第538話 ノットアローン

 その怒涛のような感情の流入を、未来みくは知っていた。

 これは――あの時と一緒だ……

 一年前、あの名も無き荒野で、突如として私に流れ込んできた感情の奔流――


 士郎くんとの出逢いは、だから普通の人との出逢いとは、完全に順番が逆だった。先に心が通じ合って、後からそれがこの人だったんだと気づくという……


 もっとも士郎くんの場合は、戦場で出逢う遥か以前に一度、彼がまだ幼かった時に私は邂逅している。あの廃墟のような山小屋……

 当時はまだ、それが「石動いするぎ士郎」という人物で、将来は私と一緒に戦うことになるとは思いもしなかったけれど、でもなぜかその時の私は、彼を――まだ幼かった彼を――心のどこかで「特別」だと思っていたのだ。

 そして、今から考えるとその出来事は、やはり神さまの仕組んだ計画だったに違いないと確信できる。


 だって、何より私と士郎くんは、この世に生まれてくる遥か以前――それが「前世」と呼ばれている概念だ――に、既に出逢っていたからだ。それも一度ではない。何度も何度もだ。そうやって私たちは、生を受けるたびに繰り返し繰り返し出逢い、そしてそのたびにお互いを大切だと想ってきた。


 だから、「今生こんじょう」でのあの邂逅――前世から通算すると正確には「再会」だ――も、出逢うべくして出逢ったに違いないのだ。

 その筋書きを作ってくれたのは、もしかしてあのウズメさまだったのだろうか。だとしたら、あの方には感謝してもしきれない。

 私と士郎くんを、また出逢わせてくれて、本当にありがとうございます……


 だって、あの大陸で私が士郎くんの感情の奔流を受け止めることができたのは、きっとあの山小屋での出来事があったからだ。

 少佐によると、あの時私と士郎くんは、何らかの「体液交換」をしたのだという。それは恐らく「血液」だと……

 そう言われれば、あの時の士郎くんは酷く出血していて……私も応急救護している最中、不注意でちょっと指を怪我したりした記憶があった。体液交換があったとしたら、きっとその時だ。

 そして、それによって私と士郎くんは、おそらく「今生」でのチャンネルが開き、何かが繋がったのだ――


 だから私は、それから10年以上経っていたにも拘らず、士郎くんの絶体絶命の危機に、彼の心の叫びをキャッチすることができたのだ。


 それは、今のようにお互いが精神感応によって意思を通じ合わせる、いわゆる「同期シンクロナイズ」というにはほど遠い感覚だ。

 もっとこう一方的な……

 相手の感情の迸りを、ほんの少し離れたところでじっと見つめているような……そう、例えるなら、滝が流れ落ちていくところを、横から眺めているような感覚だ。


 でも滝の音は、森の中からでも十分聞き分けられる。そこに激しい水の流れがあることも、十分認識することができる。

 その轟音を恐れて、そこから遠ざかり、迂回していくこともできたはずだ。あるいはその滝を横目で眺めながら、やっぱり怖いと思って何事もなかったように通り過ぎることだってできた。

 でも逆に、「こんなところに滝が――」と思って滝つぼに近づき、その水を掬って飲むことだってできる。

 滝にどう接するか、どうアプローチするかは、受け手の自由なのだ。


 そして一年前の私は、その滝の奔流を真正面から受け止めた。この人は、助けなきゃいけない。私にとって「特別」だと直感したから――


 その時、なぜ「特別」だと思ったかはさして重要ではない。だって事実、士郎くんは「特別」だったのだから。それで十分――


 こうして、神さまの計画は成就した。私と士郎くんの世界線は、再び交わったのだ。


 そして今、あの時とまったく同じ感覚が、私の中に渦巻いている。士郎くんから迸る、あの一方的な素の感情――


 怖い……悔しい……辛い……悲しい……淋しい……

 怒り、無念、自責、悔恨、憎悪、孤独、絶望――


 そして……愛しい――


 その瞬間、私の中で稲妻が走った。士郎くんの、愛――


 その感情の濁流は、おしなべてネガティブなものだったけれど、その中でたったひとつ、士郎くんが私のことを想ってくれている感情が、大切な大切なその小さな暖かい雫が、その濁流の中に流れていることを私は知ってしまったのだ。


 そうだ――

 私はこの人のことを、最期まで諦めちゃいけない。


 どんなに不格好に足掻いてでも、彼に寄り添わなきゃ――

 だって士郎くんは、心の奥底で私を今でも求めているのだから――


 未来は、あらためて周囲を見回した。

 そこには、同じように士郎からの感情を受け取ったであろう少女たちが、茫然と立ち尽くしていた。


 そうか――

 ちょっとだけ……妬けちゃうなぁ……


 士郎くんは、私に向けたのと同じ感情を、この子たちにも向けているのか――

 でも……今はむしろ、その方が好都合だ。一人だけじゃない、ここにいるみんなの感情を束にして、士郎くんに投げ返してあげよう。

 そうしたら、あの強敵李軍リージュンに、貴方はきっと打ち克つことができる……


 私の個人的感情は、そのあとゆっくり……


「ねぇみんな……士郎くんからの気持ち、受け止めた!?」


 未来はあらためて5人に訊いてみる。そんなことは分かり切っていたが、みんなのお姉さんとして、ここは私が仕切らなきゃ――


「え、えぇ……これは同期ではありません。もっとこう……一方的な――」

「あぁ、私も感じた。士郎が……消えそうなんだ……」

「そう! 私もそう感じたよ……士郎きゅん、なんだかヤバそう」

「これは――きっと私たちの方から、中尉にパワーを送る必要があるのです!」

「だね……早くしないと、手遅れになっちゃう」


 みな分かっていた。今の士郎くんが、とてもマズい状況に陥っていることを――


 だって、こんな感情が溢れ出している時点で、士郎くんは緊急事態に陥っているに違いないのだ。

 彼はさっき、自らの意思で私たちとの同期シンクロナイズを断った。それは恐らく、看過できない何らかのリスクが発生したからだろう。士郎くんのことだから、きっと私たちに害が及ばないよう、咄嗟の判断でそうしたに違いないのだ。そしてたった独りで立ち向かった――


 それでもこうして素の感情が流れ込んでくるということは……恐らく今、彼は意識すら保てていない可能性がある。

 意識を失ったからこそ、もともと私たちとの間にある絆が、彼とのパスを繋いだのだ。


 事は一刻を争う――!


「……で、でもどうすれば……士郎さん、私たちとは同期する気なさそうだから――」

「それができなきゃ、さっきの空間に戻ることもできないぞ!?」

「とりあえず傍まで行って――」

「待って!」


 未来が、収拾がつかなくなる前にみんなを遮った。


「未来ちゃん……」

「さっきキノちゃんが言った通りよ……みんなで、士郎くんにパワーを送るの……彼の“あるべき姿”を、強く思い浮かべるんだよ! これはきっと、私たちにしかできないことだから――」

「あるべき姿……?」

「そう――だって今士郎くんは、で戦っているのよ!?」


 未来には確信があった。同期はできなくとも……もし私たちが、士郎さんのことを大切な存在だと思っているなら……きっとその気持ちは、あの世界でだって具現化できるハズだ――


「――あのね……それはつまり、私たちが信じることで、強い士郎くんがそこに実体化するの! 神さまを信じることで、そこに神が存在するのと同じ理屈なのっ!」


 その時、そう口走ったのはゆずりはだったか――それとも……


「――要するに……彼を独りぼっちにしない、ってことね!?」


 そのシンプルで分かりやすい言葉を聞いたオメガたちは、途端に頬を紅潮させ、お互いを見つめ合った。愛情なら、誰にも負けない――!


  ***


 士郎は、これで死ぬんだ――とどこか醒めた目で自分を見つめていた。

 まるで自分のことじゃないみたいに、客観的に自分の“死”を眺めている感覚……


 それはいつも無意識に、心の奥底で思い描いていた怖ろしい“死”とは、少しだけイメージが違っていた。

 士郎は、これまでにあまりにも多くの“死”を目の当たりにしてきた。その多くはとても凄惨で、安らかな“死”など、殆ど見たことがない。

 だからきっと、自分も同じように酷い死にざまなんだろうなと漠然と思っていたのだ。銃で撃たれるのか、何かで切り刻まれるのか……あるいは、爆発に巻き込まれてバラバラになるか――


 どうであれ、ロクな死に方じゃないだろうなとは思っていたのだ。だが、よりにもよって、し潰されて死ぬとは――

 

 半人半機械の今の李軍は、言うなれば戦車のようなものだ。まぁ、戦車というには少し小さすぎるかもしれないが、それでもこれだけの質量の物体が身体の上にし掛かれば、人間のやわな肉体など、簡単に潰れてしまうだろう。

 もちろん防爆スーツは着ていたが、これは瞬間的な衝撃にのみ反応する、いわば“着るエアバッグ”みたいなものだ。今みたいにジリジリと力が加わる場合は、何の役にも立たない。


 そして恐らく、士郎の肋骨は先ほど二、三本折れたところだ。ゴリゴリッと音がした直後、途端に脇腹に激痛が走り、身体が支えられなくなったから多分間違いない。ついでに吐血もしたから、きっと折れた肋骨の先端が、肺を突き破っているのだろう。


 痛覚の凄まじい感覚を検知した防爆スーツは、ただちに強心剤を心臓に突き刺すと同時に、モルヒネを大量投与し始めた。おかげであっという間に痛みは消えていったのだが、同時に意識は朦朧とし始める。

 そのせいだろうか――

 さっきから、自分の身体が自分のものじゃないみたいに思えて仕方がないのだ。


 手も脚も、一切動かない。

 あれほど李軍をこの手で葬ると決めていたのに……

 あれほどオメガたちをこの手で守ると誓っていたのに……


 士郎は、己の力不足を恥じた。

 同時に、無性にオメガたちに逢いたくなった。


 死ぬ前に、ほんの一言でいいから、彼女たちとまた言葉を交わしたかった。できることなら、指先だけでいいから、彼女たちともう一度触れ合いたかった。


 愛おしい――


 士郎は、心のどこかでほんの少し、期待していたのかもしれない。ロクな死に方じゃないかもしれないが、それでも最期は、オメガたちに囲まれて、看取られることを……

 もしそうなら、俺はきっと安らかに逝ける――


 なのに士郎は、彼女たちを無理矢理追い出してしまった。一緒に戦うと言ってくれた彼女たちを――

 それは仕方のないことだったのだが、それでも今となっては後悔だけが募る。


 すまなかった……

 彼女たちは、許してくれるだろうか……


 あぁ……もう……このグルグルとした思考も、途切れてきた……もうすぐ、機械の電源を切るように、俺の意識はプツッと途切れるのだろう……


 …………


 その時だった。

 突然、何の前触れもなく、まるで大津波のような凄まじい奔流が、士郎に雪崩れ込んできたのだ。


 ――!?


 そのあまりにも強烈な波は、途切れかかっていた士郎の意識に、まるで冷水をぶっかけたかのような衝撃を与える。

 それがあまりにも凄まじかったせいで、士郎はすっかり覚醒してしまった。命の火が消える直前、無理矢理叩き起こされたのだ。

 もちろん状況は変わらない。相変わらず李軍は士郎の上に圧し掛かり、そのせいで身体はあちこち軋み、その内臓は潰れそうだ。だが――


 これは……いったい何だ――!?


 気が付くと、全身に力が湧き上がってくる。それまで士郎の気力、そして体力は、時間の経過とともにどんどん削られていくばかりだった。それだけではない。物理的な肉体すら、削られる――というより欠損して喪失していくばかりだったのだ。

 それが――


 士郎はその独特の感触に、思わず自分の腕を見る。そう――時間を追うごとに欠損を増していった、あの左腕だ。

 その直後、士郎は驚きのあまり激しく狼狽する。


 腕が、再生を始めている――!?


 刹那――途轍もなく暖かな感情の濁流が、士郎の中に雪崩れ込んできた。その衝撃に、士郎は思わず涙ぐむ。だって――


 だってそれは、オメガたちの、どこまでも愛しさに包まれた、深い感情の奔流だったからだ――!


 士郎の全身が、じぃんと暖かいものに包まれる。

 それは、献身、共感、抱擁、無私、そして……愛――


 それをハッキリと自覚した瞬間、再生しかかっていた士郎の左腕は、バァ――ンと完全に復活した。それだけではない。欠損してしまった他の部位――脚とか、その他もろもろ……

 それらがすべて、完全に元通りになったのだ!


 それどころか、折れかかっていた……というより、もうとっくに折れてしまっていた士郎のココロ――勇気、闘争心、責任感、そして自信――が、いつの間にか完全に復活しているではないか!


 こ……これは――


 だが、この突然の現象に驚いたのは、士郎だけではなかった。


「――うおッ!?」


 李軍が、慌てふためいて一歩後ずさる。その直後――


 がァァッ――!!!!


 士郎は、弾かれたようにその場に立ち上がった。

 奴の重圧が一瞬解けたことと、その身体――四肢の欠損――が、一瞬にして元に戻ったこと、そして何より、士郎の中にオメガたちの愛情がみなぎったからだ。

 それは、尽きることなく滾々こんこんと湧き出る泉のように、士郎の心を満たしていく。


 気が付くと、士郎の気力は完全に復活していた。

 それまで感じていたのに、わざと気が付かないふりをしていた「孤独」という感覚が、まったくと言っていいほど消え去っていく。


 そして――

 今度こそ士郎は、目の前の李軍を敢然と見据えた。

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