第542話 プロバビリティ

「――李軍リージュン……久しぶりだな……」


 秀英シゥインは、およそ半年ぶりに出会う李軍を、厳しい顔で睨みつけた。その変わり果てた容貌に、思わず息を呑む。

 いっぽう李軍は、元のあるじと視線を合わせないようにしているのが見え見えだった。そのばつの悪そうな表情は、まるで悪事がばれた子供のようだ。


「……いたとは……」

「ん? 何だって?」


 李軍が何かをボソッと呟いた。それを聞き逃さなかった秀英が、すかさず問い質す。すると、彼は意を決したようにその顔を上げた。


「――まさか、生きていたとは……と申し上げました……」


 李軍は、一瞬だけ秀英の方を睨みつけたが、目が合うと気圧けおされるように慌ててまた視線を逸らした。


「……あぁ、生きていたさ。幸い、貴様にくびり殺される前に、我が誇り高き華龍ファロンの兵士たちが駆け付けてくれたからな……」


 そう――失脚した挙句逮捕監禁され、北京親衛隊に酷い拷問を受けていた秀英は、ハルビン攻防戦のさなか、決起した腹心の部下たちと、そんな彼らと行動を共にしていた当時の未来みくに、すんでのところで助けられたのである。

 もちろん、その拷問を主導していたのは、他ならぬ李軍である。ハルビン戦の最終局面は、大混乱の極致であった。士郎率いる日本軍が、怒涛の如く華龍基地内に雪崩れ込んで大激戦が繰り広げられたからだ。だから結局、最後誰がどうなったのかは極めて曖昧だったのだ。


 秀英がミーシャを潜入工作員として、そのまま大陸に残置したのもそれが理由だ。行方の知れない裏切り者・李軍の安否を確認し、存命なら確実に仕留める――

 そのミーシャが、主に北京派残党の不満分子の動向を探っていたのも、すべては李軍の消息を掴むためだ。奴が復権を狙っているのであれば、必ずやそういう連中と接触するだろうと踏んだからだ。


 結果的に、李軍が接触したのは別の世界の中国軍だったから、ずいぶんとその発見に手間取りはしたが、日本軍に合流した秀英サイドは、今回の異世界中国軍の『現世うつしよ』侵攻が、李軍の手引きによるものであることを比較的早い段階で掴んでいた。

 翻って李軍サイドは、まさか秀英がその命を取り留め、日本軍と肩を並べていたなど、知るよしもなかっただろう。今回の再会で、彼に心の準備ができていなかったのも無理はない。


「しかし……日本軍に鞍替えしていたとは……私でさえ真似できない変わり身の早さですな……」

「それは、皮肉を言っているのかね!?」

「え……あ……いいえ……ただ、意外だったものですから……」


 まぁ、大陸一の猛将、中華民族の英雄として名を馳せていたあのヂャン秀英シゥインが、よりにもよって長年の宿敵、日本軍の将軍に宗旨替えしていたなど、事情を知らない大半の人民には、到底信じられないだろう。


「――私のことはどうでもいい」


 秀英はピシャリと言い放った。どうであれ、今自分は日本に忠誠を誓う兵士で、そして今目の前にいるこの男は、今次戦役の首謀者にして第一級の重罪人なのだ。秀英には、この男を逮捕する責務がある。


「李軍……積もる話もあるだろうが、今や貴様は、自らの意思で日本軍に投降したと聞く。かくなるうえは、おとなしく連行されるべし。……いいな」


 秀英の言葉に、李軍の表情はピクリとも動かなかった。無表情なのは、内心必死で動揺を抑えようとしているためなのだろうか――

 その李軍がおもむろに口を開く。


「閣下――私が閣下を裏切った理由を……聞かないのですか……?」

「言いたいのか!?」


 秀英は、あくまで主導権はこちらにあるのだということを、終始李軍に分からせようとしているかのようだった。

 どうしても話したいのなら聞いてやる、という態度だ。


「い……いえ……いや、そうですね……別に言い訳したいわけではないのですが……」


 そう言って、李軍は視線を下に落とした。その視線を追っていた秀英は、彼の下半身が既に人間のものではなくなっていることに、あらためて興味を抱く。いや――興味というか、これはむしろ……哀れみだ。


「――そうだな……少しだけなら……聞いてやってもいいぞ」


 それは、せめてもの情けだった。こんな男でも、かつては自分の部下だったのだ。


「――そうですか……いえ……ありがとうございます」


 李軍は、僅かに顔を上げた。一瞬のち、大きく深呼吸する。そして、あらためて秀英の顔を真っ直ぐ睨みつけた。


「――閣下……私はね……ただ自由に研究を進めたかっただけなんですよ」

「……研究とは……あの、おぞましい人体実験のことか?」


 秀英の顔が険しく歪む。彼の妹、詩雨シーユーは、他でもない――この李軍に酷い人体実験を繰り返されていたのだ。だから秀英にとって、李軍の所業は到底許されるものではない。


「人体実験……まぁ、そう言われたらそれまでですが、あれはあくまで医学的にはと言っていただきたいですな」

「言葉遊びなどどうでもいい――」

「いえ! でもあれらの臨床試験は、限りない可能性を秘めていたものでした。我々人類が、飛躍的に進化する、大いなる可能性です。でも閣下は、それを厳しく戒められた……」

「当たり前だ! そもそも健康体の人間に、実験目的でメスを入れることなど、世界中どこだって許されるものではない」

「ですが! ですが我が偉大なる祖国は、中米戦争前それを容認していた。そうすることで、一時は世界をリードするまでになったのです。それが今や……私はこの国難に際し、なんとか祖国の優位を取り戻したかった! そうしてこそ、我が中華民族は、世界のリーダーになれる! そのための実験――いや、臨床試験だったのです」

「つまり――つまりお前は、それを認めようとしない私を疎ましく思ったと……そういうことでいいのか!?」

「まぁ……ありていに言えばそうなりますかね……」

「ふん――実にくだらん。それで北京派と気脈を通じ、邪魔になった私の追い落としを謀ったというわけか。その結果がどうだ!? 貴様自身ももはや化け物ではないか!? こうなることが、貴様の望みだったとでもいうつもりか!?」


 李軍は、久々に頭ごなしに叱られたのだろう。そのこめかみに、青筋を立ててフルフルしている。まぁ、ここ暫くは、100万の軍勢を率いる異世界中国軍の将軍たちにさえ、「先生」呼ばわりされていたのだ。まさに、王様か皇帝にでもなったような気分だったに違いない。


 だが、秀英にとって李軍は、今でもただの部下だ。その圧倒的力関係は、敵味方に分かれた今でも、心理的に李軍を圧迫しているようだった。ただし――


 先ほどからその様子を横で黙って見ていた士郎は、ハラハラしながら事の成り行きを見守っていた。また李軍が逆上して心変わりするのではないかと、心配しているのだ。

 もちろん、オメガたちも同様だ。


 すると、そんな気まずい雰囲気になりつつあることを、秀英も李軍も察したのだろうか。ふっ――とその場の空気が一瞬にして和らぐ。


「――ま、いずれにせよ、今何を言っても詮無いことだ。もはや貴様には抗う術もなかろう。このまま私と一緒に、ついてこい」


 秀英が、極めて事務的に李軍に申し渡す。そうだ――彼はこの後、日本軍司令部に連行され、厳しい取り調べを受けるのだ。もちろん礼節は尽くすし、公平な取り扱いは保証する。だが、正当な手続きの結果、どのような結末になるかまでは、士郎も約束したわけではない。


「……分かりました……それで、こちらのオメガの皆さんは、私の監視役というところでしょうか?」


 李軍は、目の前のオメガたちをぐるりと見渡した。彼女たちも、あらためて李軍と間近に向き合うと、いろいろと思うところがあるのだろう。少し――というか、かなり複雑な表情を見せている。中には、明らかに敵意を剥き出しにしている子も……

 そんな彼女たちを見て、李軍は少し気圧されたようだった。


「……おやおや……やはり私は相当嫌われているようですね……まぁ、それも致し方ありませんか――」

未来みく……みなさん……スマンが、こいつの周囲で警戒に当たってくれないか? 最後まで面倒をかけて申し訳ない」


 李軍の言葉を無視するように、秀英がオメガたちに話しかけた。すかさず未来が反応する。


「いいですよ。将軍こそ、ご協力ありがとうございます」


 今回李軍を連行するという大役を引き受けたことで、秀英としても一つの区切りをつけることになるだろうことは、未来も感じていた。でも、こうやって厳重な監視下で彼を護送できるのもまた、秀英の骨折りあったればこそなのだ。今回の件は、お互い持ちつ持たれつだ。


 ほどなく、オメガたちは6人全員で、李軍の周囲をぐるりと取り囲んだ。あれこれと見解の相違があり、なかでも秀英と顔を合わせた瞬間は、多少火花が散ったが、それだけだった。李軍は相変わらず、やけに素直だった。

 士郎と叶は、思わず拍子抜けする。


「少佐、意外にスムーズです」

「うむ、そうだね……やはり私の思い過ごしだったのだろうか……」


 まぁ、何もないに越したことはないのである。このまま李軍を連行し、司令部に引き渡す。それで、この戦争は無事終了だ。


「ところで――」


 ゆずりはが唐突に声を上げた。


「ん? どうした?」

「――ところでさ、この人、自分で歩けるの?」


 ――!

 そう言われてみればそうだった。今の李軍は、その下半身が壷のような形状をした機械なのだ。さっき異空間の中で士郎と戦闘を繰り広げた時は自在に動いていたようだが、元の世界でもキチンと自力で動けるのだろうか……


「……それなんですが……」


 李軍が急に情けない声を出した。


「大変申し訳ありません……私、自力では動けません」


 は――!?

 その時、恐らく大半の者がそう思っただろう。いや、確かに脚がないから、どうやって移動するのかと不思議には思っていたが、いざ「歩けない」と言われると、なんだかガックリと力が抜けてしまいそうになる。どんだけポンコツなんだよ――!?

 士郎は思わず口走る。


「――さっきは動けていたじゃないか? アレはやっぱり、異空間だからなのか!?」

「まぁ……そういうことになりますね」


 呆れた顔をしていた秀英が、部下の兵士たちに指示を出した。


「しょうがない。お前たち、この男を運搬しろ」

「はッ!」

「いや――ちょっと待った!」


 バッと李軍の周囲に展開しようとしていた兵士たちを、士郎が慌てて制止する。さっき自分が殺されかけたのは、この李軍にし潰されそうになったからなのだ。


石動いするぎ中尉……?」

「すみません、ただ、コイツに無防備に近づくのは、少しリスクがあるような気がして……」

「ふむ――中尉がそういうのなら……だが、そうなるとどうやって――」

「じゃあ! じゃあ私たちが……皆さんと一緒に混じるよ」


 未来が申し出てきた。要するに、兵士だけでなく、交互にオメガが入ることで、いざというとき瞬発的な対処ができる、ということか――

 確かに先ほど士郎が後れを取ったのも、単独で奴と戦っていたせいだ。もしあの時、腕と脚を欠損した士郎をただちに助け起こしてくれる者がいたら、あそこまで追い詰められることはなかったかもしれない。


「――未来ちゃん……でも、大丈夫かい?」


 傍にいた叶も、心配そうに彼女を見つめる。でもどうやら、未来の意思は変わらないようだった。他のオメガたちもコクリと頷く。彼女たちはみな、一刻も早くこの戦争を終わらせたいのだ。


「じゃあ……」


 それから約10分後――

 狼旅団の兵士たちは、まるで祭りの神輿を担ぐように、李軍を担ぎ上げていた。その辺の廃材を集めて、前後左右から井桁のように鉄パイプ状の棒を組み上げたのである。


 その神輿の足場に、オメガたちが乗っかる。


「――お、重たくありませんか?」


 くるみが少し恥ずかしげに、下で支える兵士たちに問いかける。


「だ、大丈夫! みんな軽いから! なぁ!?」

「お……おぉ! 任せとけ……」


 そういう兵士たちは、みなプルプルしていた。そもそも李軍自体が重たいのだ。その外見から言って、恐らく大型バイク以上、下手したら小型車並みの重量があるに違いない。それに6人のオメガたちが加われば、さらに300キロ近く重量が増す。

 まぁ、それを十数人の屈強な兵士たちが支えているから、よもや途中で潰れることもないだろうが、李軍の連行は思わぬ力仕事になった。


「――では行くか!? みんなしっかり運んでくれよ」

「おぅッ!!」


 秀英の掛け声に、兵士たちが気勢を上げる。そしてヨタヨタとおぼつかなく歩き始めた、その瞬間だった。


 ピカァァ――ッ!!!


 突然、李軍のその壷のような下半身の真ん中あたりから、何やら閃光が迸ったのだ。ちょうど、先ほどアイシャの首を取り出した、あの40センチ四方のスロットのあった辺りだ!


「――なんだッ!? おい李軍ッ!! 貴様何をしたッ!?」


 士郎が叫ぶが、後の祭りだった。

 気が付くと、ちょうど神輿の先頭――つまり李軍の真ん前に立っていた未来が、その閃光をまともに喰らっているところだった。

 突然のことに、未来は思わず膝をつく。いや――もしかして何か、そのせいで変調をきたしたのだろうか――!?

 すると、李軍がとぼけたように口走った。


「――あぁー!? すみません……もしかしたら、この増幅装置が、偶然彼女に反応してしまったかもしれません」


 その瞬間、士郎の怒りが爆発した。


「貴様ッ!! ふざけるなッ!! 増幅装置が偶然反応って、いったいどういうことだッ!?」

「えぇ!? そんなこと言われても……私だって想定外のことに驚いているんですよ!?」


 李軍の顔が、ニヤリと歪んだのはその時だ――

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