第一章 異世界 5 『基本的な生活』
「ふぁ・・・あぁ」
茶髪の、良く見慣れた少女が大きな欠伸をしながら岩壁の部屋から出てきて、水場で顔を洗っている。
バシャバシャと音を立ててまだ重い瞼に刺激を与え、自らの頬を両手で叩き、大きく目を見開いて
「よしっ」
と、気合の入った声を上げる。ヒナタだ。
彼女の後に続き、シルが出てくる。
「―――」
シルは最後に見たときと同じ顔だ。眠たそうな顔でもなければ、爽快な顔でもない。水場で顔を洗うときも静かで、最初に会ったときと同じ雰囲気を放ち続けている。
彼女はこちらに気付くが小さく会釈で挨拶を済ませるだけだった。
二人に続いて彼女らと近年代の住民、ネル、ルボン、クロトの三人が同じように顔を洗い、それぞれの間で朝の挨拶を交わし、皆が気持ちのいい朝を迎えた。―――イツキはようやく朝を迎えることができた。
イツキの朝は誰よりも早かった。いや、厳密に言えば、早いというのは間違いだ。
なぜなら彼は、結局一睡もすることができなかったからである。
目を瞑ってみたが眠りに落ちることはなく、門番をしていたガームとまた少し会話をしてみたが、これと言って暇潰しになるような興味深い話は展開されず、挙句の果てには青い光を放ち続ける月をただただ眺めることになったのだ。
「―――おはよう、イツキ君」
「おう、おはよ・・・」
こちらに気付いたヒナタが、近づいて声をかけてくる。
ニコッと笑った彼女にイツキは少し視線を逸らしながら答える。
思えばヒナタはいつもこうだった。学校に来た時も、誰よりも先にイツキに挨拶をしてくる。
普段は何気ないことであまり意識していなかったが、ここにきて何故か急に照れくさく感じた。
「包帯とらないの?」
「あぁ、シルはもういいって言ってたけどな、なんか不安で」
一応治ったと思ってはいるが、ここは異世界だ。また突然炎症が起こってもおかしくない。
そんなときのために未だ包帯をはずさずにいるが、それが本当に意味があるのかはわからないことだ。
「それよりこの服ってさ・・・ここの人のやつだよね?」
イツキは自分の穿いているズボンをつまみながら聞く。
昨日の夜は他のことが気になっていてこのことに気が向いていなかったが、皆が眠りについた後でふと気になったのだ。
ヒナタは「うん」と頷き、イツキと同じように自分の着ている衣服をつまむ。
「これがルボンちゃんに借りたやつで、イツキ君のはガイル君のやつ」
「これかなり動きやすいんだよな」
イツキは立ち上がり、膝を曲げ伸ばししてその品質の良さを確かめる。
イツキの穿いている七分丈のズボンは膝のあたりまでダボっとしていて、ポケットなどの機能は無いが、伸縮性は高い。そのうえ、秋の寒風にも負けない分厚さながら、暑苦しさも重々しさも無く、程よい温度を保っている。
ちなみにイツキの上半身は制服の下に着ていたフード付きのジャージ、いわゆるパーカーで、これも奮発して質のいいものを着ている。
制服は半焼してしまったがこのパーカーが残っていたことはありがたい。
「包帯も合わせると俺のファッションは中二病患者だな、これ」
「ふふっ、タカヒロ君みたい」
ヒナタが口を押さえながらほくそ笑んで出した名前は、同じクラスだった人物でかなり痛い人間だった。
と、それはさておき、その痛い人間のような格好をしたイツキは手を眉間に当て、それらしいポーズをしておどけてみせる。
それに応じてまたヒナタが笑ってくれる。イツキはこんな平和な時間にいつまでもいたいと思えた。
「―――にゃぁに朝っぱらからこんなところでいちゃついてるにゃ?」
「おわっ―――て、別にいちゃついちゃいねぇよ」
平和な時間は短く、いかにも猫娘らしい声と口調で後ろから声をかけられて驚く。
二人の前で片足を上げ、可愛らしく猫のポーズをとるこの少女は、ルボン・ハッツである。
彼女はその淡い青の瞳を輝かせながら、イツキを見たこともないものを見るように上から下までじろじろと眺める。
「案外鍛えてるにゃぁ・・・。カインが焦るわけだにゃ」
「そうか? 部活のメンバーの中じゃ弱い方だぞ?」
眺め続けるルボンにそう褒められるがイツキはその自覚がない。
犬族弟のカインについては何故焦るのか、よくわからないが、何をとっても平凡なイツキに焦りを覚えるということは、余程切羽詰まった状況なのだろう。
などと考えていると、ルボンが何か聞きたそうな顔をしているのに遅れて気付く。
「どったの?」
「いんやぁ、にゃんだか聞き覚えのない言葉があって・・・ぶかつ? めんばあ?」
この世界に、少なくともここにいる者は学校という教育施設を知らない。ならば部活動も知らないかもしれない。
片仮名言葉も知らないというのも大して驚きではなかった。
この世界に来てからヒナタ以外、片仮名言葉を一切使っていない。もしやとは思っていたがこの反応を見て明らかになった。
「まぁ、簡単に言うとだな、同じ目的の人が集まって、同じことをするのが部活。で、メンバーってのが集団の一員みたいな感じで受け取ってくれていい」
「ふぅん・・・。おもしろいにゃぁ、イツキ君は」
「なんで俺が!?」
「んにゃははは」
親切に教えてあげたのに馬鹿にされ、そんなやるせない気持ちを両手で大きく表現する。
ルボンはそんなイツキの反応に声を上げた笑いで応じる。
イツキは彼女におもちゃ扱いされている気分だ。
「みゃーがそう感じただけにゃ、安心していいにゃ」
「安心できる要素は無いけどね!」
「そこがまたいいにゃ・・・。にゃはは」
「よくわからねぇよ! てかもう笑うのやめて、泣くぞ」
イツキの懇願にやはりルボンは笑いを止めない。
もうこれ以上は疲れるだけだと感じたイツキは彼女に対する反応をとることを止め、ため息交じりに聞く。
「それで、何の用で来たんだ?」
「ふふっ―――あぁ、みゃーはあんたらに食事の手伝いを頼みに来たのにゃ。ヒナタはわかるにゃ?」
「笑うなて・・・。で、何すんの?」
「えぇと・・・、朝ごはんはレタスをサクッと切って焼いたソーセージと一緒にパンに挟むだけで、特に何もすることは無いよ・・・?」
「うおぉい!」
ヒナタはすっかりルボンの手のひらで踊らされているイツキに親切にかつ、申し訳なさそうに答える。
イツキを嵌めた当人であるルボンは「てへっ」と舌を出し、猫耳をぴくぴくさせながら憤慨するイツキを小馬鹿にして笑う。
イツキの彼女に対する印象はもう決まってしまった。
「人を馬鹿にするのはやめなさいと何度も言ってるでしょ」
「ふにゃあ!?」
鈍い音を立ててルボンの頭頂部が、がくん、と沈む。見ればルボンの後ろには犬の耳を待った少女が木製のトレーを持って立っている。
彼女は振り下ろしたトレーを器用に空中で回転させながら「ごめんね」と口を開き、
「これはこういうやつだから適当に相手してあげて。て・き・と・う・に」
「ひど―――にゃ! にゃ! にゃあぁ!」
彼女の言葉に騒ぎ立てるルボンはまたしてもトレーによる連打を食らう。
「慰めてにゃぁ」と言い寄るルボンの頭を撫でながら、少し困った顔をしているヒナタ。
そんな彼女らを余所に改めてイツキと向き合った犬耳は、
「もう聞いてるかもしれないけどあたしはネル。ネル・パーリーね。よろしく。で、これがルボン。イツキ、だっけ? 昨日は挨拶もなくてごめんね。あたし、夜はちょっと気が抜けてしまう癖があって・・・。あ、そう。カインも変に絡んで来るかもしれないけど、それも適当に往なしてくれていいから」
「お、おう? よくわかんねぇけどそうする・・・?」
未だにカインがイツキに何を思っているのかが不可解ではあるが、姉であるネルがそう言うのならと、とりあえず返事をする。
戸惑いを隠せないイツキだが、その戸惑いはカインのことだけでなく、ネルにも原因があった。
先ほどの言葉の中で、夜は気が抜けて、とあったことだ。
昨夜のことは目覚めてからよく覚えている。特にあの食事だ。
薄すぎる味に濃すぎる塩気。海水のスープのような食事は今でも喉が渇くほど鮮明に思い出される。
その食事を作っていた人物がこのネルなのだが、彼女はそれを気が抜けていたと言っているのだ。
いくら気が抜けていたとは言え、あそこまでの味になるものか、そう物申したかったのだが、ルボンの様子を見るとそれが憚られた。
「―――準備、できましたよ」
会話する二人の間にスッと入り込んでそう告げるのは、イツキとの朝の挨拶を会釈だけで済ませたシルだった。
気付けば広場の中央、そこにあるテーブルに、いつの間にやら並べられた食事を既に三人の子供、ハープ、カイン、パルムが囲んでいる。
それに足早に加わるルボンと彼女に半ば強引に連れて行かれるヒナタの姿も見える。
「あちゃ、もう済ませちゃったかぁ。あたしらやるからいいって言ったのに」
「いえ、三日も怠けたんですから。これくらいは―――」
「それは仕方なくでしょ? それに怠けたっていうならルボンは一週間よ」
ネルは罪滅ぼしをと考えているシルの言葉を遮り、律儀すぎる彼女に若干、説教染みた口調になる。
三日怠けた。その原因が自分にあると自覚しているイツキは、この会話に首を突っ込んで何かを言うことはできない。
申し訳なさがただただ蘇ってくるだけだった。
「―――じゃあ、ガイルいにゃいけど食べちゃお」
そう言ってルボンがパンにソーセージを挟み、ソーセージを挟み、またソーセージを挟み、ネルに叩かれ、レタスを嫌々挟み、大きく口を開けて、がぶり、と一口を食べるのをきっかけに朝の食事が始まった。
ガイルがいないのは昨晩の会食で飲みすぎたというなんとも馬鹿馬鹿しい理由だった。が
「他の大人達は何でいないんだ?」
「フィリセ様とエイド様、ホルンさんは夜以外は部屋で食べることになってて、ランドはまぁ、しばらく起きないし、ガームのは持ってってあるから大丈夫。クロトは朝食べずに畑に行ってる。基本、毎日こうよ」
イツキの疑問に答えたのはネルだ。
彼女はパンに食材を挟み、それを横で待つパルムに渡し、それから自分の食事を始める。
ここでは子供たちの姉のような役割を果たしているように見える。
「それより、あなたが今まで何をして暮らしてきたのか気になるんだけど、教えてもらえるかな?」
もぐ、と食事を進めながらそれとなく質問してくる。
イツキの素性を知ろうとしてなのかは不明だが、無意味な質問だと感じる。
だがそれに答えない理由もないので、
「えと、言って理解してもらえるかは知らないけど、俺らは学校ってとこで勉強して暮らしてた。そんだけ」
「・・・がっこう?」
「そう。勉強するための場所。まぁ聞いたことはないだろうけど」
「・・・うん、ないわね。人間は全員そのがっこうに行くの?」
「いや、この世界では、ってあれ? ひょっとしてシルから聞いてない? 俺らが―――」
「イツキさん」
と質疑応答タイムを繰り出しているとその会話に気付いたシルがまたしても間に入り込む。
彼女は静かに首を振り、何かを否定する。
それが異世界出身だということを告げてはならないという意図だということは、彼女が割り込んだタイミングから理解した。
だが、はっきりと発言してしまった今となっては、何でもないでは済まされないと悟り
「あなた達が?」
「俺らが・・・特別な力を持っていることを・・・」
特別な力、とおおざっぱな設定を持ち出した。
しかし、これは間違いや嘘などではなく、実際にイツキに起こった変化に基づいて発した言葉だ。
当然
「特別な力って何よ?」
と質問される。
これは言ってもいいのだろうかとシルを見ると彼女は頷きあっさり了承。
「それは、怪我が早く治るってこと・・・かな。学校はそれを学ぶとこ・・・てきな?」
「・・・結構いいわね」
後半は嘘であるのだが、ネルがそれに気付かず、安心するイツキ。
それとは逆に、驚いた顔になったネルは少し嫉妬の色を浮かべながら呟く。そして、
「まぁ、いいんじゃないかしら。ここには亜人しかいないし、特別な力なんて亜人にはよくある話よ」
「・・・? そう? ならいいけど」
何か勘違いをされているように感じたがそれに触れるとそれこそ、自分の出生をさらけ出す機会になり得ると思い、言及はしなかった。
「やっぱ、パンうめぇな」
手に取ったホットドッグ型のパンを豪快に食べながら、美味しさを再確認する。
そのパンの美味しさは、昨晩のスープとのギャップによる錯覚などではなく、現実のものとしてイツキの口の中に運ばれる。
その飽きることのないパンの味に満足するイツキにふいに話しかけてくる少女がいた。
「―――ねぇ、食べたらあそぼ?」
少女は鮮やかな水色の羽毛を生やした腕を後ろに組んで体を左右に揺らしながら可愛らしく笑っている。
幼気な少女はその笑顔をまっすぐイツキに向け、イエスの返事を心待ちにしていた。
少女の名前はハープ。見ての通り、腕と羽が同化した鳥人である。
「いくよー!」
「おーし! どんと来い!」
食事の後、しばしの休憩を経て今に至る。
状況は期待いっぱいのハープの笑顔に断ることができず、子供達三人とヒナタ、ルボン、ネルで鍛練場まで来ている、というところだ。
この世界についての遊びを先に体験したヒナタは語る。
「しっかりかまえて、受け止めてあげてね。・・・あと、気を付けて」
ヒナタ曰く、ここの子供たちは基本的には体を使った遊びをする。
今回もその類でやり方は簡単。走ってきたハープを受け止めてやればいい。
部屋でネットに老け込む時代で育ったイツキにはそれの何が楽しいのか理解できないが、彼女が楽しいならそれでいいのだ。
ヒナタが言う、気を付けて、とは、彼女がこの遊びに参加した時、ハープの勢いに負け、思いっきり転倒したかららしい。
そこでイツキならと思い、その遊びの相手に薦めた、ということだ。
両手を広げ、腰を少し下げ、体の軸を安定させる。
そこにハープが全力疾走―――
「え、ちょ、まっ―――へぶっ!?」
全力疾走からまさかのダイビングヘッド。
思いもしないハープの頭突きが見事に胸板に直撃し、その勢いのままイツキの体が後方へ飛ばされる。
遅れて来る心臓への衝撃と背中に感じる衝撃はイツキに死を感じさせるほどのものだった。
イツキの身体に乗る形となったハープは満足そうな笑顔をしているが、イツキはそれすらも理解が追い付かない。
「ちょっと!? 聞いてた話と違うんですが!?」
と、驚きを露わにこの死を伴いそうな遊びをさせたヒナタに問う。
しかし、当のヒナタも現状に驚きと戸惑いを見せている。となるとこれはハープの突然の思い付きかあるいは
「なぁ、そこの猫娘」
「うんにゃあ?」
疑いの目が行くのは当然、朝からイツキにちょっかいをかけてきたルボンだ。
彼女がハープに何か吹き込んだ可能性は十分にある。
「お前か? いや、お前だろ?」
「にゃぁにを言ってるのかわかんにゃいにゃぁ。みゃーはにゃにも―――」
「あれ? イツキ、嫌だった? ルボンがこうすると喜ぶっていうから・・・。ごめんね」
「い、いや、ハープは悪くないぞ。絶対に。悪いのは全部あの化け猫だ」
しらを切ろうとするルボンの言葉を遮り、ハープがしょんぼりして反省する姿勢を見せる。
それを見て少し焦りながら彼女の謝罪の意味を首を横に振り否定。
その流れで、犯人であるルボンを睨みつけようとするが、イツキがその行動に出るより先に、彼女は地面に倒れ込んでいた。
「ねぇるぅぅ、にゃにをしてくれるにゃぁはぁ・・・」
捕まり、親友にねじ伏せられているルボンはその思いのほか強烈なお仕置に悶える。
誰よりも先に事の真相に気付き、彼女に裁きの鉄槌を下したのは、今朝と同じでやはりネルであった。
「ごめん、これ連れてくから楽しんでて」
そう言ってルボンの足を掴み、容赦なく引きずって広場の方へ連れて行ってしまった。いや、連れて行ってくれた。
「大丈夫? イツキ君?」
「ん、あぁ、なんかもう痛みは無い感じ。大丈夫かな」
「ならいいけど・・・」
イツキを心配するヒナタはそう言い、くるっと振り返ってハープを見る。そして少女の顔の位置まで目線を下げ、保育士が子供を叱るときのように、「めっだよ」と言って人差し指を口の前で交差させてる。何ともまぁ、古めかしい注意の仕方だが、それもまた微笑ましい。
反省し落ち込んだ様子のハープを見て
「よしっ、じゃあ他の安全な遊びを考えよう! そだ! 海とかどうかな?」
すると、ハープはその言葉にぱあっと表情を明るくし
「じゃあじゃあ、飛び込みしよ! ハープね、高いとこ好きなの!」
「おー、いいね! それしようそれ!」
ヒナタがまたそれに明るく反応し、その場の空気は何とか明るみへ回復。
二人は盛り上がった雰囲気のままパルムとカインを連れ門前に広がる海へ直行した。
早すぎる展開に唖然としていたイツキだが、ふと我に返ると楽しそうに歩いていく四人の姿。
そんな理想の景色を作り出したヒナタの活躍に思わず感嘆の笑みが零れてしまうのだ。
そんな幸せな時間は流れるのが速い。あっという間に昼食の時間に至る。
「イツキさん、もうお昼です。ご飯にしましょう」
時間の経過をシルが知らせる。
皆が楽しんでいるのを桟橋から眺めていたイツキは、もうそんな時間かと少し驚く。
そして、桟橋に上っては飛び込み、上っては飛び込みを繰り返していたヒナタと子供たちに声をかけ、広場へ戻るよう指示する。
若干一名、イツキに舌打ちをする少年がいたりもしたが、あえて無視することにしよう。
「おう、おめぇら遅ぇよ。焦げるぞ、コラ」
「―――ぶっ」
イツキとびしょびしょの四人を乱暴な口調で迎えるのは、昨晩、酔いつぶれ、恐らくたったさっき復帰したのだろう人物、ガイルだった。
半裸の彼はその顔に似合わった姿で、その姿に似合わないフライパンを、右手に二つ、左手に二つ、計四つ持つ。
その姿に思わず吹き出してしまった。
よく考えればガイルはこれまでイツキの予想を、まるで狙っているかのようにことごとくひっくり返してきているのだ。常に酔っているのではないかと錯覚するほどに。
そのフライパンを皿に向けて振り、出来上がった野菜炒め風の食べ物を皿の大きさに見合った量だけ投げ出す。
その均等に分けられた食事をそこにいたネルが配膳する。
ここでもやはり、ルボンが仕事をしている姿は見ることができない。
とんだ怠け猫だ、などと考えていると、ふと視界に入ったある者に意識が向く。
「怠け猫が縛り猫になってら・・・」
目に映ったのは地面に刺された杭にがんじがらめで括りつけられたルボンだった。
悪戯者には制裁をとは思っていたが、口も縛られて声すら発することができずに、しかもその場のイツキ以外の全員が彼女の存在に気付いていない、となるとさすがに同情する。
もがき苦しんでいるルボンに近づくと彼女はそれに気付いて耳をぴんと伸ばし期待の視線を送ってくる。
その目線に対し、睨みを利かせながらも仕方なく、その口封じに捲かれていたロープを解いてやる。
「これに懲りたらもう変なことすんなよ」
「まじで、助かったにゃ・・・。もうしにゃい、しにゃい・・・」
「どうせまたやるんだろうけどな―――て、あれ? おとなしい!?」
またすぐに茶化してくるのだろうと予想し、一度は解いたロープを構えていたが、ルボンは予想を裏切り、本当に反省している様子だ。
「ふふ、猫は、気まぐ、れにゃの、にゃ・・・」
「死にそうな声で言われても説得力ねぇよ?」
「う、うぅ、本気で死ぬかと思ったわ・・・」
「おい、口調が素になってるぞ?」
残りのロープを解きながら、語尾に「にゃ」をつけない素のルボンをなだめようとするが、彼女は力無く膝を折り、うなだれる。いや、うにゃだれる。
「ネルめぇ、許すまじ! ・・・にゃぁ」
「全部お前のせいだけどね。あともう、にゃぁ、ってつけても遅いから」
「ネェルゥゥゥ!!! 覚悟ぉぉぉ!!!」
「もうおかまいなしだな」
結果は見えている。どうせまたねじ伏せられて痛い目を見るだけだ。
イツキの頭はルボンの行く末を想像するだけで憐れみさえ覚えてしまう。が、その憐れみを受けるはずだった猫はまたしてもイツキの予想を裏切る。
その裏切りは違う憐れみをイツキに覚えさせた。
猫はネルに向かって一直線、ただネルを見つめて、ネルだけを視界に入れて。
当然、猫とネルの間にある不動のテーブルなど視界に入ってはいない。
猫は見えぬテーブルを避けることなく走り、テーブルと激突。
「―――にゃ!?」
思いもよらない激突に困惑の色を浮かべ、辺りを見回す。
誰かが仕掛けた罠なのか。それともネルには実はすごい能力が・・・。まさか、このテーブルは生きている!?
とでも考えているような仕草をその場で演者一人。
イツキは見てはいけないような気がしてならなかった。
それは、彼女が本当に演者ならばよかったのだが、明らかに本物の間抜けと言うやつだからだ。
「ほんとよくやるよ。今日だけでお前のことほとんどわかったかも」
「それはよかったにゃ。まぁ、みゃーは誰にでも心を許せる優しい美猫だからにゃ」
「最後自分で言うとこ、嫌いじゃないぜ?」
「当然にゃ」
実際、ルボンはただのバカ猫ではなく、確かに美猫とは言えるほどの容姿だ。だが、その彼女の良さを消しているのも彼女自身である。
そしてそれが彼女の頭の悪さから来ているものだから、結果として彼女はバカ猫、なのだ。
気付く。
先ほどの激突で大きな振動を与えられたテーブルにはひっくり返って料理をぶちまけた皿が。その周りに集まっていたネル、ヒナタ、ハープ、カイン、パルムには驚きと「何事か」という表情が。料理を作ったガイルには怒りの表情が。その場に居合わせたシルも表情に変化こそなかったが、動きを止めている。
当然彼らの視線はルボンのもとに。
「オラ、クソ猫。どういうつもりだ、コラ」
「ちょっと待つにゃ! これには海より深いわけが・・・。いや、ホントにごめんにゃさい・・・」
静かに歩み寄るガイルになんとか誤魔化そうと試みたようだが、彼の覇気に気圧され正直になる。
しばらくの間、彼はルボンを睨み続けていたが、怯える彼女に舌打ちをしてその場を去ってしまう。
「・・・責任取ってよね」
「はい」
ガイルほどではないが、怒りを露わにするネルがルボンに迫り、ルボンがそれに素直に応じる。
場の雰囲気が悪くなり、重い空気が流れるのを戻そうとするのは、やはりヒナタだった。
彼女はルボンに、
「わ、私も、手伝うよ」
「ヒナタぁ・・・! ごめんにゃぁぁ!」
「だ、大丈夫だよ!」
泣きつくルボンを動揺しながらも優しく頭を撫で、慰めようとする。
ヒナタとルボンのやり取りと、その後ろで誰に言われるでもなく、すでに料理を作り始めているシルを見て、ネルも怒りを鎮め、
「しょうがないわね・・・。もうしないでよ」
と肩をすくめて言いながら三人に加勢しようとする。
が、このネルの行動はイツキにとっては不要、いや、はっきり言って、してはならない行動だ。
よって、
「いや、ちょ、ちょっと待って! ネルはやらなくてもいいと思うぞ。悪いのはそこの猫なんだし」
「・・・? まぁ、やられた本人が言うなら、罰としてそうするけど・・・」
ネルは疑問の色を浮かべたがイツキの言葉を必要なものとして受け止める。が、その考えは間違いだ。
イツキがネルを止めたのはルボンに罰を与える為ではない。もとより、ルボンをそこまで攻める必要はないと考えている。罰を与えるなら、もうそれを彼女は受けているからだ。
イツキがネルを止めたのは、ヒナタとこの世界の住人にとって何の変哲の無いものかもしれないが、ネルの料理はイツキには毒のようなものだからである。
「ガイルは大丈夫なんだろうか・・・」
「心配ないですよ。どうせお腹が空けば色々と忘れて出てきますから」
怒りにこの場を離れた少年を心配するが、その少年の幼馴染のシルがそう言うのであれば、と流す。
未だに言葉を交わしてないがためにガイルと言う人物の印象が見た目だけで判断される。
イツキもそんなことは避けたいと思っているわけだが、なかなか会話のチャンスが無いのを悔しく思う。
三人の挽回で食事が始まるのに、そう時間はかからなかった。
その頃には遅ようの挨拶を交わせるランドと朝から畑仕事に熱中していたクロトが合流していた。
クロトの畑は鍛練場までの道のりで目にすることができる。
食事に出てくる野菜類はほとんどここの住人の貴重な食料として彼の畑で育てられているらしい。
だからこそ、彼は食べ物を粗末にする行為を決して許さず、ルボンの起こした行動を耳にしてお怒りのご様子だった。
だが、鬼族だけに鬼のような罰を与える、なんてことはしない。クロトはイツキ達と年齢は近い方だが、それでも五年近くは離れている。
言ってみればこの年代層の中では兄貴分にあたる。
そんな彼は弟、妹的な存在を大切に思っているし、だからこそただ怒るのではなく、きちんと何が悪かったかを個人に考えさせ、成長のチャンスを与えるのだ。
その優しさをイツキも感じることがあった。
鍛練場から海へ移動するときのこと、イツキは畑にいたクロトに声をかけて手伝うと言ったのだが、クロトはイツキの怪我を案じてその提案を拒否。
イツキとしては怪我は一応治っていたものだから、心配ないと言ったのだが、クロトは、それなら子供たちと一緒にいてやってほしい、と言ったのだ。
それはイツキが邪魔なだけであったのかもしれないが、少なくともイツキへの心配と子供たちへの思いやりは本物であると断言できる。
「―――みゃーたちの努力の結晶、とくと味わうがいいにゃ!」
すっかり気持ちを切り替え、いつもの調子に戻ったルボンの声がその場にいた九人へ向けて発せられた。
シルは真顔で、ヒナタは苦笑し、ネルは嘆息し、ランドは疑問を露わにしながら、自慢げなルボンを見ていた。
子供達は彼女の声を聞かずに話し込んでいるため、その場で彼女の声をまじめに受け止めたのはクロト一人だけだったが、無い胸を張り続けるルボンはそのことに気付いていない。
イツキもそんな彼女をどんな目線を送るべきか判断できず、ただぼんやり眺めることしかできなかった。
「―――あ、何これ、おいし・・・」
最初に料理を口にしたネルが虚を突かれたような声を漏らす。
それを聞いてルボンとヒナタは小さくガッツポーズ。満面の笑みを浮かべて皆の感想を待っている。
イツキも気になり、まず一口。
「お? ほんとだ。美味い・・・」
予想をはるかに超えていた。と言うのは少し違うが、しかし、イツキの考えていた結果とはならなかった。
ヒナタとシルには悪いがこの料理は失敗に終わるだろうと想像していた。
それはルボンが調理中に、配膳時に、何らかのことをやらかして、あるいはその料理そのものが失敗作であったり。
とにもかくにも、イツキはその失敗したルボンを仕返しがてら謗ろうと考えていたのだ。
しかし、調理中にも配膳中にもルボンは何事も起こさず、しかも料理は美味である。
それはヒナタやシルのおかげとも言える状況かもしれないが、そこにルボンが入るとなると結果は大きく違ってくるはずだった。
「いつも怠けてるから料理できないって思ってたけど、意外とやるわね。今日の夜もお願いしたいくらいだわ」
「今日は特別に任されてもいいにゃ。みゃーは才能人だからにゃ」
ネルに持ち上げられ、上機嫌のルボンが鼻高々に自慢して自らを称賛する。
そんな二人の会話に参加せずとも賛成するイツキ。ネルの料理に物申したい彼は、これからもそうであって欲しいと哀願せずにはいられなかった。
「才能人、ね」
イツキが無意識にそう呟いたのは誰も気付かなかった。
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