第537話 プリーモニション

 振りかぶった長刀が、そのまますっぽ抜けた。

 反射的に頭上を見上げた士郎は、あまりのことに声を失う。


 指が――

 指がなくなっている!?


「……あ……あ……」


 思わず呻き声を上げた士郎は、そのまま左手を顔の前に持ってくる。その手は、まるで団子のようだった。5本あったはずの指は、完全に欠損しているか、あっても根っこのところから第一関節くらいまでしか残っていない。

 まさか――


「おやおや……とうとうアポトーシスの症状が出て来たようですね。哀れなことだ……」


 李軍リージュンが、口ぶりだけはさも同情したように話しかける。

 士郎はショックのあまり、思わずその場にへたり込んだ。


 剣道をやっている人なら分かると思うが、刀と言うのは基本的に左手で振るものだ。一番ギュっと握りしめるのは左手の小指で、これを刀のつかにまくりこむように握りしめる。あとは順に薬指、中指を添え、親指は全体を上から押さえるように握りこむ。右手はどちらかというと添えるだけだ。

 だから素振りの練習も、左手だけで振りかぶることはあっても、右手だけで振ることはない。まぁ、これは竹刀の振り方だ。

 真剣の場合は、それなりに右手も使う。これは、刃を振り抜くために使うのだが、相手に刃が当たったと同時に右手で押し込み、そのまま手前に引き抜くか、さらに奥に突き通すわけだ。


 実際のところはこの挙動をコンマ何秒かで連続的に行うから、それほど右手と左手の力加減が大きく変わるわけではないのだが、今のように振りかぶったまさにその瞬間は、やっぱりセオリー通りに左掌に大半の握力が加わっているわけだ。


 で、士郎の場合、その右手はご存知の通り機械化腕手ロボティクスアームだ。つまり作り物――生体ではない。だが、左手は100パーセント生身の腕だ。今回はその生身の左手の、5本の指がすべて『アポトーシス』によって知らぬ間に欠損してしまったのだ。


 これは“計画された細胞死”だ。つまり、その指がなくなるといっても、痛みはまったくない。それどころか、今のように知らないうちに消失しているのが普通だ。だから気付くのが遅れたのだ。


「……た……たいしたことないさ……」


 士郎は強がってみせるが、内心は大きなショックを受ける。

 それはそうだ……誰だって、自分の身体がたとえ一部でも欠損してしまって平気な者はいない。

 そんな士郎に、李軍は勝ち誇ったように畳みかけた。


「――いやはや、これは参りましたね……私と違って、アナタは身体を修復できない。『人体再生』の能力がありませんからね……これからもっと、アナタの身体はボロボロになりますよ!?」


 そんなことは、言われなくても分かっている――!


 士郎は、ギリッと歯を食いしばった。指がなくなって、ようやく士郎はアポトーシスの怖さを実感する。今は「指」だけだが、そのうち「掌」そのもの、「手首」、「前腕」そして「上腕」と、だんだん欠損部分が増えていくのだろう。

 腕だけではない。その顔面も、脚も、胴体も、機械化されていない部分を中心に、徐々に欠損部位が広がっていくに違いない。

 そうなったら、やがて機械化されている部分にも影響がでてくるはずだ。

 なにせ機械化パーツと生体部分は、ある種の有機繊維で結合されているからだ。神経だって接続されている。それらが冒されていけば、やがて機械化部分も動かすことができなくなってしまう――


 時間がない……


 士郎は、フンっと腹に力を込め、もう一度気力を奮い立たせた。

 こんなことでビビっていては駄目だ。思い出せ――あの時のように! 初陣の頃――大陸で、初めて敵の秘匿陣地に遭遇し、もう少しで全滅するところだったあの絶望的な撤退戦を――

 あの時だって、当時の田渕軍曹は平気な顔をして、今やるべきことを冷静に、淡々と実行していたではないか――!


 士郎は、ガッと立ち上がった。

 そして振り向くと、後方に転がっていた長刀を見つける。黙って数歩歩き、カチャリとそれを拾い上げた。


「――李軍……まさかこれで勝ったとは思っていないよな……!?」

「……お……?」


 李軍は一瞬だけ怯む。そうか……奴も内心は、怯えているのか――

 一見、今の状況は李軍の方が圧倒的に有利だ。だが、よく見れば李軍こそ、その身体が次第に滅茶苦茶になってきている。

 その修復が、徐々に出鱈目になってきているのだ。そうだ――その身体は、再生するたびに元の形状から少しずつ離れていっている。

 そんな自分の無様な状態に、心穏やかでいられるわけがない――


 その時、士郎は、かつて未来が書いた報告書を思い出した。『人体再生』の元祖、ヂャン詩雨シーユーが李軍に捕らえられて実験を繰り返されていた時の様子だ。

 彼女の場合も、何度も何度も殺されてそのたびに再生していく際、元の形状が維持できず、いつの間にか形象崩壊を起こして、人間とは似ても似つかぬ異形と化していたというのだ。

 今の李軍は、まさにそれではないのか!?

 だとすると、やはりこれは我慢比べだ。どっちが先に力尽きるか――いや……どっちがより、強い信念を保てるか――!?


 そうだ……こんな化け物が、人間の進化のゴールなわけないじゃないか――!


 士郎は仁王立ちになった。

 右手――そう、機械の手だ――で長刀を掴み、そしてその切っ先を真っ直ぐ李軍に向ける。


「――李軍……俺の身体は心配してくれなくていい。幸い、俺の身体の60パーセントは機械で出来ているからな……さぁ、量子使いクォンタムハンドラー同士、一騎打ちを再開しようじゃないか!?」

「ふ……フンッ! 負け惜しみを――その威勢がいつまでもつか、見ものですなッ!」


 直後、李軍は見たこともないような鬼の形相で、ガバッ――と大きくその両手を広げた。


 よく見ると、その手は既に変な形に歪んでいる。関節が、肘だけでなく、もう一か所増えていた。その仕草はまるで、魔王がこの世界を支配しようとしているかのように、妙に芝居がかっていた。

 だがその光景は同時に、手長エビかカマキリが精いっぱい自分を大きく見せ、相手を必死になって威嚇しようとしているかのようにも見える。

 つまり――その姿は迫力十分なのだが、どこか滑稽さがそこはかとなく滲んでいるのだ。


 だが、そんなことは些細なことだとでも言わんばかりに、李軍にはさらなる変化が現れた。奴から強烈な後光が差してきたのだ。

 いや――これは後光というより、先ほどからずっと奴の身体の輪郭に沿って揺らめいていた、例の電気を帯びたようなフレアだ。そのフレアが、一気にゴォッと勢いよく閃光を放ったのだ。

 今度は何が、どうなった――!?


 次の瞬間――

 ガキィィィ――ンッ!!!!


 再び両者がぶつかり合った。何の前触れもなく、士郎がその持てる意思、思念をすべて機械化腕手の右手に込め、全力で李軍に切り付けたのだ。長刀に、虹色の揺らめきが一気に立ち昇った。ヒヒイロカネが反応している――!!


 その直後から、息もつかせぬ神速の打突が、両者の間で激しく突き交わされた。だが、士郎の突きはその大半が弾き飛ばされる。そのたびに、残像のように何かのシールドようのものが一瞬だけ浮き上がって見えた。これはやはり――李軍がその思念で士郎の攻撃を防いでいるからだろうか。


 イメージしろ! このシールドを突き破る、ヒヒイロカネの長刀の威力を――!

 士郎は念じた。思念の力が、この鉄壁の防御を突き破るのだと信じて――


 その時だった。

 ブスリ――と李軍の肩を突き刺す感触が、士郎の神経に伝わった。


「ぎゃひィッ――」


 鈍い悲鳴が空間に響く。李軍の声! ……やったのか――!?


 だが、すぐさま長刀が弾き飛ばされる感触が戻ってくる。くッ……たまたまか――

 集中しろ! 集中するんだ――!!


 ブスッ――

 またもや先ほどと同じ手応えがあった。肉にめり込んだ感触だ。すると再び目の前の李軍から、今度は派手に鮮血が飛び散った。なんだ……ちゃんとした人間の赤い血が、まだ流れているじゃないか……


 気が付くと、三回に一回は手応えを感じるようになっていた。李軍はそのたびに小さな呻き声や、時に我慢しきれないような悲鳴を上げる。

 そして奴の両肩と腕は、いつの間にか士郎の斬撃で無数の傷をこしらえていた。


 もっと! もっとだ――!


 士郎は歯を食いしばる。何せ、李軍に手傷を負わせても、すぐにその傷は修復されてしまうからだ。

 いっぽう士郎はと言えば、もちろん無傷でいられるわけがない。その頬や腕など、李軍と向き合っている部分はことごとく手傷を負い、知らぬ間に全身傷だらけになっていた。そしてなにより――

 士郎のその左手は、既に肘のところまで欠損が進んでいたのだ。


 “時間との勝負”――

 その言葉が、重くのしかかってくる。


 だから士郎は、思い切ってあと一歩、踏み込むことにしたのだ。次の瞬間――


 ダァン――と左脚を踏み込んだはずの士郎は、グラリとそのバランスを崩したかと思うと、ドチャッ――とそのまま前につんのめった。

 まさか!?


「――あらあら……もうそろそろ諦めたらどうです? アナタの身体、もうボロボロじゃないですか!?」


 李軍が、またもやわざとらしく、気の毒そうな声を上げた。

 見ると、士郎の左足首から先が、欠損しているではないか――!?


 それだけではない。士郎の身体は、今や急速にあちこちが委縮し、欠け、消失を始めていたのだ。

 クッ……ソ……アポトーシスか……


 再び士郎の頭の中に、『不老不死』『人体再生』こそ最強――という李軍の言葉がこだまする。


 士郎はたまらず地面に倒れ伏した。うつ伏せになり、それでも残った手脚でなんとか起き上がろうとする士郎に、ふらっと李軍が近づく。それはまるで、幽鬼のようだ。

 そしてその背中から、まるで士郎を足蹴にするように、その不格好な壷のような機械でおもむろに士郎をし潰していく。

 士郎は、苦しみに喘ぎながらなんとか声を絞り出した。


「――くッ……貴様なんかには……絶対に……屈しない……ぞ……」

「えぇ、そうでしょうとも――ですが、世の中どうしようもないことってあるんですよ。今のアナタのようにね……」


 ギュゥゥゥ――


 ますます李軍は、その圧迫を強めていく。ついに堪えきれなくなった士郎は、その腹と胸をベタリと地面に押しつけられてしまった。それでも李軍は、その圧迫を一向に緩めない。


 やがて――

 士郎の口から、泡のようなものがドロリと垂れてきた。それに混じって、赤い血のような筋が零れ落ちてくる。


「――ぐッ……ぐァァ……」


 ボキッ――ボキボキボキッ――


 身体中から、嫌な音が響いた。士郎の全身を、万力で絞められたような圧迫感が襲う。このまま、俺をし潰そうというつもりか……


 士郎の意識が、急速に薄らいでいった。スマンみんな……これ以上、身体がいうことをきかないんだ――


  ***


 オメガたちの瞳が、今までにないくらいに煌めいたのはその時だ――


「あっ――」


 兵士の一人が、小さく叫び声を上げた。

 東京駅直下の地下街。その最奥部、地下60メートルの位置にあった中国軍総司令部中枢から、傷つき、半ば意識を失った彼女たちを搬送していたのは、ヂャン秀英シゥイン率いる狼旅団の兵士たちだ。

 本作戦の総指揮官、四ノ宮東子から急遽命令を受け、オメガたちの救出に駆け付けていたのだ。


 その兵士たちがありあわせで作った簡易担架にオメガたちを一人ずつ乗せ、ひたすら地下街を地上へと逆走していた、まさにその途中――


 突如としてその妖しげな青白光を強烈に迸らせながら覚醒したのは、一人だけではない。それまでぐったりしていたはずの5人のオメガたちが、何の前触れもなく、示し合わせたかのように一斉にその瞳をカッと見開いたのだ。

 最初から覚醒していたかざりも入れると、今や6人のオメガ全員が、いわゆるアグレッサーモードに近い雰囲気を強烈に迸らせている。


「どうした!? 何が起きてるッ!?」


 一行を率いていた秀英が、異変に気付いて声をかけた。すると兵士の一人が、口をパクパクさせながらオメガを無言で指さす。

 次の瞬間、それまで担架の上で横臥していた未来みくが、ガバと跳ね起きた。


「――士郎くんッ!?」

「未来!? 気付いたのかッ!? 中尉はここにはいないぞ?」


 秀英は、咄嗟に答えると兵士たちに号令する。「止まれッ――」

 そしてあらためて、未来を見つめ返した。


「……何か……感じたのか?」


 秀英とて、士郎とオメガたちの強い結びつきを知らないわけではない。


「……士郎くんが……士郎くんが大変なの……ねぇ! 他の子たちはッ!?」


 切迫した様子の未来が、キッと周囲を見回す。すると、オメガたちはほとんど一斉に未来の方を見つめ返した。その青い瞳から迸る光がお互いに交錯し、ある種の凄みのある空気を醸し出す。

 未来が、口火を切った。


「みんな――今の……」

「……えぇ! 感じました! 士郎さんがッ……」

「――私たちに、助けを求めている……」

「で、でもどうやって!? もう士郎きゅん、私たちと同期するつもりないみたいっ」


 予想通り、オメガたちの言葉は共通していた。

 突如として彼女たち全員に、士郎の思念、いや……感情が雪崩れ込んできたのだ。

 全員が一斉に覚醒したのは、おそらくそのせいだった。そして彼女たちが例外なくアグレッサーモードになっているのは、士郎の身に危険が迫っていることを、本能的に察知したからだ。


 秀英が、もどかしげに口を開く。

 

「――未来ッ! 立ち止まっちゃいけない! とにかく今は、一刻も早くこの地下街から脱出を――」

「待って! 待って将軍……だって士郎くんがッ! 士郎くんが危ないの!!」

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