第541話 恩讐の果て

「……分かりました。では、おとなしく投降しましょう。まずはこの空間の除去ですね……」


 ついに李軍リージュンが投降を決意した。士郎は、信じられない思いで彼をじっと見つめ返す。自分の中の緊張感が、一気に薄らいでいくのが分かった。

 長かった……

 何度この光景を夢見たことだろうか――


 この一年間、士郎やオメガたちを――いや、すべての日本人たちをあれほど苦しめていた悪夢が、これで終わる……


 李軍が穏やかな口調で話しかけてきた。つい先ほどまで、あれほど敵意を剥き出しにしていた男の雰囲気は、もうどこにもない。


「――まずは、この装置を稼働停止しなければなりません。この異空間を構築しているのは、この量子増幅装置エンハンサーですから……」

「ど……どうすればいいんだ? どこかに電源スイッチでもあるのか?」


 士郎は、彼の下半身と一体化している目の前の壺のような機械を見上げる。それは機械でありながら、人体と融合している。李軍の胸の下あたりから、それはシームレスに繋がっていて、機械の方にもところどころに血管が浮き上がったようなところが見受けられる、実にグロテスクな代物だ。


「電源スイッチなんてありませんよ。だってこれ、もう半分私の身体なんですから」


 李軍が少しだけ愉快そうに応じた。もう投降すると決めた途端、吹っ切れたのだろうか。こうやって普通の雰囲気で会話すると、それほど憎らしい相手に感じないところがコイツの恐ろしいところだ。こうやって人懐っこく接することで、上手いこと異世界中国軍の幹部たちもたぶらかしたのだろう。


「じゃあどうやって――」

「ホラ、これを外してください」


 そう言って李軍が指で指し示したのは、ちょうど士郎のお腹あたりの高さに位置する、40センチ四方くらいのスロットだった。士郎はそこに、何気なく右手を当てる。すると、その触感に反応してスッとスロットが手前にスライドしてきた。この時代には一般的な、どこにでもある接続スロットだ。だが――

 次の瞬間、士郎は思わず「ひッ――」と小さな悲鳴を上げる。


 そのスロットの中に、からである――!


 そういえば彼女の頭部については、先ほどの戦闘のどさくさで所在未確認になっていた。李軍との激しい戦闘の混乱で、そこまで手が回っていなかったことを思い出す。

 士郎の心の中に、あらためて李軍への怒りが燃え上がった。だが、ここでまたブチ切れては、奴の武装解除が進まない。士郎はグッと堪える。

 と同時に、心の中でアイシャに深く詫びた。すまなかった……本来なら、一番に君の首を回収してあげなきゃいけなかったのにな……


 だが、当の李軍はそんな士郎の気持ちなど知らない風に、実に淡々としていた。やっぱり、コイツとは絶対に分かり合えない――! 士郎は心の中で悪態をつく。


「――さぁ、その首をそこから取り出してください。それでこの異空間は消滅するはずです」


 もともと彼女の首に繋がっていたたくさんのチューブやケーブルは、とっくに切断されていた。これらは先ほどの戦闘で、亜紀乃がぶった斬ったものだ。

 それでも今までこの異空間を維持していたのは、やはり彼女がもともと持っていた「異次元を繋ぐことのできる異能」が、この装置を通じて直接増幅されていたからなのだろう。たとえその命の灯が消えた後だとしても、彼女の肉体そのものが、その触媒――いわばご神体なのだ。

 ということは、このスロットの中こそが、この機械の心臓部――ということなのだろうか……


 士郎は少しだけ気になったが、最優先すべきは、一刻も早くこの状態を解消することだ。

 一瞬、彼女の首を取り出すことで、何らかの悪意ある現象が発動するのではないかとも心配したが、それを検証する術は、残念ながら今の士郎には何もない。

 ここは、李軍を信じて言う通りにするしかないのか――


 士郎は、彼女の首を両腕に抱え、そして一瞬李軍の方を振り仰いだ。

 無言で見下ろす彼の顔が、ほんの少し歪んだ笑みを浮かべたような気がして、士郎は少しだけ躊躇する。本当に……大丈夫なのか――!?

 額から、脂汗が一滴ひとしずく、流れ落ちた。

 だが、それ以上はどうしようもなかった。アイシャ……どうか俺たちを、守ってくれ――!


 士郎はそう心に念じながら、思い切って彼女の首を引っ張り出した。ギュッと瞼を閉じる。

 次の瞬間――


 ドゥゥゥ――ン…………


 まるで巨大な発電装置がその電源を落とすかのように、辺りに静寂が広がった。すると、何となく周囲がぼんやり明るくなったように感じられる。それまでの、どこまでも奥行きの知れない暗闇の空間とは、明らかに様子が一転したことが分かる。そして――


「――石動いするぎ中尉ッ!?」


 突然呼び掛けられたその声に、士郎は思わず目を見開いた。慌てて周囲をキョロキョロ見回す。その視線の先にいたのは――


「叶少佐ッ!!」


 それはまごうことなき、叶の姿であった。彼は確か、特異点の外にいたはずだ。ということは――!?

 李軍は約束通り、この異空間を解除したのだ――


 あぁ……アイシャ……ありがとう……

 士郎は、思わず彼女の首を、愛おしそうにその胸に抱きかかえる。


「――なんてことだ! どうやってこの特異点を解除したんだいッ!?」


 叶が、驚いた様子で駆け寄ってきた。次の瞬間、訝しむように士郎の手許を覗き込む。そしてそれが、アイシャの生首であることを理解した途端、その表情を凍り付かせ、息を呑んだ。


「――中尉……それ……」


 士郎は叶を見つめ返すと、黙ってコクリと頷く。叶は、士郎のすぐ目の前に李軍がいることに気がつくと、すべてを察したように奴を睨みつけた。


 そんな二人の様子を見ていた李軍が、フッと小さな溜息を漏らす。


「……まったく……この期に及んで嘘なんて吐きませんよ……やぁ叶先生……」

「李……軍……ということは……中尉もしかして……」


 叶がさらに驚愕の表情を浮かべ、士郎をまじまじと見つめ返す。


「えぇ……彼は、つい先ほど日本軍に投降しました。まずは武装解除の一環で、この異空間を消滅させたのです」

「おぉ……」


 それは、この戦争が事実上終結したことを意味していた。そして、この特異点が消滅したということは、目下のところ最大のリスクだった、「首都消滅の危機」を脱したということだ。

 叶は、今度こそハッキリと今の状況を理解し、大きく息を吐いた。入れ替わりに李軍が口を開く。


「――今彼が言った通りです。私はもう、抵抗するつもりはありませんよ。ただし、国際法に則り、交戦相手国将校としての、正当な扱いを要求します」


 その言葉に、叶は少しだけ眉をひそめた。まぁ、本来李軍を始めとした異世界中国軍の将兵たちは、日本側からしてみればただのテロリスト――せいぜい非正規の武装勢力という扱いだ。叶ならずとも、その要求は少々虫が良すぎるように思われるかもしれなかった。

 だが、ここで士郎が約束を違えたら、先ほど名誉に誓った意味がなくなってしまう。


「――少佐、その件については、私の判断で彼に約束しました。一応、条約に則った扱いをするというのが武装解除の条件だったので……」


 士郎が事情を説明する。


「――なるほど……まぁいいでしょう。ですが――」


 叶は、李軍の前にあらためて向き直った。


「――私からひとつ条件を出します。あなたの身柄は、我が軍の狼旅団によって移送します」

「狼旅団!?」


 李軍は、不思議そうに叶を見つめ返す。士郎も、ハッとした様子で叶と李軍を交互に見比べた。


「はい、かつてあなたの上官だった、ヂャン秀英シゥイン閣下率いる、我が軍の精鋭部隊です」


 ――!!


 李軍は、その言葉に明らかに驚いた様子を見せた。それまでの、どことなく人を食ったような芝居じみた態度ではなく、本気でびっくりしたような顔だった。


 それはそうだろう。かつて自分が暗殺を企て、それに失敗した途端、卑怯な手を使って失脚に導いた、因縁の相手だったからだ。そんな人物が、かつて敵国だった日本に亡命しているというだけでも結構インパクトのある話なのに、さらに戦闘部隊を預けられる身分に納まっていると知って、動揺しないわけがない。しかもその張本人が、自分を連行していくというのだ。これ以上の屈辱は、他にないだろうと思われた。


 士郎は、叶にひそひそと話しかける。


「少佐、どうして――」

「石動くん、中国人の扱いは、同じ中国人に任せた方がいい。我々日本人は、どうも脇が甘い。油断しない方がいい……」

「なるほど……」


 どうやら叶は、李軍が条約に則った扱いを求めたことというよりも、この期に及んで何かまだ企んでいるんじゃないかということの方を気にしているようだった。確かに今までのことを思い起こせば、今の李軍はやけに素直すぎる。


「――それに、狼旅団は今、オメガたちと一緒のはずだ。もう一度彼女たちを呼び寄せ、あの男の警戒に当たらせた方がいいだろう」


 確かに――

 オメガたちなら、仮に李軍が何か仕掛けてきたとしても、十分対処できそうだった。念には念を入れた方がいいかもしれない……


  ***


 敵将投降の報せは、瞬く間に戦場を駆け巡った。


 それがどれほどのビッグニュースなのかは、この光景を見れば明らかだろう。


 見渡す限り、戦場の兵士たちが両手を突き上げ、勝利の雄叫びを上げていた。あちこちで日章旗と旭日旗が翻っている。

 航空隊が、まだ明けきらぬ夜空に華麗な曲技飛行を次々に決めていた。

 沖合からは、艦船の汽笛が一斉に鳴り響いてきた。風に乗って、兵士たちがあちこちで万歳三唱を唱えているのが聞こえてくる。


 石動士郎がやりやがった――!!!

 オメガチームが、ついに敵将を屈服させた――!!!


 戦場全体に、いい知れぬ熱気が立ち昇っていた。僅かに残った敵兵が、次々に武装解除していく様子があちこちで見受けられる。それを指揮する日本兵たちは、どの顔も晴れやかだ。


 そんな中、再び地下街に戻っていく隊列があった。

 張秀英率いる狼旅団と、そしてオメガの6人だ。周囲の浮かれ具合に比べ、彼らの雰囲気は驚くほど引き締まっている。

 オメガたちはもちろん、秀英も、そして元『華龍ファロン』の兵士だった面々も、あの男がどれほど執念深く、油断ならない奴なのか、十分に知っていたからだ。

 それに……第一戦闘団と狼旅団は、あまりにも多くの犠牲をこれまでに払っていた。李軍が降伏したと聞いても、とても浮かれた気分にはなれそうにない。

 秀英が口を開く。


「石動中尉が、あの男を助命するとはな……」

「まぁ、日本軍は昔から条約を重視しますからな……奴が抵抗せず、おとなしく投降したのだとしたら、その場で射殺などは絶対しないでしょう」


 ヤン子墨ズーモーが厳しい表情で応じる。しかし、抵抗しなかっただと――!? そっちの方が信じられん……ならばなぜあの男は、先ほどまでオメガたちと、あれほど激しく戦ったのだ――!?


「――とにかく油断しないことです。投降したといっても、どんな隠し玉を持っているか分かりませんので……」


 楊の言葉に、オメガたちも険しい表情を向ける。奴の行動は矛盾だらけだ。一抹の不安が皆の心をよぎる。


「――そろそろ現着します」


 先行する兵士が、振り向いて大声を上げた。


 バンッ――!!


 中国軍司令部中枢に通じる扉が開く。その奥に広がるのは、つい先ほどまでオメガたちが戦っていたあの空間だ。

 繭畑の残骸――

 その上のあちこちに、さまざまな遺体が横たわっていた。多くは異形の化け物だったが、中には人間の――日本軍の黒い軍服姿の遺体も、随所に見受けられる。

 ちょうどその空間の中心あたりに、目指す人物たちが固まっているのが目に入った。


「――士郎くんッ!!」「士郎きゅんッ!!」

「士郎ッ!」「士郎さんッ!!」「中尉ッ!」「石動中尉!」


 オメガたちが、口々に士郎の名を呼ぶ。彼女たちはまるで、戦場から帰ってきた恋人を迎えるように、思いっきり走っていくと、そのままガバッと士郎に飛びつき、もみくちゃに抱き締めた。


「――お前たち!?」

「あぁ! 良かったっ! 無事みたいねっ!」

「手! 手はッ!?」「脚はどうッ!?」

「あぁ――ちゃんとついてるぞ! みんなのお陰だ!」


 オメガたちは、先ほど自分たちが強く念じたことで、無事に士郎の身体が修復されていたことに心より安堵する。だが、その出来はお世辞にも良いとは言えなかった。


「……これ……ごめんなさい」


 未来みくがその顔を思わず伏せようとした時、士郎は彼女のあごに慌ててそっと手を添えた。


「――何言ってるんだ未来。俺はこの身体、とっても気に入ってるよ……それに――」


 士郎はオメガたち全員を見回した。


「――それに、みんなの想いのお陰で、俺はもう一度立ち上がることができたんだ。この勝利は、みんなで掴んだものだ」

「……士郎さん……」


 くるみを始め、オメガたちは全員、じっと士郎を見つめ返した。その瞳は、今や穏やかな淡い青色に光っている。それ以上の言葉は、必要なさそうだった。


 そんなオメガたちに少し遅れて、秀英がこの場に辿り着く。士郎は彼に無言で視線を送ると、お互いに気持ちを交わし合う。


 そして秀英は、あらためて目の前の異形を鋭く見据えた。


「――李軍……久しぶりだな……」

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