第533話 デイジー

 叶の言葉に、四ノ宮は絶句した。

 そしてようやく彼女は、現在の最前線の深刻な状況を完全に把握する。


 どうやら李軍リージュンは、オメガチームに追い詰められ、異次元空間に逃げ込んだらしい。それは冷静に考えれば、実に狡猾な逃げ場所だ。

 だって、そもそも異なる次元というのは、その場に存在しているにも関わらず、普通の手段ではこちら側の世界――すなわち『現世うつしよ』――からは、見ることも触れることもできない場所だからだ。


 それはある意味『量子』の世界そのものだ。まったく同じ場所に存在し、完全に重ね合わされた状態であるにも関わらず、相互にはまったく干渉することがない。すなわち『エンタングルメント』の世界――


 それはつまり――こちらからの物理的攻撃がまったく通じないことを意味するから、これほど完璧な逃げ場所もないだろう。

 だが、ここで李軍を取り逃がしたら、もう二度と捕らえることはできない――


 だからこそ石動いするぎ士郎は、“げき”として覚醒したその能力によって、李軍をこちらの『現世』世界に引きずり出したのだ。引きずり出したといっても、李軍本人は異なる次元に居座ったままだから、その次元ごと引っ張ってきたというかたちだ。

 だからこそ『特異点』が生まれてしまったのだ。

 本来物理的に決して交わることのないはずの、異なる次元がこの世界に現出してしまった――


 当初、オメガチームは李軍とこのバケモノどもを、大和の艦砲射撃で地中深くに葬ろうとした。あらゆる物理攻撃を受け付けないと思われた彼ら異形の存在が地表に放たれてしまえば、それを撃退することはもはや不可能だと思われたからだ。

 そのためなら、石動は確かに自らも一緒に散る覚悟だったのだろう。


 だが結果的に、彼の作り出した『特異点』は想定外の事態を引き起こすことになった。異なる次元の物質同士が接触してしまうと、大爆発を起こしてしまうのだ。それは、この両者の物理法則が相互に通用しないことに伴う、事象の崩壊現象そのものだ。


 もしこれが太平洋のど真ん中だったり、せめてどこか人里離れた山奥であれば、まだ容認できただろう。半径数十キロは消滅してしまうかもしれないが、それでも李軍さえ斃せるのなら――


 だが、そこは東京駅の直下――つまり日本国のど真ん中だった。すぐ近くには皇居もあるし、なによりそこには数百万人の住民が暮らしている。

 これらを犠牲にしてまでも、李軍を葬ることだけは、どうしてもできなかった。局地戦に勝利して国が滅びたら、元も子もない。


 そのことに気付いた時、既に大和の艦砲射撃は二発目が放たれていた。誰もが手遅れだと思った。だが、それを奇跡的に迎撃したのはチェン美玲メイリン少尉だ。彼女たち戦車兵の英雄的行為により、東京は辛うじて、こうしてまだ存在している――


 そして今――


 宿敵李軍とオメガたちとの最終決戦は、『特異点』の中で行われている。

 『現世』世界の東京駅直下。地下60メートルの地下街最奥部にできた深い森のような地下空間のど真ん中に、ボッカリ浮かんだ漆黒の球体――


 その球体の中だけは、『現世』にあって既に『現世』ではない――異なる次元だ。


 もしかしたらそこは、つい先日まで作戦行動を取っていた、馴染み深い『幽世かくりよ』なのかもしれないし、もっと全然異なる、我々の知らない別の次元かもしれない。あるいは、かつて石動と未来が迷い込んでしまった、どことも知れぬ“次元の狭間”なのだろうか。


 いずれにしても、そんな得体の知れない異次元空間の中にいるのは、そこに逃げ込んだ李軍と――

 そしてそれを追いかけて追い詰めた石動士郎だけ……なのだ。


 その石動と一緒になって戦っている、未来みくを始めとしたオメガたちは、あくまで彼と同期しているだけの、ただの意識体だ。

 その物理的な肉体は、東京駅直下60メートルの地下空間の床に、今も確かに横たわったままなのだという。


 だから叶が、彼女たちの肉体の搬送を要請してくるのは、ある意味正しい判断だ。

 最終的に李軍を斃せたとしても、その結果この『特異点』はもしかしたら完全に消滅してしまうかもしれないからだ。そうなったら、この地下最奥部の空間は、一定範囲で巻き添えを食って一緒に消滅しかねない。


 ただ、現在石動と同期しているオメガたちは、その同期さえ解けばその意識は元の物理的な肉体に戻ることができるはずだ。だから叶としては、彼女たちの身体を安全な場所に退避させておこうと考えるのは、ごく自然なことなのだ――


『……石動は――本当に刺し違えるつもりなのか……!?』


 四ノ宮が、絞り出すように言葉を発する。


「……どうかな……実際、彼らは今、僕から見ても最善を尽くしていると思うよ……」

『先ほど……エピドラッグとか何とか言ってたな……』


 今までの遣り取りは、この戦場にいるすべての兵士たちがリアルタイムでモニターしているはずだ。ただ、分子生物学に理解のある兵士がどれだけいるか――

 恐らく殆どの兵士が、オメガチームの遣り取りの意味を理解できずにいるはずだった。叶は、すべての兵士たちに聞かせるつもりで、四ノ宮の質問に答える。


「あぁ……それは、李軍のDNAメチル化を解除する、いわばスイッチのことだ。今や彼は不死身の兵士だからね……外部からの物理攻撃は意味をなさないから、身体の中から破壊しようという作戦だ」

『メチル化解除というのは……?』

「簡単に言えば、人間の遺伝子の暴発を防ぐリミッターを解除する、ということだ」


 そう――人間のDNAの90パーセント以上は、その具体的な機能すらまだ解明されていないのだ。いわゆる「ジャンクDNA」と呼ばれるそれら未知のDNAに、いったいどれだけの潜在的な能力が秘められているか……

 ただし、そのすべてが無秩序に解放されてしまった場合、恐らく生物としてはその肉体を維持できないほどラジカルな反応を示してしまうだろうことは、容易に想像がつく。

 そして、今石動士郎がやろうとしているのは、まさにそれなのだ。


『――それで、今奴はどういう状態なのだ!?』

「――まずくるみちゃんの攻撃によって、李軍は自身の身体の導電性を極限まで高める羽目になった。恐らく心拍にも何らかのダメージを与えたはずだ。次にゆずちゃんの攻撃は、彼の肉体の新陳代謝を恐ろしく早めただろう。結果、今の李軍は普通の人間の数百倍の速度で老化していってるはずだ。果たして彼が身に着けた『不老不死』能力が、それに追いつくかどうか――」

『今奴が動きを止めているのはどうしてだ!?』

「あれはキノちゃんだ。恐らく彼女は、その恐るべき神経伝達速度を支えている彼女自身のアドレナリンを、エピドラッグとして李軍に叩きつけたんだ。その結果、李軍本人のノルアドレナリンが大量に分泌され、さらにチロシン水酸化酵素遺伝子がノックアウトされ、最終的にドーパミンが体内で生成されなくなった――」

『待て待て、何を言っているのか、殆ど理解できないぞ!?』


 叶としては、これでもかなり分かりやすく説明しているつもりなのだ。そうか……専門用語を使うから難しく聞こえるんだな……

 叶はあらためて言い直す。


「まぁ……簡単に言えば、生物の動作を司る生体物質であるドーパミンを欠損させることで、いわば電池切れの状態を作り出したんだ」

『そんなことが……』


 『ドーパミン』というのは『アドレナリン』と同様、神経伝達物質の一種で、俗称“やる気物質”とも、“快楽伝達物質”とも呼ばれている。気持ちいいこと、幸せなこと、嬉しいことを経験すると、脳内に大量に分泌されるからだ。

 だが、実際はそんなお花畑な物質ではない。『ドーパミン』はそもそも、生物が生きるためには必須の物質で、体内にこれが生成されないと、あらゆる気力が起こらなくなる。それは、ものを食べなくなるとかいうレベルではなく、そもそも動くことすら億劫になって、そのまま生ける屍状態となり、やがて本当に死んでしまうくらいなのだ。

 先ほどから李軍がピタリと動きを止めてしまったのは、そのせいだと思われた。恐らく今、途轍もない虚脱感に襲われていることだろう。


 だから先ほど、キノちゃんが言ったのだ。これは明らかに身体機能の低下だから、そのうち彼の『人体再生能力』が発動するはずだと――


「今、オメガたちは自分たちの働きかけが奴にいったいどんな作用を及ぼすのか、まったく分からないままに攻撃してるんだよ。だが肝心なのは、彼の肉体がこれで混乱し、暴走を引き起こすことなんだ。その先に何が起きるのか、それは分からない。だから――」

『だから石動は、頃合いを見てオメガたちとの同期を解こうとするだろう、ということなのだな……』

「あぁ――さすが東子ちゃん……察しがいいね。そして彼はそのまま、李軍と刺し違えるつもりだ。その時、オメガちゃんたちを安全地帯まで避難させておくのは、彼との暗黙の約束だ――」


 その遣り取りをずっと隣で聞いていた文は、絶句していた。

 そんな……そんなことって――


  ***


「――士郎……私は、どうやって奴にアプローチすればいいのか、皆目見当が付かん……」


 久遠が困り果てた様子で士郎に助け舟を仰ぐ。彼女の異能は、その皮膚の色素を自由自在に変化させることによって、疑似的に光学迷彩のような効果を発揮するという代物だ。

 それは突き詰めてしまえば、無意識に出来てしまうことだから、自分以外の誰かにその能力感覚を叩きつけるということがどうしても出来ないのだ。


「……そうか……うん、じゃあ……俺と一体化してみないか……」


 士郎は、まるで久遠の保護者のように優しく語りかける。


「……一体化……?」

「あぁ、お前が自分一人でどうしていいか分からないなら、俺が一緒になって試してやる。確かにお前の能力は、第三者に向けて浴びせるような代物じゃないからな」

「そ、そうだな……でもどうやって――あっ……」


 言いかけたところで、士郎はグイっと久遠を抱き寄せた。

 抱き寄せたといっても、オメガたちは実際にそこに物理的に存在しているわけではない。だからあくまでも、そういうイメージを士郎が頭の中で生起しただけのことだ。

 だがこの世界は、自分が“そうあれ”と願ったように物事が造り上げられていく場だ。士郎の想像は、あっという間に現実となり、久遠は士郎とぴったりその身体を重ね合わせる。


「……す……すまん、こんな時に……」


 久遠は顔を赤らめると、少しだけ視線を逸らした。すぐ目の前に、士郎の顔があったからだ。それどころか、彼女の身体はしっかりと士郎に抱き締められていた。太腿も、二の腕も、いつの間にか絡み合っている。ぎゅっ――と両掌が握り締められる感触が伝わってきた。


「――いいんだ……どっちみち、今オメガたちは全員、既に俺と一体化してるんだ。お前たちは、そこに向かい合っているようでいて、とっくに俺と合一してる。だから、お前たちが傷つけば俺も痛いし、俺の感情はそのままお前たちの感情になっているだろ……?」


 そう――だから、本来ならとっくに、オメガたちはこうして士郎と重なり合っているのだ。それを自覚していなかっただけで、既に一人と五人は、主に心の部分で深く繋がっている。それはまるで、さまざまな色のデイジーの花束を、その胸に抱いているようなものだ。


 白いデイジーの花言葉は「無邪気」だ。それはさしずめ、ゆずりはだろうか。黄色のデイジーは「ありのまま」。亜紀乃にぴったりだ。青いデイジーは「幸福」――これは、士郎といるだけで幸せと言ってくれる、くるみのことだろうか。「希望」の花言葉を持つピンクのデイジーは、きっと未来みくのことだ。

 そして、久遠は赤のデイジー……花言葉は「無意識」。

 士郎が、久遠に対してだけ抱き締めるようなイメージを敢えてしてみせたのは、彼女の自覚が他の子より少しだけ、弱かったからだ。


 気がつくと、久遠はいつの間にか気配を感じていた。自分のすぐ隣に、くるみや楪、亜紀乃、そして未来が、やはり同じように士郎と重なり合っている、そんな気配だ。

 誰もが、とても満ち足りた、そして甘酸っぱい感情を心のどこかに抱いているのが、ようやく久遠にも伝わってきた。


「……み……みんなスゴいな……」


 久遠は思わず呟く。すると、士郎の愉快そうな感情がダイレクトに伝わってきた。


「あはは……お前が人一倍、晩熟おくてなだけだぞ!? さぁ、これで一緒に立ち向かえるな!? どうだ?」

「あ、あぁ――そうだな……やれそうだ。士郎、力を貸してくれ――」


 そう言うと、久遠と思われる感情の塊の奥から、何かヒリヒリとした感覚が湧き上がってくるのが分かった。

 これが……彼女が『不可視化』する時の……感覚――


 士郎は、その感覚を、余すことなく全身で受け止め始めた。途端――

 自分が周囲の中に溶け込んでいく感覚に浸り始める。あぁ……何て心地いいんだ……

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