8:依頼
「こんばんは、オオノキさん。それで、大事な話とはなんでしょうか」
電光に照らされた所長室内には男とゾンビがいた。三木博士とオオノキだ。
窓の外はすでに暗く、通路に立つ電燈が映す影も少ない。
三木博士はオオノキと向かい合うように椅子に座る。 昨日の昼に松神と三木がそうしたように、応接用の机を挟んで向き合う恰好になる。
「あの、実は、この件は内密にしてほしいのですが……。今から警察署の遺体安置室に忍び込んで別府さんの脳を食べたいんです。その時に必要になる薬品について、譲っていただけないでしょうか。お昼にこちらに来たときに実験室を見たのですが、すべて揃っていましたので」
いたって平静に、そして冷淡な声で、オオノキは机の上に紙片を伏せて差し出した。
「えっと……冗談、ですよね」
突然の申し出に、三木博士は少し吹き出しながらそう尋ねた。
当然である。例えそれが遺体や血液パック等の生きた人間に危害を加えるものでなくとも、感染者がヒトの血肉を口にすることは法で禁じられている。もちろん脳もその対象だ。
刑事であろとも、いやそもそも倫理的にも許される行いではない。
しかしオオノキは声のトーンを変えない。
「いえ、本気です。三木先生はゾンビの記憶障害についてはご存知ですよね?」
「はい。記憶喪失や、記憶の混濁……まさか」
「そのまさか、です。ボクは脳を食べると、その人の記憶をそっくりそのまま見ることができるんです」
症例としての知識はある。しかし実際にそんな患者を見たことはない。
隠しきれない当惑の念が唇を揺らす。
短い沈黙と思考の後に出てきたのはシンプルな質問だった。
「それで犯人を?」
「ええ、これまでも確実に捕まえてきました。人物さえ特定できれば、物的証拠はあとから付いてきますから」
身振りで促され、机の上の紙を手に取る。そこには確かに見たことのある物ばかりが並んでいた。だが、
「しかし……この薬は」
「神経毒です。身体を仮死状態にする必要があるので。あといくつか代謝を下げ続けるものと逆に蘇生用のものも」
「……違法なのは分かっていますよね」
と、念のために問いかける。
目の前の感染者はこれから違法捜査をすると堂々と言い放った。そしてその片棒を担ぐように自分に頼みに来たのだ。
慎重に考えなければならない。三木はそう思い、口元に手を当てた。
しかしながらオオノキはあらかじめその点についても準備していたようだった。
「はい。ですからこれは、誰にも……同僚の松神達にも秘密でお願いします。ボクがここに来た理由は電話で話した通り、『昨日用意してもらったカルムジンを取りに来た』だけです。あなたはボクに薬を渡しただけ。それ以降のことは一切知らない。どうですか?」
「……」
長い沈黙の後に三木は口を開いた。
「分かりました、用意しましょう。ここで掛けてお待ちください」
時計の音以外何も聞こえない室内に、紙袋を被る人影があった。オオノキだ。
所長室内には背の低い机とそれを挟むように椅子が置かれた一角がある。主に来客の相手をする時に使うものであり、昨日の昼に松神と話をした時にも使った場所である。
オオノキはそこの椅子の片側、ちょうど部屋の出入り口を背にするような恰好で、三木博士の帰りを待っていた。
手には携帯電話。部屋のWiFiで何かを見ているようだ。画面が光っていることが分かる。
5分は過ぎただろうか。その時ゆっくりと部屋の扉が開いた。
三木博士だ。
別の階にある部屋から薬を取って戻るだけにしては少々遅い帰りだろう。しかもその手には肝心の薬品は無い。
部屋にそっと侵入した彼は、画面に目を向けたままのオオノキにじりじりと近づくと、後ろ手に腕を回す。
ゆっくりと、ベルトの背中側に差し込んだそれを引き抜く。そして―――
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