第534話 自殺遺伝子

 久遠と一体化した士郎は、彼女が『不可視化』する時の不思議な感覚を、そのまま受け止める。


 それは“溶け込む”というか、“隠れる”あるいは“潜む”といった感覚に近い。例えていうなら、泥水の中に音もなく沈んでいくような……もしくは、深いジャングルの中で、鬱蒼とした木々の隙間にそっと身を隠していくような……

 これは実に独特の、自分一人だけズルして安全地帯に逃げ込んだような――そんな不思議な安心感に包まれた感覚だった。

 正直、もし自分が対人恐怖症だったら、これほどありがたい能力もないだろう、と思ったくらいだ。


 そうか――

 久遠が日頃から、何となく人との距離感があるのは、彼女が無意識に他人を避けているからだ……と士郎は思った。その代わり、親密になった相手とはどちらかというとベタベタしたがるタイプなのだが――


 それはもしかすると、彼女の『幽世かくりよ』での前世に関わる性格なのかもしれない。何せ彼女の前世における最期は、敵の兵士に見つかって惨殺された――というものだからだ。

 だから、彼女は常に無意識で他人を警戒し、距離を取っているのだ。そうか……だから彼女の異能は『不可視化』なのか――

 誰かに見つからなければ、自分の身に危険が及ぶこともなかっただろうから……


 ということは、彼女の能力こそ、エピジェネティックに獲得されたものなのだ――!

 命の危険に曝されるという、極めて特殊な環境下で、当時の彼女の胎内にあったジャンクDNAのどれかがメチル化解除に至り、この特別な能力を開花させたのだ――


 士郎は、そのことを強烈に意識しながら、李軍リージュンが繋がれたあのグロテスクな機械に向けて思念を叩き込む。それは、人の意思によって自在にその態様を変えていく『量子』を、圧倒的に増幅させる装置だ。

 こちらからそこに思念を叩き込めば、反対側の李軍にはそれが途轍もなく増幅して伝えられるのだ。


 すると、四たび李軍に変化が現れ始める。今度の彼のメチル化解除は……いったい何だ!?

 士郎はしばし彼に注目した。


 ほどなく――

 李軍の体表に、鮮やかな斑点……いや、縞模様? それとも……なんだかよく分からないが、彼の皮膚が突然極彩色に彩られ始めた。それはまるで、幼児がデタラメに描いた塗り絵のようだ。

 しかもその色彩は、目の前で次々に変化していく。最初赤だった部分が急に緑色になったり、丸模様だったところが急にストライプになったり……

 それはまるで法則性がなく、そして万華鏡のように次々と移り変わっていく。こんな生き物がいたら、目立ってしょうがないだろう……


 はッ――そうか……

 久遠の『不可視化』を叩きこまれたせいで、李軍は逆にその皮膚色素をデタラメに変化させるようになってしまったのだ――


 これは……逆進変化リバース・ドライブだ――


 もともとオメガたちの異能発動には、二種類あると以前聞いたことがある。

 ひとつは『昂進変化プログレッシブ・ドライブ』――


 これは、ゆずりはのパターンだ。アクセル遺伝子を極限まで活性化させる彼女の能力は、対象にぶつけるとそのまま対象のアクセル遺伝子が同じように活性化する。その結果、相手はその体組織の膨張に歯止めが効かなくなり、やがて破裂に至る。


 これに対して『逆進変化』は、オメガの能力と反対向きの効果を対象に発揮するやり方だ。

 くるみの異能がまさにこれだ。


 彼女の場合、もともと脳細胞の神経伝達が異常に早く、したがって極めて知性が高い。以前ハルビンでの攻防戦の際、その圧倒的な計算能力で、クリーに対抗する際の重力アクチュエーターにかけるベクトル計算を無数にこなしてみせたことは、今でも特戦群の中での語り草だ。

 そんな彼女の能力は、逆に対象の神経伝達をショートさせるというもの。これこそがまさに逆進効果だ。


 久遠のそれは、だから恐らくくるみと同質のものだ。不可視化するためにその色素胞を周囲に同化させるのが彼女の能力なのに対し、極楽鳥のように極彩色の外見となった今の李軍は、圧倒的に目立っている。これは明らかに、久遠の本来の能力変化とは逆ベクトルのものだ。


 もしもこの場所が、弱肉強食の野生の原野だったなら、李軍はとっくに猛獣に見つかって、追いかけ回され始めているところだ。


 いや――この場合の“猛獣”は、我々オメガチームか……

 おかげで李軍のことが、ますますよく見えるようになった。それだけではない――


 彼のそのド派手な体表色変化は、どうやら彼の感情にも連動しているようだった。全体的に赤っぽいのは、やはり今の李軍が怒りを抱いているからだろうか……どう見ても、それは攻撃色だ。

 ただし、時々何やら薄暗い、灰色のような色味が差したりする。これは、恐らく「不安」とか「絶望」色だ。

 紫色と灰色の中間色のようなものは、もしかしたら「恐怖」あるいは「嫉妬」の感情だろうか――


 これは実に分かりやすい。

 李軍が今どう感じているか、我々はその色味を見るだけで察することができるようになった。これは、使い方によっては途轍もないアドバンテージになりそうだった。


「な……舐めた真似を……ッ」


 李軍が、突如として言葉を発した。それまでまるで一時停止でもしているかのように硬直していた李軍は、その体表を真っ赤に染めながら、ノソリと動き出したのだ。

 やはり亜紀乃の言う通りだった。恐らくドーパミンを喪失したせいでその動きを止めていた李軍は、ようやく『人体再生』が追い付き、正常なホルモン分泌を再開したらしい。

 ただしその輪郭には相変わらず白いフレアを立ち昇らせ、そしてその外見は恐るべきスピードで劣化と再生を繰り返している。さらに久遠によってメチル化解除スイッチを入れられたと思われるそのド派手な体表色変化が、逆に得体の知れない迫力を醸し出していた。


 オメガたちは、その異常な雰囲気に一瞬怯む。それでもなお、士郎は胆力を振り絞って李軍に向き合った。


「――李軍、もう観念しろ……これ以上争っても、貴様に勝ち目はない」


 だが、李軍はこちらを睨みつけたまま、押し黙っている。図星を突かれて言い返せないのか……それとも聞く耳持たず、俺たちを見下しているのか――

 士郎はもう一度語りかける。


「李軍、よく聞くんだ。もはや貴様は終わりだ。周りを見てみろ……貴様に化け物にされた司令部の中国兵たちは皆、斃された。貴様自身の遺伝子改変も、人類進化にはむしろ逆行するものだと悟っただろう? 今からでも遅くないから――」

「ふざけるなッ!」


 士郎の説得を、李軍は途中で遮った。あくまでも、自分の過ちは認めたくないということなのか――!?

 その体表が、今度はドス黒く濁ってきた。これは……殺意――!?


 未来みくの感情が迸ったのは、その時だ。

 彼女は士郎をそっと優しく押しのけると、李軍の前に仁王立ちになった。


「――未来……」

「未来ちゃん……」


 士郎とオメガたちは、最初未来の行動に戸惑ったが、やがて彼女の背中にそっと手を置く。もちろん――その共有する感情の中でだ。

 そうだ――彼女が矢面に立つというのなら、自分たちはその背中をそっと押してやろう……


 ついに未来は、宿敵李軍を追い詰めたのだ。その瞬間、これが奴との最期の対決になるだろうことを、そこにいるすべての者が悟った。いや……今度こそ、本当に最期にしなければならないのだ――

 未来が語りかける。


「李軍……ようやくあなたと決着がつけられそうです……」


 李軍は押し黙ったままだ。

 未来もその先の言葉が続かない。恐らくその胸に去来するのは……数々の苦難――

 それはいくら語っても、語り尽くせぬ苦い記憶だ。


 未来は大きく息を吸うと、ようやく言葉を継いだ。


「――李軍……あなたは、多くの命を弄び過ぎた……その償いは、必ずしなければなりません」


 すると、李軍も意を決したように口を開く。


「神代未来……お前にそんなことを言われる筋合いはない……」

「なぜ!? あなたのやってきたことは、生命への冒涜で――」

「命を繋ぐことの、何が悪いッ!?」


 未来の言葉を遮って、李軍が激昂した。それは、まったく言い逃れのようには聞こえなかった。つまり、コイツは心から、そう思っているのだ。


「――お前たちオメガこそ、ただの殺戮者ではないか!? 必死に生きようとする人間たちを、問答無用でただ殺す……命を冒涜しているのは、いったいどっちだ!?」


 その言葉に、数人のオメガの心がぐらつくのを、士郎は密かに感じる。

 駄目だ――心を強く持つんだ……!

 この空間では、強い意思を持った方が勝つのだ――! 負けては、駄目だ……


 幸いなのは、未来が一切動じていないことだ。


「いいえ……命あるものには、役割があります。生命とは、そこに生きていること自体に意味があり、それだけで尊い……それと同時に、死することもまた、生命の大事な役割なのです。それはつい先ほど、あなたに教えたばかりではありませんか」


 そうだ――生命は、“死”を積み重ねることによってのみ、新たな進化を遂げることが出来る。それは、この地球上の生命の、進化の歴史が証明している真実だ。


「――愚かな! では生命の、命の目的とは何だ!? 死ぬことか!? 死するために生まれるとでも言いたいのか!? そんなバカな話があるものか! それはお前たちの、その醜い本能を正当化するための、ただの言い訳だ!」


 その時、士郎は悟った。この男は、オメガたちがもうとっくに乗り越えている問題に、未だに拘泥している。この勝負、あったな――

 未来が畳みかける。


「――ではなぜ……あなたは多くの命を奪ってきたのです? まさか、永遠の命を得るための、尊い犠牲などとは言わないでしょうね……!?」

「そのまさかだよ! 当たり前だ……生命の究極の目的は“生きること”だ。だが、多くの生命はその生きることをまっとうできずに、その命を終えていく。そしてそれを克服できないでいることこそ、人間の弱点なのだ。つまり――」

「死を乗り越えることは、進化ではありません」


 未来はピシャリと言い放った。この一番肝心な部分が、どこまで行っても、李軍とは平行線のままなのだ。そしてこの調子だと恐らく、それは絶対にこの先も交わることはないだろう……


 それは何のことはない――価値観の違いだ。

 ただし、この場合の正誤の決着は既についている。この戦争を終わらせるには、どちらかがどちらかを斃すしかない――


「李軍ッ! 勝負よッ――」

「望むところですッ!」


 次の瞬間、未来はありったけの思念をあの機械に叩き込んだ。と同時に、李軍からもまた、何らかのエネルギーの奔流が噴き出してくる。


 カッ――――


 それは、不老不死という能力をエピジェネティックに獲得した者同士による、思念と思念のぶつかり合いだった。そしてそのエネルギーの濁流は、装置の中で互いに増幅し合い……そして――


 お互いの中に、深く……深く雪崩れ込んでいく!


「未来ッ!?」


 士郎は思わず叫んでいた。彼女から感じていた思念に、唐突に違和感が混入してきたからだ。次の瞬間、士郎は何の前触れもなく、すべてのオメガたちとの同期をパージする――


  ***


「――士郎くんッ――!!!」


 絶叫した未来は、自分の叫び声に驚いて、ガバと目を覚ました。

 え――!?

 唐突に異なる感覚の中に投げ出され、未来は大混乱に陥る。


 な……なにッ!? どうなってるのッ!? 李軍はッ!?


 慌てて周囲を見回すと、目の前によく知った顔が見下ろしている。


「――気がついたッ!」

「おぉ! 未来――」「未来ちゃん!」


 それは、叶とかざり、そしてヂャン秀英シゥインだった。


「――ここは……」

「相変わらず地下街最奥部だ。たった今、張将軍の部隊が我々の救出に駆け付けてきてくれたところだ」


 見ると、未来の周りには他のオメガたちが同じように介抱されているところだった。まだ気がついていない者もいるし、うっすらと目を開けた者もいる。だが、みんなに共通しているのは、全員、ということだった。そんな――!?


「――士郎くんはッ!? 士郎くんはどこッ!!」

「中尉は――」


 叶が、思わず上体を起き上がらせた未来の肩を抱き留めながら、諭すように言った。


「――石動いするぎ中尉は、まだあの球体の中だ」


 それを聞いた瞬間、未来の顔色がサーッと変わった。


「――うそッ!? 駄目、駄目よッ!! わたし……私もう一度、士郎くんと同期しなきゃ――」

「叶少佐! 周囲の重力場が、急速にレッドラインに近付いていますッ!」


 張の部隊――狼旅団の兵士が鋭く叫ぶ。


「いかんッ――もう時間がない! 将軍、オメガたちを直ちに搬送してくださいッ!」

「分かった! さぁ未来、おとなしく脱出するんだ――」

「いやッ! いやよッ!! 士郎くん! 士郎くんッ――」


 未来は血相を変えて起き上がろうとする。だが、同期明けの彼女たちは、おしなべて気力体力を失っていることが多い。今もフラフラで、未来の抵抗は赤子の如くだった。


「――さ、いきましょう未来さんッ」


 兵士たちに両脇を挟まれ、半ば無理やりにその場を引きずり出される未来とオメガたち。それでも未来は、弱々しい仕草で球体の方を振り仰いだ。その瞳には、大粒の涙が溢れている。


「士郎くん、私の代わりに……自殺遺伝子を引き受けちゃった……」

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