第576話 マクロファージ

 士郎たちオメガチームと、同行している帝国兵たちに見えている光景が、異なっている――!?


 ある斥候兵の何気ない一言でようやくそのことに気付いた士郎は、愕然として周囲を見回した。

 だがどうしてもそこは、まるで人の胎内のようにしか見えない。とはいえ、冷静に考えればそんなこと、未来みくの言う通りあり得るわけなかった。


 もしかして……薬物か何かで幻影を見させられているのか!?

 だが、だとしたらなぜ、帝国兵たちにはそれが通じていないのだ。彼らはここを、だと認識している。先ほどの斥候兵はそれを「敵航空要塞の内部」と表現した。

 そういえば……後から追いかけてきてくれたあの帝国軍将校も、士郎が最初この場所のことを「人間の腹の中みたいな気味の悪い場所だ」と評した時、怪訝そうな顔をしていたことを思い出す。

 あの時はお互い軽く受け流したが、今考えればあの将校には、どう見てもここがそんな風には見えていなかったのだろう。それであんな困ったような顔をされたのだ。


「――士郎さん……」


 くるみが声をかけてきた。


「すみません、未来ちゃんと喋ってる中身、聞いちゃいました」

「あ、あぁ……別にくるみになら聞かれても構わないが……」

「確かに私にも、ここは人間のお腹の中のように見えます。でも帝国兵の皆さんにはそれが見えないってことは――」

「まぁ、普通に考えれば、俺たちにはなくて彼らにはある、何らかの抗体のようなものが存在していると見るべきだな……」

「えぇ、だとしたら、それってもしかしたら『ヒロポン』の常用じゃないでしょうか!?」


 ――!?

 『ヒロポン』とはなんだ……?


 その時、未来が弾かれたように士郎を見つめた。


「そっか! 私その話、本で読んだことがあるよ?」


 未来は数十年間の山籠もり生活のお陰で、常人とは桁違いに書物を読んでいる。意外に本の虫なのだ。


「どういうことだ!?」

「――昔、日本ではんです」

「は? 覚醒剤が!?」


 覚醒剤と言えば、最凶最悪のドラッグのひとつで、もちろん非合法の薬物だ。それが合法だった?


「えぇ、もともと覚醒剤というのは、日本で発明された薬物なんです。基本的には滋養強壮薬として主に軍人が使用し、戦後しばらくは、民間にも普通に流通していたと聞いています」

「そうなのか!?」


 確かに、世界の違法薬物の流通量でいえば、一番多いのが大麻――いわゆるマリファナで、これは合法化されている国もあるくらい一般的なものだ。

 次いでコカインやヘロインなど。

 麻薬大国アメリカでは、特にこのコカイン――通称コークとして親しまれている――が一般的で、米国で流通する麻薬の主たる供給地であるメキシコ、ブラジルなど中南米、それから東南アジアの通称『ゴールデントライアングル』と呼ばれる一帯で生産されているのは、大抵これらコーク、それからヘロインだ。


 ではなぜ日本だけ『覚醒剤』が主流なのかと言えば、それはさっきも言った通り。もともと日本で発明された麻薬で、生産、流通、消費の土台が歴史的にすべて整っていたからだ。


 そもそも覚醒剤というくらいだから、それは疲れを知らない、眠気も起きないということを売りにした、いわば「疲労回復薬」だ。

 どういうことかというと、夜通し見張りをしなければならない歩哨などが、一晩中ギンギンで監視ができるようにするとか、それから覚醒剤には多幸感というか万能感があり、要するに恐怖を和らげる効果が抜群であるから、戦意高揚薬として主に前線の兵士が常備薬として愛用していたのである。

 その名は『ヒロポン』――

 主に、中国大陸や台湾など、日本の統治下にある地域で終戦まで大量生産されていた。


 ところが太平洋戦争で日本が負けると、一気に兵士たちに対する需要がなくなってしまい、販売の胴元となっていた民間企業がダブついた在庫の処分に困ったのである。

 そこで戦後の復興のため、寝る間を惜しんで働くようになった日本の民間人に向けて、今度は一般に広く売り出したというのが一連の顛末だ。

 だから20世紀後半しばらくまで、具体的には高度成長期くらいまでなら、一般家庭にもこの『ヒロポン』がタンスの片隅にあったりしたものだ。


 ちなみに「覚せい剤取締法」という法律が施行されたのは昭和26年――つまり1951年だ。厳格な統制下にあった軍人が使用していた時と異なり、民間に流通してしまった結果、使用者が覚醒剤の副作用の部分に飲み込まれ、今の薬物常習者と同じように理性の効かない、ただの廃人と化すことが多発して社会問題化したからだ。

 ただ、中国や台湾、北朝鮮など、日本が戦時中に覚醒剤を広く生産していた拠点では、その後もずっと生産機能が破棄されず、やがてマフィアなどがそれらを広く支配管理し運用するようになって今に至っている。

 

 要するに、この覚醒剤という薬物は、確かに一時期まで、合法的ないわば強壮剤として用いられていたというのが歴史的な事実であり、そして――


 今目の前にいる帝国兵たちが、そのヒロポンを常用している可能性は、かなり高い――というわけだ。


「――えと……兵長!」


 士郎は、傍にいた帝国軍の兵士を一人、呼び止めた。


「――つかぬことを訊くが……君はヒロポンを知っているか?」

「え? ヒロポン? えぇ……錠剤そのものではありませんが、我々の出動食にはヒロポン成分が入っていると聞いたことがあります。何せ疲労が吹き飛びますからね。それが何か……」

「いや、いいんだ」


 士郎たちは、お互いの目を見合わせる。やはりそうか……帝国兵たちは、ヒロポンのお陰で幻覚症状に対し、耐性があったのだ。


「――ちなみに当時の帝国軍の出動食を開発したのは、東大だと聞いています」

「へぇ……」


 つまりは、当時はそれが当たり前だったのだ。社会の常識は時代によって変わる。李軍リージュンの悪だくみが帝国兵たちに通用しなかったのは、奴が当時の社会常識を知らなかったからに他ならない。


「――それで……じゃあカラクリが分かったところで、俺たちはどうすればいい? 結局李軍はメタンフェタミンか何かの覚醒剤成分をこの空間に撒布していたってことだろう。帝国兵たちは普段ヒロポンを常用しているから、その程度じゃビクとも効かなかったってオチだが、現に俺たちはそのせいで幻覚を見続けている。そうと分かればまだ気持ちは楽だが、やはり対象の正確な視覚情報を捉えられないのはいかにも不便だ」

「えぇ……実際、視覚だけじゃなくて、触覚や平衡感覚すらおかしくなっていますからね……」


 そうなのだ。これを見破るまで、士郎たちは本当にここが人間の胎内だと信じていたくらい、その感覚にはリアリティがある。夢うつつ――というレベルの幻覚ではないのだ。


「――とりあえず、オピオイド系の医療用麻薬を服用しておきますか?」

「と言っても、モルヒネくらいしかないぞ? というか、俺たち常用者じゃないから今さら――」

「じゃあドーパミンの分泌抑制のほうがいいでしょうか? ならばミノサイクリンの機能でサイトカイン抑制を発生させれば――」

「それだと細胞のアポトーシスが阻害されて――」


 アポトーシスだと――!?


 士郎は、未来とくるみの会話の中に、聞き捨てならない単語を聞き分ける。

 まただ……

 また、がここでもループしている――


 士郎は愕然とする。


 “管理された細胞死アポトーシス”――

 それはかつて、一度目の生を士郎たちが必死で生き抜いている最中、李軍との戦いの中で出てきた現象だ。オタマジャクシの尻尾がやがて成体になるにつれて消滅していくように、生物の細胞には、よりよく生きるために不要な細胞を殺す仕組み――アポトーシスという機能が存在する。


 かつて士郎は、李軍に取り込まれそうになった未来を助けるため、彼女が発動した逆進効果リバースドライブによる自殺遺伝子の活性化――すなわちアポトーシスをすべて引き受けたことがある。

 その結果、士郎の腕や脚はボロボロと欠損し、生きながらにして人体が欠けていくという恐ろしい現象に見舞われたのだ。それは本来、アポトーシスなど引き起こすはずもない部位で引き起こされた、恐るべき現象だ。

 士郎は、無意識にぶるっと身体を震わせる。またもや、運命の自動修復機能が襲い掛かってきたというのか――!?


「――えと、士郎くん……大丈夫!?」

「あ、あぁ……」


 心配した未来が、士郎の腕にそっと手を触れた、その時だった。


「――少佐……石動いするぎ少佐ッ!?」


 唐突に耳元で声が聞こえる。ハッとして我に返ると、先ほどの若い斥候兵がすぐ傍で気をつけの姿勢を取っていた。


「――少佐殿! 斥候してまいりました」


 そうか――こちらがあれこれと悩んでいるうちに、帝国兵たちはとっとと前へ進んでいたのだ。


「あの梯子の先、上層階はさらに上に通じているようです。進出経路としては適切かと思料いたします」

「よろしい」


 茫然としている士郎を察し、副官の久遠がとりあえず斥候の報告を受領する。気が付くと彼女は、上から野戦コートをふわりと着こんでいた。まぁ、膝から下は素足なのだが、ギリギリ女性将校として違和感ないレベルだ。靴を履いていないことを敢えて無視すればの話だが……


「――士郎、私も賛成だ。というか、こうなったらやはり進むしかないぞ!?」


 そうだ――

 悩んでいても仕方がない。人間の胎内に見えるなら見えるで、割り切るしかない。少なくとも帝国兵たちは、ここが何らかの敵施設内だと思って行動しているのだ。ここはひとつ、彼らを頼りにしようじゃないか……


「……よし、では前進だ。敵の心臓部へ、何としても辿り着く!」

「はッ――」


 帝国兵たちは、自分たちの隊長が戦死したことで、さらに決意を固めていた。今なら、どんな困難にも厭わず立ち向かってくれそうだった。

 その意気やよし――既に20名ほどに削られていた帝国兵たちの集団は、各10人ほどの二個分隊に分かれ、相前後して前方の階段に取りついた。

 もちろん士郎たちオメガチームには、何か巨大な分泌液の管にしか見えない部分だ。彼らは次々にその管の中に頭を突っ込んでいく。そのまま上の方に次々吸い込まれていく姿は、それが幻影だと知らなければ、なぜそれほどスイスイと上の方へよじ登っていけるのか、まったく分からなかっただろう。

 実際は階段――というかラッタルをよじ登っているだけなのだ。


 バンバンッ――

 バンッ! ババババンッ――!!!


 激しい銃撃音が聞こえてきたのはその時だ。


「――なんだッ!?」

「上の方だ! 私が見てこよう!」


 そう言うと、久遠がさっと姿を掻き消す。先行した帝国兵たちが、何らかの銃撃戦に巻き込まれているのは間違いなかった。


 久遠の後を追うように、オメガたちはその生体管の入口付近に集結した。奥を見上げると、その壁面は相変わらず爛れたような肉襞にしか見えない。例えるなら、それは動脈硬化を起こしたボロボロの血管の内壁のようだ。


 すると、唐突にその奥から久遠の声が聞こえる。


「――士郎、マズいぞ……ここを上がり切ったところで何かアメーバ状の半固形体……というかスライムみたいなものが一斉に帝国兵たちに襲い掛かってる!」

「何だと!?」


 恐らくそれだって、本当のところは別のものなのだろう。だが、士郎と同じく幻惑されている久遠には、それがスライムのように見えているのだ――


「士郎くん!?」

「あぁ、取り敢えずこの血管みたいな管を伝って、上に行くんだ!」


  ***


 それを見た瞬間、士郎は愕然とする。

 目の前に迫ってきたのはまごうことなく――


「――これは……マクロファージ……!?」


 それは確かに、久遠が言ったようにアメーバ状の物体だった。ただ、スライムというには少しゴツゴツし過ぎ……というか、むしろその全身から触手のように無数の繊毛が四方八方に伸びている。それは、タコやイカの足というよりもっとこう――そう……例えるなら、イソギンチャクの触手と言った方がより正確だ。

 それはふわふわゆらゆら揺れていて、そして時に長く伸びたかと思うと、きゅっと短くしぼみ込む。


 士郎はそれを見た瞬間、なぜだか確信したのだ。

 マクロファージ――

 白血球の一種で、生体内をアメーバ状に遊走する食細胞。体内に侵入した細菌や癌化した変性物質を捕食消化し、別名「清掃屋」の異名を持つ。要するに、生体免疫機能の根源のような存在なのだ。


 それらが兵士たちを襲っているということは――

 それはつまり、我々は紛れもなくこのデス・スターの侵入者であり、排除すべき対象とみなされているということだ。


 帝国兵たちは、そのマクロファージに向けて必死で小銃を撃っている。ただし、彼らの銃は装弾数僅か五発――どうしてもその弾幕の薄さは否めない。

 押され気味の帝国兵たちを見て、血管を昇ってきたオメガたちは勢いよく飛び出した。


 ザシュッ――!

 ガッ――チィィィンッ!!!


 オメガたちは帝国兵たちの銃撃をかいくぐり、着実にマクロファージを圧倒していく。

 時折、金属と金属がぶつかり合う音が響くから、実際のところこれらは何らかの戦闘デバイスなのであろう。だが、士郎の目には、それは何か魔法のダンジョンに迷い込んだ冒険者たちが、モンスターを次々に血祭りにあげているかのような、そんな不思議な光景にも見えていた。


 その時だ――

 モンスターの集団が、いきなり未来に飛び掛かったのである。


 それはあまりにも唐突だった。それまで順調にマクロファージを排除していた未来が、突如100匹近いモンスターに飛び掛かられて、あっという間に埋もれたのである――!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る