるように注意されていたが、もうこんな深夜にもなれば顔を合わせる心配もないだろう。それに、こちらの世界でも十年の時が経過しているのを考えれば、住人もだいぶ入れ替わっているはずだ。

 すっかり寝入っているウィンディーネを起こさぬよう、そっと部屋を抜け出して一階へ降りると人影のない街並みが広がっていた。ホテルのある辺りはオフィス街だからなのだろう。それに、モノレールの駅を見上げるともう終電も終ったらしく入り口にはシャッターが下ろされていた。もっとも、モノレールが動いてなくとも問題はない。家の場所は分かっている。歩いて三十分もかからない場所のはずだ。

 人気のないせいか、それとも十年という時の経過のせいか、すこし変わったような気のする街並みを眺めながら歩いてゆき、実家のマンションが建っているところへ続く角を曲がった。暗闇が出迎える。

 角の向こうにあったのは暗闇だった。少しして目が慣れると、そこには何もない荒涼とした空地が広がっているのが見えるようになってくる。海の方まで空地は続き、対岸の灯りが海面を照らしている。そしてその手前には、真っ黒な空き地が広がっていた。道の傍らにある案内板を覗き込んでみると、現在地の周りには何も書かれていない、真っ白な区画が海まで続いている。地図はずいぶんと更新されないまま放置されているらしく、他の区画にある道路の脇に添えられた開通予定の日付はおよそ十年前のものだった。つまり、目の前の空き地は十年前からずっと空き地だったのだろう。では、ここに建っていたはずのマンションは? そういえば、あのマンションの名前はなんだったろうか? 思い出せない。何も。友人の名前も、両親の名前も、いや、どんな顔だったろうか。十年でそこまで忘れてしまうものなのだろうか。足元の地面が支える力を失ったようにへたり込む。

「主任……」

 不意に、耳に馴染んだ声が飛び込んできてそちらを見ると、サンダルをつっかけたウィンディーネが立っていた。

「ねえ、ウィンディーネさん、これはどういうことだか知っているかい?」

 ウィンディーネは僕の問いかけに、びくりと体を硬くした。

「僕の実家はここにあったはずだったんだ。少なくとも、頭の中にある記憶はそうだと言っている。ねえ、ウィンディーネさん、〈大書庫〉の司書になる前は〈天像儀台〉にいたんだよね。何か、知っているんじゃないかな?」

 畳みかけるようにそう問いかけると、ウィンディーネもへたり込む。僕から目をそらすようにして、空を見上げながらウィンディーネが口を開いた。

「十年前、天像儀台ではある計画を実行していたんです。不定期かつ偶発的にしか、それも素質や能力もバラバラな状態でしか発生しない異世界転生者を人工的に生み出そう、という計画です。その計画の第一段階、プロトタイプとしてC群第十三号世界線、トウキオ地域生まれの高等学校生徒という仮想人格が組み立てられ、それに対応する人間が作り出されました」

 それが誰のことを指すかは聞くまでもなかった。

「それで、司書になれたのか」

 何もかもがどうでもよくなったような気がして、冷たい路面に寝転がる。あたりが暗いせいか、星空がよく見えた。

「いえ、計画はプロトタイプが目を覚ました直後中止されました」

 ウィンディーネの声が遠くから響いてくるように聞こえる。

「考えてみてください。異世界転生者とはいえ、一人の人間でしかありません。それに、刷りこみとして人格と共にさまざまな知識を植え付けたとしてもそれは基底世界で知られているもの以上にはなりません。それに、基底世界での分析によって生まれた、本来の姿と違うところ、そこまでも反映されています。つまり本来異世界転生者がもっている未知の知識といった要素がなく、ただ異世界の知識に少し詳しいだけの人間でしかありません。膨大なコストを投入して、すでに書物からわかっていることを知っている人間を生み出すのならば、そのコストで更なる情報の収集を行い、体系化を行う方がはるかに有用だろうと、完成してからようやくそのことに気付いたのです。計画は凍結され、その成果として生み出されたプロトタイプは生活は保障するものの、その知識と知能、技量に見合った職を選ばせることになりました」

 いつになく長々と説明を続けるウィンディーネの声を聞きながら、そういえばこの世界にも星座はあったんだろうか、という考えがぼんやりと頭に浮かんだ。ああ、そういえばそんな分野についての資料も探してこないといけないのだった。

「ウィンディーネさん」

「……はい」

「僕は、今、〈大書庫〉の司書なんだよね」

「……ええ」

「それで、持って帰らなきゃいけない資料は集め終ってない」

「そうでしたね」

「じゃあ、仕方ないか」両手で勢いを付けて起き上がる。「宿に戻ろう。明日もまだ仕事が残ってる」

「……ええ、帰りましょう」

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ある異世界の片隅で ターレットファイター @BoultonpaulP92

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